其ノ八
土曜日を迎えた。事件の多かった一週間の学校生活を一区切りさせて、私は休日のベッドで目を覚ます。半身を起こして布団をめくると、隣で白装束の千夜子さんが丸まっている。枕を使わないで首とか痛くならないのだろうか。驚くほど彼女の寝息は静かで、大きな猫みたいだ。ベッドから降りて、全く起きる気配のない千夜子さんの上にそっと布団をかけ直す。部屋のドット柄のカーテンは開けずに、寝巻のままキッチンへと向かった。
ステンレスのケトルを火にかけて、口の広い陶製のマグカップ二つに目分量でインスタントコーヒーを入れる。あくびを噛み殺しながらお湯が沸くのを待つ。千夜子さん、起きてこないな。私は休日を寝て過ごすタイプではない。今も時間的には学校へ行く平日と変わらない。でも千夜子さんはお昼まで寝たい人、かもしれない。愛用のカップではない、もうひとつのマグにお湯を入れるべきか逡巡する。お湯が沸いた。甲高い笛の音と白い蒸気がそれを知らせる。私はケトルを火から下ろし、結局二つのカップにお湯を注いだ。
朝食を済ませ、自分の分のコーヒーを飲み干しても、千夜子さんが起きてくる気配はなかった。テーブルの上に置いた彼女の分のコーヒーは、ぼんやりとした春の暖かい午前に熱を逃がしている。
黒いお湯が完全に水に変わる頃合で、私は一旦自室へと戻った。ベッドの掛け布団が右側だけ盛り上がっている。どうやら千夜子さんはまだ眠りの中みたいだ。彼女を起こさないように気を付けながら、私は読みさしの文庫本を机の上から拾い上げた。床に座り込み、栞を挟んであったページを開く。カーテンを閉めたままの室内は薄暗いけれど、文庫の活字は読み取れる。ベッドの方を気にしながらも、本の活字を目で追い始めた。
その一冊を読み終えたのは、昼過ぎだった。本を閉じるのと同時に、モゾモゾと蠢くベッドの膨らみを視界に捉える。クリーム色の掛け布団がめくり上がり、艶のある黒髪が現れた。砂のようにサラサラと、何本か髪の毛が白い肩口から滑り落ちる。
「おはようございます、千夜子さん。ずいぶんとお寝坊さんですね」
「朝は苦手」
彼女は呟くように、そう言った。
「昨日も起きて学校、行ってたじゃないですか」
「無理していたのよ。闇の生き物だもの、夜行性なの」
ゆっくりと起き上がった千夜子さんは、少しふらつく足取りでキッチンへ向かった。私は読み終えた単行本を本棚に挿して、彼女の後ろについていく。
キッチンで、彼女が冷めきったコーヒーを手にする。片付けるのを忘れていた。
「それ、冷めちゃってますよ。淹れなおします」
「いえ、いいわ」
冷たくなった中身にポーションのクリームだけを入れて、やはりかき混ぜずに、紅く色っぽい口へと運ぶ。マグカップと同じくらい白い彼女の喉が、こくこくと小さく波打つ。私の生気とやらを吸っているときの千夜子さんもこうして喉を鳴らしているのかと、傍目に思う。彼女は常温のコーヒーを飲み干すと、カップを机の上に戻した。それからまたふらふらと、薄暗い部屋に戻っていく。
洗い物を済ませてから、部屋へ様子を見に行くと、千夜子さんは朝と同じようにベッドで丸くなっていた。ただ、眠っているわけではないようで、掛け布団は頭から被らずに体の下に敷いている。上品で凛としたイメージがあっただけに、これだけ盛大にだらけている彼女の姿は貴重に思えた。せっかくの休日を邪魔するのは悪いので、また部屋の隅で本でも読んでいよう。そう思って、私は本棚から積読本を抜き出す。
「咲良」
背後から名前を呼ばれた。
「はい」
本を片手に、私は振り返る。
「こっちへ来て。近くに居て頂戴」
丸まったままの千夜子さんのリクエストに応えるべく、私はベッドの横に移動する。床にお尻をつけ、ベッドにもたれながら新しい文庫本を開く。頭の後ろで千夜子さんの熱を感じる。彼女はそれっきり何も言わない。私も無言でページを繰る。
日が暮れて、夕食の買い出しに出かけるまで、休日の私達はずっとそうしていた。