其ノ五
自宅に千夜子さんを招き入れながら、どうしてこんなことになったのか繰り返し自問する。答えなど出るはずがないのは、わかっている。それでもなんとか、先刻の衝動的な自分の行動を説明できる言葉を探している。千夜子さんはキョロキョロと灯りの点いたマンションの室内を見回していた。その仕草は、これまでの落ち着いた雰囲気とはどこか違っていて、意外であり、可愛らしかった。私はとりあえず手に提げていたコンビニの袋をキッチンのテーブルに置いてから、千夜子さんに椅子を勧める。彼女は素直に椅子を引いて座った。
「ここが、咲良の巣、なのね」
「家って言ってくださいよ」
ビニール袋の中身を取り出したところで、私は気が付いた。食事が一人分しかない。
「あんまり量、ないですけど、半分食べますか?」
あくまで普通に、自然に、提案する。頭の中の私が、そうじゃないだろと突っ込みを入れた。
「人間の食べ物を、食べられないわけじゃないけど、ほとんど栄養にはならないわ。それよりも、十分に食事をとった咲良を食べたい」
そうだ。食事はちゃんと用意されている。コンビニで買ってきた私の食事と、私という千夜子さんの食事。彼女は自身の滑らかな黒髪の毛先を、指に巻きつけたりして弄っている。それは私が餌として供されるのを待っているようにも見える。
私は、どのように食べられてしまうのだろうか。痛いのは嫌だな、なんて妙な達観をしながら、コンビニのパスタを電子レンジに入れた。レンジが乗っかっている背の低い冷蔵庫は、どうせロクにものが入っていないので開けるのは止めておいた。記憶を失って人が変わってしまった松沢恵理や、黒い闇に飲み込まれてしまった名前も知らないあのおじさんのことを思うと怖いけれど、いまさらどうしようもない。そもそも、今の状況は私の行動の結果だ。千夜子さんは髪をいじりながら、琥珀色の目で私を見つめている。私は何も言えず、棒立ちでパスタが温まるのを待っている。長いようで短い一分が過ぎた。電子レンジが音を立ててそれを知らせる。温められた容器を取り出し、包装を解いた。蒸気と共にニンニクの香りが立つ。吸血鬼はニンニクが苦手というけれど、千夜子さんは大丈夫だろうか。横目で様子を窺うが、彼女は特に匂いを気にしてはいないようだった。
私は千夜子さんの向かいに座り、夕食を目の前に並べる。あさりのパスタ三百六十九円。野菜サラダ二百六十四円。ミネラルウォーター九十四円。最後の晩餐になるかもしれない食事としては、随分とつましい。とりあえずペットボトルに口をつけ、喉を湿らせる。
「千夜子さんに食べられたら、私は死んでしまいますか?」
小袋に入ったシーザードレッシングをサラダにかけつつ、勇気を出して自分の身の定めを聞いてみる。ドレッシングがわずかにテーブルの上に垂れて、白い汚れを作った。
「たぶん、死ぬことはないわ。でもすごくお腹が空いているから、それなりの生気を奪うことになる。明日一日は起き上がれないくらいに。だから、明日の学校はお休みね」
俯き加減の私の向かいで、千夜子さんの声が答える。学校を休めるなら、それはむしろ喜ばしいことだ。明日は一日寝て過ごそう。安心して楽観的になった頭で惰眠の予定を立てて、とりあえず最後の晩餐ではなくなった夕食に手をつける。
食べるものが違うとわかっていても、お腹を空かせた千夜子さんを前にして、一人だけ食事を摂っているのはどうしても申し訳ない気がした。なので、ほとんど味わうことをせずに手早く食物を胃へと送り込む。そんなせわしい私の食事に、千夜子さんは頬杖をつきながら静かな視線を送っていた。なんとか容器を空にして、ペットボトルの水で流し込み、ひと息吐く。落とした目線で、汚れたプラスチックの空容器を見つめた。これでいよいよ、私が食べられる番だ。千夜子さんは、今どんな色の瞳で私を見ているのだろう。体がこわばって、顔が上げられない。
「咲良、湯浴みをするなら先にしてきなさい。待っているから」
優しい命令が降ってくる。確かに、食事として供される私は清潔にあるべきだろう。汚れた容器をゴミ箱に放り込んで、私は浴室へ向かった。
衣服を全部脱いでしまうと、身体が変に熱っぽい。ぬるめのお湯の粒を体に当て、熱を流そうとするけれど、あまり効果はない。経験はないけど、初体験を迎える時ってこんな感じだろうか。髪と体を洗う時間が、いつもより長くなる。
お風呂から出て、着替えをすませても、体の芯は火照ったままだ。私は洗面台の前で歯ブラシを咥える。このままキッチンに戻って、千夜子さんが居なくなっていたらどうしよう。そんな考えが一瞬頭をよぎる。それは食べられてしまうより、ずっと恐ろしいことのような気がした。口をゆすいで、食事の匂いを完全に浄化してからキッチンへと戻る。私の考えはただの杞憂で、千夜子さんは変わらずキッチンの椅子に腰掛けていた。制服のブレザーを椅子の背もたれに掛けて、ブラウス姿になっている。真っ白な布地と漆黒の髪のコントラストが美しい。
「お待たせ、しました……」
「寝室へ行きましょうか」
髪を掻き上げながら、千夜子さんは立ち上がる。私は自分の部屋へ彼女を案内することにした。
私の自室に置かれたベッドは、無駄にセミダブルで寝ようと思えば二人で眠れる。マットレスも掛け布団も枕も、クリーム色のカバーで統一している。千夜子さんは掛け布団の上にそのまま私を寝かせた。いよいよという段になって、私の胸は破裂しそうだった。黙っていると自分の心臓の鼓動がうるさい。
「咲良、やっぱりすごく美味しそう」
千夜子さんは深紅の目で見下ろしながら、艶っぽく舌で唇を舐める。私はもう完全にまな板の鯉で、全身の力が抜けていた。
「久しぶりの、ご馳走ね」
覆いかぶさるように千夜子さんもベッドの上に移動する。甘い匂いが鼻腔から入り込み、クラクラする。肉体も、思考も、もはやひとつとして自由にはならない。千夜子さんが体を密着させてくる。吐息と、肌から感じられる温度が、熱い。私は堪えられずに瞼を閉じた。吐息が近くなり、口元に柔らかい感触が重なる。つるりとしたものが唇を割って私の中に入ってくる。思わずくぐもった声を漏らしてしまう。唾液が混ざり、舌が絡み合う度に、私の中にある生きるための力みたいなものが、吸い取られていく。千夜子さんのキスが段々と貪るようにエスカレートしていく中で、私の体は疲れきったような怠さに支配され、意識は次第に闇の中へと沈んでいく。
私のファーストキスは、随分と特殊なものになったな。薄れゆく意識の中で、そんなことを考えていた。