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其ノ九

 日曜日、生理が始まった。周期通りだけど、私は重い方なので気持ちまで重くなる。ナプキンを替えてトイレから出ると、夕方のマンションは静まり返っていた。うっすらと暗さを持ち始めた室内が物寂しい。千夜子さんはまた昼過ぎからベッドの上で黙って丸くなっていた。そろそろ元気になる時間だろう。そういえば、千夜子さんは生理になったりしないのだろうか。女の人の姿をしているのだから、あり得ない話ではない。休日を限りなく怠惰に過ごす様子を見てから、人間ではない彼女の、人間らしい姿を想像するようになっている。

 下腹部の痛みを紛らす為に、私は夕飯の用意を始めることにした。キッチンへ足を向け、小さめの冷蔵庫を開ける。昨日買ってきた食料は二日分で、その残りが十分に入っている。主菜の材料は、血を失うことに備えたわけではないが、鶏レバーだ。白い発泡スチロールのトレーと透明なフィルムに包まれた赤黒い塊を取り出す。フィルムを値段のプリントされたシールと一緒に破く。血の匂いが鼻をついた。そっと食材を手に取ると、ぬるりとした冷たさが伝わってくる。トレーごとシンクまで鶏のレバーを持って行き、流水でしっかりと血を洗い流す。淡いピンクの水が排水溝に吸い込まれていく。次に銀色のボウルを足元の収納から出して、蛇口の水を溜めた。洗ったレバーをその水にさらしておく。それから小鍋に水を入れて火にかける。沸騰するまでの間に、何度かボウルの水を替えた。お湯が沸いたので、水を切ったレバーを入れて下茹でする。白っぽい色に変わった肝臓をお湯から引き揚げ、もう一度真水にさらす。レバーの下処理を終えると、私は冷蔵庫に戻った。生姜とタマネギをひとつずつ、それから袋入りになったうずらの卵の水煮を用意する。野菜の皮を剥いて、生姜は千切り、タマネギはくし形に切る。うずらの卵は袋から出して水を切っておく。材料の準備は整ったので、下茹でに使った鍋を一度綺麗に洗う。洗った鍋には、水から揚げて一口大に切ったレバーと、千切りにした生姜を入れた。そこに醤油、お酒、砂糖、みりんといった調味料を加えて、火にかける。しばらくして鍋が煮立ったところで灰汁を取り、タマネギとうずらの卵を加えた。これで、あとは適度に煮詰まるまで待つだけだ。コンロの火加減を調節して、私は小さく息を吐いた。お腹の痛みは、少しおさまった気がする。

「血の匂いがするわね」

 声に振り向くと、千夜子さんがキッチンの扉の前に立っていた。今日は白い襦袢ではなく、私が貸してあげた、黒いTシャツとスウェット地のショートパンツを身にまとっている。

「ちょっとレバーを使って料理していたんです。そのせいかな」

 部屋の中に、もう血の匂いなんて感じなかったけど、千夜子さんの感覚は鋭いのかもしれない。特に血の匂いに関しては。

「そう……」

 何か言いたげにも見えた千夜子さんは、目を閉じて短く呟くだけだった。




 食卓におかずと白米の盛られたお茶碗、味噌汁を並べた。ご飯と味噌汁は私の分だけだが、主菜である鶏レバー煮は大きめの器に盛り付けて、取り分けるための小鉢を二つ用意した。千夜子さんが食べてくれるかどうかはわからないけれど、彼女の席にだけ何も置かないのはやはり落ち着かない。ついでに、料理との相性は悪いと思いつつもポットにお湯を入れ、インスタントコーヒーの瓶とクリームのポーションを彼女の席の脇に準備した。

 湯気の立つ温かい食事を挟んで、私は千夜子さんと向かい合って座っている。彼女は白いマグカップに自分でコーヒーを入れる。私は木の匙で自分の小鉢に鶏レバー煮を取った。醤油の香ばしさが、立ち上る湯気と一緒にふんわりと膨らむ。ウッドスプーンを器に返し、濃厚な飴色に照りのついた鶏レバーに箸をつける。口に含むと、甘辛い煮汁が舌を包み、生姜の爽やかな香りと辛味が後を追って口の中で広がる。レバーは滑らかな舌触りで、シャクシャクとしたタマネギの食感との対比が口の中で嬉しい。ぼそぼそにならずに、臭みもしっかり抜けていたので、とりあえず満足な出来だった。濃いめの味付けに、白米の丘を切り崩すのも捗る。嚥下とともにじんわりとした温かさが胃に降りていくと、下腹部の鈍痛が和らぐ気がした。

 私の二杯目をよそおうとした手が、千夜子さんの指先に触れた。彼女の手もレバー煮に添えられた木製のスプーンへ伸びている。

「いいかしら」

 驚きで上げた視線が、琥珀色に捕まった。

「はい、もちろん」

 自然に答えたつもりで、頬は緩んでいる。

 二人の小鉢に、蛍光灯の光を反射して輝く茶色い粒が取り分けられる。千夜子さんは綺麗な箸の使い方で、そのひと粒を摘んだ。艶っぽい口に含み、もくもくと咀嚼する。味の感想を聞いてみようかな、なんて私はひとり浮かれている。

「咲良」

 千夜子さんに名前を呼ばれると、鼓動が早くなった。

「あの、もしかして口に合いませんでしたか?」

「咲良、私、いつまでもあなたの巣には居られないわ」

 彼女の言葉に、私は手に持った箸を落としかけた。刹那に想像してしまったこの先の展開を、頭が、心が拒絶する。

「そんなに、不味かったですか」

 だから、うわずった声でおどけてみせる。まさか、と千夜子さんは微笑んだ。その表情の優しさが、痛い。

「料理の話じゃないの。私は、咲良に立ち入りすぎてる。いえ、違うわね。咲良の中に深く踏み込むのを我慢できそうにない、と言った方がいいかしら」

 あの日、初めて会った夕暮れから、確かに私と千夜子さんの距離は近くなっている。

「それは、別に構いません。いつまでもここに居てもらって良いですし、私は、何も……」

 他人に壁を作りながら生活してきた私だけど、千夜子さんにならその壁を越えられても厭わない。彼女は、ヒトではない彼女が、初めてそう思える相手だった。

「これからも私と居るなら、きっとあなたは闇から逃れられなくなる。飲み込まれてしまうかもしれないわ」

 千夜子さんが闇なら、飲み込まれるのも悪くない。逃げたいなんて思わない。私は彼女の餌でいい。松沢恵理達に汚いバケツの水を頭からかけられる生活の方が、ずっと暗くて、痛くて、辛いのだ。

「私は……千夜子さんと……」

 喉が焼けるように熱い。一緒に居たい、その一言を音にするのがひどく難しい。

「咲良、あなたはヒトだわ。綺麗な心のヒト。闇と共に生きることの意味を、よく考えてみることね」

 千夜子さんは箸を置き、席を立つ。揺れる黒髪の背中は、私の部屋へ消えていく。食事はもう喉を通らない。キッチンに残された私は千夜子さんの言葉を受けて、考える。いや、考えるまでもない。私の答えはひとつしかない。立ち上がり、残った鶏のレバー煮にラップをかける。きっとまた、二人で食べるはずだから。

 部屋のドアを開けると、仄暗い闇の中に千夜子さんが背を向けて立っていた。服装が学校の制服に変わっている。私の答え次第で、すぐに出ていけるように着替えたのだろう。ドアの向かい、カーテンの開けられたガラス窓には、街の夜景が星空になって映っている。

「どうしたんですか? 制服になんか着替えて」

 まだ少し、声が震えた。笑顔もきっと、上手く作れていない。

「わかっているでしょう」

 冷たい湧き水のように澄んだ声が、小さな波になって私の耳に届く。

「わかりません。また私を食べて、ベッドで一緒に寝るんじゃないんですか。その格好だと、制服がシワになっちゃいますよ」

 自然と紡ぐ言葉が早くなる。

「咲良……」

 彼女は私の名前を口にしたきり、押し黙る。私もこれ以上、虚勢の言葉を張れはしなかった。暗い部屋の中がひととき静寂に支配される。私達はその沈黙に、いくつもの感情を乗せていたように思う。

「私、千夜子さんと一緒がいいです。これからも、ずっと」

 幾星霜にも錯覚される沈黙の時間を、私は正直な呟きで終わらせた。

「本当に、いいのね?」

 千夜子さんが長い髪を闇に舞わせながら振り返る。爛々と赤く輝く双眸が、私を見据えた。

「はい」

 短く、しかし確かな決意で、答える。

「では、契約をしましょう。共に闇に生きるという契約。咲良、あなたの月の血を私に頂戴」

 彼女は暗い部屋の中、私をベッドに座らせた。

 契約。月の血。その言葉を理解しきらないまま、赤い瞳のいいなりになる。どんなことでも、受け入れる準備はできていた。

 千夜子さんは、座った私の正面に位置取り、床に膝をつく。脚と彼女の顔が近い。ふとももまでめくれ上がってしまったミモレ丈のスカートを直したくなる。だけど、私がスカートに触れるよりも先に、千夜子さんの白く細い腕が私の腰に伸びた。腕はスカートの中に這入ってくる。滑らかな指先がショーツの端に掛かった。ある程度の覚悟と予想はしていたけれど、その瞬間身体が硬くなる。

「嫌ならやめるわ」

 赤い瞳を上目遣いにして、最後の確認をされた。

「嫌じゃないです。続けてください」

 千夜子さんが、指先に力を込めると、ナプキンとショーツは私の身体から離れていく。

「咲良の血の匂い、すごく美味しそう」

 私は、彼女が何をしようとしているのか理解する。

 その夜、千夜子さんは私の月の血、経血を飲んだ。それは、私が千夜子さんと一緒に生きていく契りの儀式だった。

 千夜子さんの舌が這う感触に甘えながら、私は優しい闇に包まれていく。

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