其ノ十二
「あなたに興味があるのかもしれないわね、その子」
購買のパンに水分を奪われた口を、ペットボトルのミネラルウォーターで湿らせている私の横で、千夜子さんが言う。
「興味、ですか。でも、今日会ったばかりですよ」
昼休み、購買と自販機で昼食を調達した私は、約束通り体育館裏で千夜子さんと一緒に過ごしていた。今は体育館の裏口に上がるための段差に、横並びに腰を下ろしている。パンをかじる私の横で、千夜子さんは何も口にせず私を眺める。この後千夜子さんの食事の番が回ってくるのだろうけど、それまでの会話のつなぎに、私は今朝の留学生のことを千夜子さんに話していた。
「一目惚れかもしれないわ。そしたら、その子と私は恋敵かしら」
冗談交じりな千夜子さんの一言に、頬と耳が熱くなる。落ち着こうと手に取ったペットボトルの表面がやけに冷たく感じられた。キャップを外し、一口の水を喉に流す。サラダロールの残りを湿った口に押し込み、それをまた水で流す。全体の味もよくわからないままに、酸味だけが鼻から抜ける。丹念に口の周りを拭ったハンカチを、ブレザーのポケットに戻したところで、千夜子さんが私の肩に手を伸ばした。それが千夜子さんの食事が始まる合図だった。千夜子さんの艶やかな唇が私の顔に近づく。本当は歯を磨きたかったけれど、千夜子さんが嫌じゃないなら、私は身を委ねることしかできない。目を閉じると、柔らかい感触が唇に重なる。すぐに体の力が抜けていく。生きる力そのものを抜き取られているような倦怠感に、私は心地良ささえ覚える。左手からキャップをし忘れたペットボトルが滑り落ちて、足元に水溜りを作るが、そんなことはどうでもよかった。千夜子さんの唇と舌の感触に集中する。足元のペットボトルが転がるのを止めたタイミングで、千夜子さんが唇を離す。これまで経験した彼女の「食事」より幾分時間が短い気がした。これまでは精気を吸い尽くされるといった感じで、事が終わると私は気を失うように眠ってしまっていた。きっと千夜子さんが加減してくれたのだろう。まだ意識がはっきりしているせいで、離れていった唇の感触の名残が生々しい。
「ごちそうさま」
この光景も、誰かに見られていたら噂話の種だろうな。千夜子さんにとってはただの食事でも、客観的に見たら明らかにキスである。言い訳もできない。
「お粗末さま……でした」
私は私で、この口づけにほんの少しでも千夜子さんの情愛が乗っていたらどんなに幸せだろうかと高望みする。餌のくせに図々しい。この甘い千夜子さんの香りに包まれて、餌として隣に居られるだけで十分ではないか。そう自分を諌めて、高まった感情を平常心まで引き下げようと努力する。
「咲良」
千夜子さんが口元に指を添えて、私の目を覗き込む。
「はい」
優しい呼びかけに、私も静かに答える。まだ平常心まで少し遠くて、スカートの裾をキュッと握った。
「それで、あなたはその子の呼び出しに応じるの?」
千夜子さんの話題は、留学生のことに戻っている。感情の読めない微笑みの裏で、ほんのちょっとでもヤキモチを焼いていてほしい。これも私の高望みだ。
「そうしようと思ってます。断る理由も見つからないし、すっぽかすのもどうかと思うので」
「なら、私は先に帰っているわね。今夜お話を聞かせて頂戴」
千夜子さんの表情は変わらない。琥珀色の瞳は、相変わらず私を引き摺り込むように光っている。
「本当は千夜子さんと一緒に帰りたかったんですけど……」
私は俯いて、心情を吐露する。
「そうね。でも登下校を一緒にする機会なんて、これからいくらでもあるわ。私達は同じ巣に帰るのだもの」
下を向いたまま、千夜子さんの言葉を噛みしめる。彼女と同じ場所に帰れることを改めて自覚する。それだけで嬉しくて、胸の奥に小さな火が灯る気がした。私は顔を上げて笑顔を作る。上手く笑えているだろうか。
「はい。一緒に帰るのは明日の楽しみに取っておきます」
「良い子ね。それと、あなたは私のモノだから、もし本当に言い寄られても、ちゃんと断らないとダメよ」
千夜子さんは目を細めて、また冗談を言う。その言葉が彼女の本心だったら良いのに。私がそう切望していることを千夜子さんは知らない。体育館裏まで届くチャイムが、昼休みの終わりが近ことを知らせる。
「行きましょうか」
千夜子さんが私の右手を取った。私は足元のペットボトルとパンの空袋を左手で拾い上げ、彼女の手に導かれて立ち上がる。あれだけ勝手に色々と叶わない高望みをしていたのに、結局この手の感触に満足してしまう。千夜子さんが指を絡めてくる。ちょっと幸せすぎるかな。繋いだ手を見て、私はそんな風に思った。