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其ノ二

 昨日のことは、あれは何だったのだろうか。

 一夜明けてから冷静になると、改めて恐怖を覚える。黒月先輩というらしい、あの恐ろしいほどの美人は、明らかに普通じゃなかった。赤く光っていた眼は夕陽のせいだとしても、彼女の手から発せられる蒼い光を私は確かに見た。それに彼女が何をしたのかわからないが、松沢恵理達は本当に気を失っていた。いや、倒れている彼女達達が気絶しているだけか確認したわけではない。もしかしたら死んでいたのかも。洗面所の鏡に映る私の顔から血の気が引く。しっかりと松沢恵理達の安否を確かめるべきだったのかもしれない。後悔の念と彼女達への憎しみが、吐き気に変わる。私は嘔吐感を呑み込んで、冷たい水で寝起きの顔を洗った。そしてもう一度、鏡に映った曇り顏を睨みつける。

「もう……何なの……」

 タオルで顔面の水滴を拭き取り、片手で癖毛の髪を軽く撫で付ける。使ったタオルは、足元の洗濯カゴに投げ入れた。それから、下着姿のままダイニングキッチンを通って自室まで戻る。自室の白い壁に掛けられた制服は、なんとか一晩で乾いてくれた。少しシワが寄っているが気にしないことにする。

 制服のブラウスにとりあえず袖を通したところで、ひどく気が重くなった。はっきり言って学校に行くのが怖くて、億劫だった。気分が悪いと言って休もうかな。そんな心の誘惑に負けそうになる。

 私は制服のブレザーとスカートを指でつまんでみた。どちらもやはり、昨日のことが嘘のように乾いている。それがまるで、学校へ行けと言っているようだった。私は大きく息を吐いてから、スカートを履き、ブレザーを着た。

 間違いなく乾いているのに、水を含んでいた昨日と同じように、重い。

 ふらつく足取りで、床に落ちた鞄を拾い上げる。背を丸め、のろのろと自室を出て玄関まで進み、靴箱から出たままのローファーにつま先を挿し入れる。買ってからまだ日が浅いのに、黒光りする革の表面にはいくつもの擦れた傷がある。

 私は、消えかかった火のように昨日の熱が残る額に、軽く触れた。ごく細い針で刺されたような痛みが頭と胸に同時に走る。誰もいない空っぽの我が家の薄暗さに、「いってきます」の一言をかけることをせず、私は扉を出て鍵をかけた。

 霧がかかったように、思考の輪郭がはっきりしない。

 脚だけが別の生き物のように、義務的に進んで行く。

 時間の感覚も判然としないまま、私はいつの間にか赤煉瓦を積み上げた校舎の昇降口に立っていた。灰色のブレザーと、同系色のチェック柄スカートが群れて、蠢いている。みんな糊の利いた制服のお嬢さんで、私のようなヨレヨレの格好をしている娘はいない。でも、私だって好きでこんなシワの寄った制服を着ているわけではないのだ。心の中で言い訳を繰り返しながら、二年生の下駄箱へと向った。

 そして、すぐに私の足は泥の沼に捕らわれる。クラスの下駄箱の前で、松沢恵理達が立ち話をしていた。目を伏せても、黄色い声はどうしたって耳から侵入してくる。私は彼女達が死んでいなかったことに、少し安心して、とても落胆した。体を小さくして、重い足を引きずりながら、自分の上履きを目指して進む。経験からいって、どうせ彼女達は私に気付いていながら無視をして、下駄箱の前から動かず、上履きを取らせないつもりだろう。私は彼女達がその子供っぽい嫌がらせに飽きるまで、じっと立っているしかないのだ。今日もそうやって無為に時間を過ごすのかと、嫌になる。

 けれども、私が彼女達の前に立つと、信じられないことが起こった。松沢恵理が道を譲ってくれたのだ。取り巻き達も彼女にならって下駄箱の前を離れる。私は恐る恐る自分の下駄箱へ近づいた。スチールの扉を開けて上履きを手に取ってみても、何か細工がされた痕跡は見て取れない。どういう風の吹き回しなのかと、松沢恵理に問い詰めることなど当然できるはずもない。私は靴を履き替えると、変わらず高い声で歓談する彼女達を横目で見ながら教室へと急いだ。

 気味が悪い。松沢恵理の態度は、いつものように嫌悪の棘を剥き出しにしたものではなく、私に特に関心がないように見えた。昨日のことについて、何も言及されなかったのもおかしい。別につっかかってきてほしいわけではないけれど、気持ちが落ち着かないのは確かだ。頭の中に、黒月先輩とその足元に倒れる松沢恵理という光景が、繰り返し浮かび上がる。私は拳で軽く額を叩き、足の運びを速めた。飴色の柱と床は木製で、壁と天井は漆喰の白という、レトロな趣の校舎の内観は見慣れているはずなのに、それさえもどこか違和感がある気がして、まともに見ることができない。はやく二階の教室までたどり着き、壁際の席で小さくなっていたい。それが私の日常なのだ。そう願いながら、幅の広い木製階段に足をかけた。

 階段を上りきった先、クラスの教室の前には、いつもより人が多い。それになんだか騒がしい。私はその喧騒を無視して、普段通り希薄な存在感のまま教室へと入ろうとした。にわかに喧騒が止む。突然の静寂に顔を上げると、教室の前の人だかりと教室内の生徒の視線が私に集まっている。思わずため息が出た。今日は、いや、昨日の放課後からおかしなことが多すぎる。

「白井咲良さん」

 昨日からずっと記憶に残っていた、忘れられない声が、雑踏を裂いて私の名前を呼んだ。人の海が割れて、中心にいたその人は私の前へと歩み出る。

「黒月……先輩?」

 黒く染めた絹糸のように光沢のある髪が上品に流れる。私は確かめるように、彼女の苗字を口にしていた。同時になんとなく、この女子生徒の集団と先程浴びた視線の意味を理解した。

「また会えてよかったわ」

 琥珀色の瞳を細めて、黒月先輩は私に近づいた。女生徒達から黄色いざわめきが起こる。私は、息の抜けるような惚けた返事をすることしかできない。

「……あっ、昨日は、どうも」

 昨日のことについて、何か言わなければ、聞かなければいけないと思っているのに、口からはしどろもどろな言葉しか出てこない。

 どういたしまして、と笑顔で答える黒月先輩が魅力的で、怖くて、額がまた熱くなった。

「白井さん、私ね、今日はあなたと二人きりでお話がしたいと思うの。放課後、付き合ってくれるかしら?」

 周りから再び黄色い声があがる。彼女はそんな雑音をまったく気に留めず、私の耳元へスッと顔を寄せた。一層ギャラリーが色めき立つ。急な接近に鳥肌が立った。

「あなたも、昨日のことが気になっているんじゃない?」

 糖蜜のように甘い声が、耳元でベタつく。私はうなだれるように小さく首肯した。黒月先輩は、待ち合わせの場所を告げることで私の耳をくすぐってくる。

「待ってるから」

 ほとんど耳たぶに唇が触れるんじゃないかという距離で、彼女は囁いた。それからすぐに身体を離した黒月先輩の表情は涼しい。棒立ちの私とざわめく衆人を残して、この場を離れていくその人の瞳が、琥珀色よりも鮮やかな赤に見えた。多分それは、あまりに馴れない状況を頭で処理しきれていない私の、目の錯覚だったんだろうけど。

 黒月先輩が去った後は当然、自分の席に着いてうつ伏せで小さくなっていたいという、ささやかな願いが叶うことはなかった。レトロで品のある校舎と女子校という環境にエスの幻想を抱いているとでもいうのか、普段話したこともないような女子達が私の周りを取り囲んだ。彼女達は嬉々として黒月先輩との関係を聞いてくる。松沢恵理達に囲まれている時とはまた違う居心地の悪さだ。昨日、ちょっと困っていたところを助けてもらっただけだよ。できる限り社交的にそう答えてから、逆に彼女達に黒月先輩のことを聞いてみた。

 彼女達によると、黒月先輩はその美貌のために校内では相当の有名人らしい。彼女達の何人かは黒月先輩のことを千夜子様と呼んだ。黒月千夜子というのが先輩のフルネームだと、そこで初めて知った。それから先輩は普段あまり積極的に人と関わらないタイプで、孤高の美少女、高嶺の花といった認識をされているのだという。話を聞きながら、改めて学校の生徒間のことを私は何も知らないのだなと実感する。

 その後も、名前もろくに知らない女の子達から、何を耳打ちされたのか、二人きりで会って何を話すのか等々の質問が飛んできた。なけなしのコミュニケーション能力を使って、曖昧な返事をしていると、松沢恵理達が教室へ入ってきた。私が話題の中心となっている状況は、間違いなく彼女の感情を逆撫でするだろう。そう思って彼女の睨視を覚悟したのだが、松沢恵理は特に興味も無さそうに自分の席へと向かった。やはりおかしい。松沢恵理の態度が昨日までとは明らかに別物だ。昨日の黒月先輩との事が何かしら関係していそうだけど、因果関係がはっきりとしない。そもそも昨日の出来事自体、理解できないことが多すぎるのだ。あの蒼い光の正体や、松沢恵理達が倒れた理由、彼女達の態度の変化、黒月先輩の言葉の意味。先輩と話をすれば、そういったことが判然とするだろうか。絶え間ない質問攻めの中で、私の意識はすでに放課後の密会へと向いていた。

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