其ノ四
家に帰って、ベッドに寝転んでからどれくらいの時間が経っただろう。シワの寄った制服のまま、明かりを何も点けていない部屋で、薄闇を見つめている。ずっと、千夜子さんのことを考えていた。彼女はどうして、人間ではないなんて、あんなことを言ったのだろう。蒼い光や、松沢恵理の態度の変化についても結局わからないままだ。いくら頭の中で考えを回してみても、少しの光も見えてこない。
気分転換に身体を起こすと、私は空腹を思い出した。そういえば、考え事に夢中で夕飯の買い出しを忘れていた。部屋の照明を点けて、壁の時計を確認する。いつも利用しているお店の営業時間はとっくに過ぎていた。随分と長いこと思索にふけっていたようだ。あまり好きではないけれど、夕飯はコンビニエンスストアで調達することにしよう。制服を脱いで、黒いパーカーとデニムのショートパンツを手早く身にまとう。スッキリしない頭のまま、私は家を出て夜の街へと繰り出した。
街路樹が規則正しく並ぶ歩道に、ぬるい風がゆっくりと流れる。並木の花はおおかた散ってしまって、青い葉が茂っているはずだけど、街灯の類は少ないのでよく見えない。車道の方では原付がライトの光を筋にしながら、エンジン音を暗闇に響かせて道の先へと消えていく。視界の先で、コンビニの照明が夜に不釣り合いな白光を放っている。私は虫のようにその白い光へ吸い寄せられる。
ガラスの自動ドアが開くと、軽妙な電子音楽とやる気のないバイトの声が私を迎えてくれた。カゴを手に取り、店内を進む。あさりのパスタと緑の多いサラダ、ミネラルウォーターを順番にカゴへと放り込みレジへと向かう。一言も喋らずに千円札だけ出すつもりだったけど、バイトのお兄さんがパスタを温めるか聞いてきたので、「いいです」と一言だけ、ぼそりと呟いた。小銭とレシートを受け取り、白いビニールの袋を提げて、明るすぎる照明を後にする。
コンビニを出たところで、私は深呼吸をした。夜の空気が気管を通り肺へと流れ込む。意識と視界が少しだけ明瞭になる気がした。だからというわけではないが、暗がりの中で動く影を私は目の端で捉える。
「千夜子さん……?」
確かにその姿を見たという訳ではないが、うちの学校の制服と闇に溶けるような黒い長髪がどうしても彼女を連想させる。それに、こんな時間に、人が少ないこの通りを制服で歩いているのは普通じゃない。あの影は黒月千夜子だという、根拠のない確信が私の足を影の動いた先へと向かわせる。
テナントが入っているかどうかわからない、古寂びたビルとビルの間に、ひときわ暗い闇が伸びている。私は少し躊躇い、その闇の中へと踏み出す。すると、センサー式のライトのように、闇の奥で蒼い光が灯った。月明かりよりも青白く、狭い空間を照らす。真っ暗だった前方の視界が、わずかばかり確保された。光源にはやはりと言うべきだろうか、千夜子さんが立っている。胸の前に手をかざし、そこから光が生じているようだった。
私はもう一歩、二歩と奥へ踏み込む。もう十分に声を掛けあえる距離だ。
「どうしたの? こんな時間に」
私の方へ視線を向けずに、千夜子さんが聞いてきた。その声はどこか楽しげで、なおかつ落ち着いている。まるで、私がここへ来ることをあらかじめ知っていたような、そんな態度だった。
「それは、私の台詞です。千夜子さんこそ、どうして」
蒼い光を前になんとか正気を保ちつつ、私も問いを投げかける。
「私は夜の食事をしていただけよ」
千夜子さんの足元を見ると、大きな塊が転がっている。眼を凝らすと、それが人の体であることがわかった。白髪交じりの頭にくたびれた格好のおじさんのように見える。ピクリとも動かないそれを、千夜子さんは冷ややかに見下ろしていた。
「やはりダメね。こんな餌では」
ローファーのつま先で、倒れている人の体を足蹴にする。そして、警告灯のように赤く光る目が、こちらを向いた。
「餌って、どういうことですか。その人、大丈夫なんですか」
努めて平静に、声を絞り出す。手に提げたコンビニの袋がカサカサと小さく音を立てている。私の手が震えているのだろうか。千夜子さんはフフッと笑う。
「大丈夫ではないわね。もうすぐ死んでしまうもの」
赤い目から視線を外し、もう一度倒れた体を見る。私は声を失った。歯がカチカチと音を立ててぶつかる。体の震えが止まらない。
倒れた人の体に、コールタールのような強い粘度の黒が這い上がろうとしている。生き物のように、闇が動いている。
「私は肉は食べないから、こういう低俗なものが、食べ残しにいつも集まってくるの」
千夜子さんが足元に視線を戻し、そう言っている間にも、黒く蠢く闇は倒れた肉体を侵食していく。彼女の手から出ている光と、赤の眼光が混じり合って、一部が毒々しい紫の光に変わる。彼女は黒いものに覆われつつある体を、もう一度足で蹴った。まるで道端のゴミを足で乱雑に払うように。命を失いつつある人間を、まるで人間として認識していない仕草だ。
私は理解した。ああ、この人は本当に人間じゃないみたいだ。黒月千夜子は闇に生きる何か別の存在なのだ。昨日から澱のように心に引っかかっていた幾つかのことも、途端に納得できてしまった。
「不味そうだけど、血も飲んでおこうかしら。あまりに力が足りないわ」
千夜子さんが蹴ったことで、倒れた体の向きが変わり、わずかに顔の様子が窺える。目は閉じられていて、口の端から血が垂れているように見えた。足先から首元まで、すでに黒いものが粘液のようにこびりついている。千夜子さんは色を失った男の唇をじっと見つめていた。それを見て、なぜか私の胸は締めつけられるように痛んだ。松沢恵理にバケツの水をかけられるよりも、ずっと痛い。耐えられず、私は千夜子さんに駆け寄り、蒼く光る手を取った。どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。恐ろしいはずなのに。踵を返して暗い闇から逃げ出したいはずなのに。私は千夜子さんの手を握っていた。
千夜子さんは赤い瞳のまま、悟ったような優しい微笑みを浮かべた。
「あなたのこと、咲良って呼んでもいいかしら」
彼女は私の手を握り返しながら、場違いなことを聞いてくる。
「はい」
息を深く吐いてから、私はそう答える。
「咲良、あなたの巣へ、連れて行って頂戴」
私は彼女と手をつないで、暗い路地から抜け出す。背後で闇に飲まれていく屍体を振り返ることはしなかった。人ではない千夜子さんの手に、私は確かな温もりを感じていた。