其ノ三
頭に入らない授業を受けて、休み時間の度にクラスメイトから黒月先輩のことを聞かれ、久しぶりに松沢恵理に絡まれない平穏な昼食を摂る。普段と少し違う日常は、時間の流れが早い気がした。午後の授業を受けている時に、また額の熱っぽさを思い出した。黒板に書かれた数学の公式を無視して、自分の額に指先で触れる。私の指は、当たり前だけど黒月先輩の唇ほど柔らかくない。あの感触を思い出そうとしているうちに、黒板の公式は消されていた。私は諦めて真っ白な数学のノートを閉じた。
放課後、目立ちたくはなかったので、なるべく人目を避けて、私は黒月先輩との待ち合わせの場所へ向かった。人気のない校舎裏は、昨日と同じように斜陽が茜に照らしている。その人は目を閉じて、夕日に溶け込む赤煉瓦の壁に寄りかかるようにして立っていた。
「待っていたわ」
艶のある黒髪をかきあげながら、静かな、しかしよく通る声で彼女は言った。瞳は閉じられたままなのに、彼女は確かに私の存在を認識している。
「黒月先輩」
応えるように、私も声をかけた。
「千夜子」
私の言葉を遮って、彼女は短く、彼女自身の名前を口にする。
「えっ?」
「千夜子、そう呼んではくれないかしら」
胸の下で腕を組みながら、下の名前で呼ぶことを彼女は求めてきた。ブレザーのせいでわかりづらい胸の大きさが、少しだけ強調される。スカートから伸びる白磁のような脚はスラリと長い。顔が美しいだけではない。髪も、スタイルも、立ち振舞いも、黒月千夜子という人は、美の結晶のようだ。二人きりで対峙してみて、改めてそう思う。
「千夜子……さん」
呼んでから、顔が熱くなるのを感じた。彼女はまだ目を閉じたまま、口元だけでたおやかな笑顔を作る。
「朝も言ったけれど」
校舎の壁から離れ、千夜子さんはゆっくりと話を切り出した。
「私、あなたともう一度お話がしたいと思っていたの。昨日から、ずっと」
昨日から、ずっと。千夜子さんがそう口にした瞬間、私の身体は小さく震えだす。この場所で起こった超常の出来事がフラッシュバックする。
「あなたは、昨日ここで起きたことを覚えている?」
忘れるはずがない。
「もちろん……覚えています」
身体と同じように、声も震える。
「私が怖い?」
涼やかな声で、質問が続く。千夜子さんの手から蒼い光が出て、松沢恵理達はアスファルトに倒れた。その記憶が、何回も頭の中でリピートしている。時折吹く風が前髪を揺らし、額を撫でる。赤煉瓦とオレンジ色の太陽光に目が痛くなり、灰色の地面へと視線を移した。千夜子さんの質問に対して、私は沈黙を選び続けている。
「私ね……」
回答を待たず、再び千夜子さんは言葉を紡いだ。
「人間ではないの」
衝撃的な告白に、私は思わず視線を戻した。いつの間にか千夜子さんが目の前に立っている。背中に冷たい感覚が走った。
「何を……言っているんですか。冗談はやめてください」
私の声は相変わらず震えているし、千夜子さんは少しも表情を崩さない。
「あなたをいじめていた生徒、彼女達が少し変わったことに気が付いたでしょう」
「それは、はい」
松沢恵理達の態度の変化は、私の心に引っかかっていたことのひとつだ。千夜子さんの冗談はさておき、彼女達に何が起こったのかは少しでも知っておきたかった。
「彼女達の記憶と魂の一部を私が食べてしまったの。あなたを憎んでいた記憶、見下していた汚らわしい魂をね」
千夜子さんはゆっくりと眼を開いた。赤い瞳が、私を射抜く。
昨日と同じ赤がきっかけとなって、蒼い光と、倒れた松沢恵理の記憶がより鮮明に頭の中で映像化される。
千夜子さんは人間ではなくて、松沢恵理達は記憶を失った。その筋書きは確かに、あまりに不自然な昨日からの出来事を説明できる気がする。しかし、そんなことはあり得るはずがない。信じられるはずがない。
「もう一度聞くわ。私が、怖い?」
赤い眼光が燃えるように煌めき、私に問いかける。
「怖くはありません。だって……」
だって冗談でしょう。自分に言い聞かせるように、そう言葉にしようと思うのに、声が出ない。
「あなたって、本当に美味しそう」
千夜子さんが、相好を崩した。
「あの、本当のことを教えてくれませんか。松沢さんに何か言ったんですか。千夜子さんはどうして私を……」
頭の中で整理のついていない疑問を、無理やり言葉にして口から押し出す。そうしないと、千夜子さんの言葉を信じてしまいそうだったから。
「すぐにわかるわ」
千夜子さんは私の唇の前に人差し指を立てて、言葉を遮る。そんな芝居がかった所作も、彼女には似合っていた。瞳に宿る赤を、夕方の風が流していく。琥珀色の宝石を色っぽく潤ませる千夜子さんは、それっきり何も言わない。
私の方も、言うべき言葉をすっかり失ってしまった。もっと聞かなければいけないことがあるはずなのに。昨日からのことは何ひとつ判然としていないのに。
「今日は帰るわね」
金魚みたいに口をパクつかせても、何も言葉が出てこない私に向かって、千夜子さんは吐息まじりにそう告げる。
「待ってください。私はまだ、何も……」
「まだ一緒に居たいけれど、これ以上あなたと居たら、我慢できなくなりそうだから」
千夜子さんは、私の脇をすり抜けて行ってしまう。熟れた果実のような香気だけをその場に残して。
私は引き留めるために振り返ることをしなかった。私には彼女の言葉の意味を考える時間が必要だった。考え事の時は振り返るのではなく、空を見るに限る。茜色が、濃紺に染めなおされようとしていた。