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其ノ六

 口の中が沁みるように痛い。その感覚で私は目を覚ました。カーテンの間から、外の世界の明るさを知らせる光が射し込んでいる。覚醒しきっていない頭で、夢と現実の境界を探す。もう、全部夢だったんじゃないか。そんな気さえして、寝返りを打とうとしたが、ベッドの上がいつもより狭い。掛け布団をめくってみると、真っ白い襦袢に身を包んだ千夜子さんが丸くなって眠っていた。こんな服どこに持っていたのだろう。彼女は手荷物の類を、鞄さえも持っていなかった。かといって、まさか制服の下に着ていたわけではないだろう。謎は残るが、千夜子さんの寝顔がとても気持ちよさそうだったので、考えるのをやめて些事には目を瞑った。

 私は千夜子さんを起こさないように、スルリとベッドから抜け出す。二本の足で立つと、ようやくしっかり頭が働きはじめた。少し体は重いけど、意識は不思議と爽やかだ。学習机の前に移動し、机上で充電していたスマホを使って時間と日付を確認する。時間はいつも学校へ行くために起きる時間と変わらない。日付も、ごく普通に一日だけ進んでいる。千夜子さんが、生気を吸ったら丸一日起き上がれないと言っていたのは、私を脅かして面白がっていたのだろうか。それとも私を気遣って、食事の量を加減してくれたのだろうか。もしそうなら、ちょっと申し訳ない。学校なんて休んでもいいのに。

 洗面所に向かった私は、水道水で口をゆすぐ。やはり、右頬のあたりが沁みる。口の中に、記憶にない傷があるようだ。それ程ひどい痛みでもないので、我慢して歯磨きをはじめる。最後に口をゆすいで吐き出した水に、ほんの少しだけ血が混じっていた。

 口内の傷が気にかかり、朝食を摂ろうか迷ったけれど、結局私はキッチンで食パンを焼く準備をしていた。テーブルの上に置いた銀色のポップアップ式トースターは、二枚同時にトーストできるようになっている。いつも片方の口にしかパンを入れたことがなかったけど、今日は初めて二枚の食パンをセットした。レバーを下ろして、白いパンに焼き色が付くのを待つ間、ケトルのお湯で二つのカップにインスタントコーヒーを用意する。キッチンにコーヒーの香りが広がったところで、ようやく千夜子さんがこの朝食を食べないだろうということに思い至る。トースターが音を立てて二枚のきつね色を吐き出した。

 なんだか気が抜けて、自分のカップに入れたコーヒーを少しだけ口へ運ぶ。そこに、制服へと衣装を替えた千夜子さんがやって来た。

「咲良、あなた……」

 彼女は驚きとも、訝しみとも取れる声色で、私を呼んだ。

「ごめんなさい、あの、朝食、いらなかったら片付けます」

 思わず謝ってしまった。彼女に対する怖さが、まだ私の中にあるのだろう。

「そんなことより、身体は大丈夫なの? 起きていて平気?」

 千夜子さんは私の身体を、顔色を、注意深く観察しているように見えた。

「はい、少し怠さはありますけど、特には」

「驚いた。昨夜かなりの生気を吸ってしまったから、二日くらい寝たきりになってしまうかと思っていたのに。もしかしたら私達、相性がいいのかも」

「相性、ですか」

「稀に血や生気の性質が私と合う人間がいるの。そういう人間は殺すつもりで食べても、生きていたりする。咲良もそういう人間の一人だと思うわ」

 ということは、千夜子さんの餌として私は結構上等なのかもしれない。うっかり食べすぎで殺されてしまうこともなさそうで、少し安心する。

 千夜子さんは椅子を引き、キッチンのテーブルに置いてあったもうひとつのマグカップを手に取る。湯気の上がる黒い湖面を、興味深く覗いた。

「これは?」

「コーヒーです。インスタントの」

「こーひー……」

 覚束ない横文字を復唱してから、彼女は腰を下ろしてカップの中身に口をつける。

「……苦いわ」

「砂糖、入れますか? クリームもありますけど」

 卓上の、角砂糖の入った砂糖壺とポーションのクリームを差し出す。千夜子さんはポーションの蓋を剥がして白い液体を黒に注いだ。私は仕事のできない召使いみたいに、慌ててコーヒースプーンを探そうとしたけれど、彼女はカップの中身をかき混ぜないで飲み始めてしまった。

「なんだか、懐かしい味」

 どうしてコーヒーが懐かしい味なのか、食生活が全く違う私にはわからない。けれど、とにかく千夜子さんはコーヒーがお気に召したようで、その後もう一杯おかわりをした。トーストには結局手をつけなかったので、二枚とも私の胃に送られた。食べ過ぎかな。少しだけ苦しい。

 その後、キッチンでのんびりコーヒーを飲む千夜子さんを残して自室へ引き上げ、制服に着替えた。体に不調がないので、惰眠の予定は残念ながら諦めるしかない。それとなく部屋の中を見回してみるが、千夜子さんの着替えの痕跡は見当たらない。白い襦袢もどこへ消えたのか、見つけることができなかった。彼女がこの部屋で寝て、着替えたという確かな事蹟は目に見えなくて、ただ私の部屋に似合わない甘い薫香が漂っていた。

 準備を終えてキッチンに戻ると、ちょうど千夜子さんがコーヒーの最後の一口を飲み終えたところだった。彼女は空のカップを手に席を立つ。私はそのカップを受け取り、シンクまで持って行って水を流した。

「行きましょうか」

 シンクに立つ私の背中越しに、清澄な声が言った。

「はい」

 水道の蛇口を閉めながら、私は短く返事をする。

 ごく自然に、私と千夜子さんは一緒に学校へ行くことになった。

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