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其ノ七

 薄く雲のかかる空の下、千夜子さんは私の手を引いて進んで行く。道ですれ違う人が、漏れなく彼女の綺麗すぎる容姿に注目している。昨日の夜から、千夜子さんの顔ばかり見ていたので感覚が麻痺していたけど、この人の美人ぶりはちょっと普通じゃない。テレビや映画でキレイキレイと言われている人と並んでも、おそらく遜色ないだろう。というか、投票制だったら私は千夜子さんに一票入れる。道行く人が目で追ってしまうのも無理はない。ただ、その麗人に手を引かれて隣を歩くのはなかなかに恐ろしい。集まる視線が、彼女と私の顔を見比べている気がする。私はなるべく足元を見て歩くようにした。こんな地味な女が隣で、しかも手なんかつないじゃってゴメンナサイって感じだ。胸中卑屈な私の半歩前で、千夜子さんは磨かれた黒曜石みたいな光沢の長い髪をふんわりと風に流している。果物を潰して濃縮したような甘い匂いは、私の部屋に残っていたそれと同じだ。たぶん、香水やシャンプーではない。餌を引き寄せるために、蠱惑的な香りを彼女自身が発しているのだろうか。私はまんまとその罠に囚われている。

 周りを見ないように俯いて歩いていても、通い慣れた坂道の雰囲気は伝わってくる。千夜子さんの踵が刻むリズムに合わせて一歩進む度に、一人、また一人と同じ制服を着て同じ学校を目指す女生徒の靴音が増えていく。彼女達は、私のことはもちろん知らないだろうが、千夜子さんのことはほぼ皆が知っている。見ず知らずの通行人が見るのとはまた違った目が、私と千夜子さんに注がれているのがわかる。私は肩を竦めて、ローファーのつま先を凝視する。

 もう校舎が視界に入るだろうという頃には、何人かの生徒が千夜子さんに朝の挨拶をするようになっていた。さすがに「ごきげんよう」なんて仰々しい挨拶はないけれど、フランクに片手を上げて駆けていく子や、しとやかに会釈をする子、勇気を振り絞って千夜子さんの名前を呼ぶ恥じらいの乙女もいた。孤高の美人という評価を聞いていたけど、社交的な人気もあるのだなと感心する。彼女達は、千夜子さんの左手とつながった私の右手をどんな風に見ただろうか。私は松沢恵理の、あの嫉妬と憎しみで真っ黒な棘になった目つきを思い出した。私は千夜子さんの餌で、彼女にしてみたらお弁当を左手に提げているのと変わりないのだ。それを羨望や妬みを含んで見られてはたまらない。私はすぐにでも手を振りほどいて走り出したかった。でも、そんなことは出来るはずがない。お弁当は勝手にどこかへ行ったりはしない。少し湿り気を帯びて重たくなった朝の風が、何度もつないだ手の甲を撫でた。

「おはようございます、千夜子様。あの、そちらの子は?」

 何人目かの挨拶で、ついに私に直接話題が向いた。私はまだ地面と顔を突き合わせている。俯きすぎて、胸の辺りが窮屈になり、苦しい。

「この子、白井咲良っていうの。私の恋人」

「えっ」

 臆面もなく言い放った千夜子さんの言葉に、私と話を振った女生徒が驚きの声を上げたのは、ほとんど同時だった。思わず垂れていた頭も上がる。千夜子さんの右斜め前に、清潔な黒いショートカットと半月型の目が印象的な背の高い女の人が立っている。灰色のブレザーから覗くリボンの色は、千夜子さんと同じワインレッド。この人が話を振った主だろう。名前はもちろん知らない。彼女は驚きで口が半開きになっていた。気付けば、近くを歩いていたグレーの制服の幾つかも足を止めている。なんだかまた厄介なことになりそうな気がした。

 千夜子さんは手を引っ張り、ショートカットの生徒の前に私を押し出す。それから私の肩に手を回し、癖っ毛の頭に彼女の白い頬を寄せた。

「可愛いでしょう」

「え、ええ……」

 ショートカットさんはぎこちなく返事をする。当然の反応だ。千夜子さんと私が恋人として釣り合うと見る人はいないだろう。それから二人は二言三言会話をしたが、その間ずっと千夜子さんは後ろから抱きつくように私に密着していた。甘い匂いが霧のように私を包んでいたせいで、彼女達の会話はもうはっきりと聞き取ることができなかった。


 千夜子さんと昇降口で別れ、教室の前で古い木の床板を踏んでいると、数人の生徒が駆け寄ってきた。中には顔見知りのクラスメイトも混じっている。この場所、この雰囲気は昨日と同じだ。私の名前を知っている生徒の一人が、興奮した様子で開口した。

「白井さん、千夜子様とお付き合いしてるって本当?」

 女の子の噂が流布するスピードは光速よりもちょっとだけ遅い。そして、それよりもずっと遅い頭の回転で、私は必死に上手い言い訳を考えていた。

「ごめんなさい」

 上手い口上はさっぱり見つからなくて、頭の中が焼き切れそうだった。私は何に対しての謝罪かもわからない台詞を吐いて、廊下を駆け出す。下手なことを口にする前に逃げ出したかった。けれど、五メートルも走りきらないうちに、廊下の脇から人影が現れた。ぶつからないように足を止めたせいで、私は前につんのめる形になる。バランスを崩し、そのまま前に現れた人の豊かな胸に頭から突っ込んだ。あの甘い香りが、また私を包む。

「皆さん、私の咲良をあまりいじめないで頂戴ね」

 ガラス細工のような透明感の声が頭の上で響いた。腕が私の背中に回される。制服越しに顔に感じる、柔らかな脂肪と乳腺の集合体の圧力が少し強まる。抱き寄せられたのだと理解するまでに、わずかばかりの時間を要した。

「千夜子様、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

 私を引きとめようとしていた女生徒達がたじろぎ、そう答えたのを背中で聞く。

「わかっているわ。興味が勝ってしまっただけよね。でも、私と咲良のことは私達二人の秘密。そういうことにしておいてもらえるかしら」

 幼子に対する母親のごとく、千夜子さんは優しく諭す。その腕の中で、私はモゾモゾと身体を捻り、双丘から顔を引き離して振り返る。さっきまで私が立っていた場所で、元気の良かった女生徒達が、大人しく首肯するのが見えた。

 その日はそれ以降、辟易するような追及がされることはなかった。千夜子さんが方々に口添えしたとも考えられないので、やはり朝のことが話のタネになって伝播したのだろう。頬杖をついて、目だけで教室を見回す。皆、黒板に書かれたカタカナの名前をノートに書き写している。この日最後の世界史の授業は冗長で、退屈だ。

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