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其ノ十

 身体が、心が熱い。微熱が私を支配している。私の内側が、肉も骨もドロドロに溶けていくような感覚。それはもちろん錯覚なのだけれど、契りの夜から明けた今も鎮まることなく続いている。私の中に籠もる熱に嫌悪はない。むしろ心地良い。これは彼女がくれたものだから。その名前を心に浮かべて、おぼつかない寝起きの意識で、求めるようにほんの少し手を伸ばす。

「千夜子さん……」

 自然と、意識の先にある名前が声に乗る。私の体温と同化した布団の中で、指先が冷たく柔らかいモノに触れた。指先のそれは小さくうごめき、妙に艶っぽい寝息を吐いている。私はその感触と、存在の確かさに安心する。

「んっ……咲良、もう起きたのね……」

 白い襦袢の彼女は、猫みたいに丸くなった寝相から寝返りを打つ。雪のように白く冷たい肌に、薄紅色の濡れた唇と磨き上げられた琥珀の瞳をのせた彼女の顔。怖いくらいに整ったその顔が、漆黒の髪をゆるくまとって私の眼前に近づいた。

「学校に、行かなきゃいけませんから……」

 本当はこのまま、千夜子さんとベッドの中に居たかった。現実の表面から剥離して、どこまでも堕落していきたかった。心にもない私の言葉を、千夜子さんが否定してくれるのを心の八割くらいが期待している。学校になんか行かなくてもいいと、千夜子さんが悪魔のようにささやいてくれるのを待っている。残りの二割は、そんな言葉はやって来ないのではないかという不安というか、予感。私はまだ重たいまぶたを頑張って開き、彼女の反応を待つ。

 千夜子さんは二つの琥珀をゆっくり白いまぶたの裏に隠す。こーひー、と彼女は静かにささやいた。寝起きでなくても、その言葉の意味をすぐに推しはかることは、きっと難しかっただろう。

「学校へ行く前に、またコーヒーを淹れてくれるかしら」

 二割の不安が的中して、私はひとりで勝手に気落ちした。千夜子さんは優しくない。私の期待通りに振舞ってくれる理想のお姉様なんかじゃない。でも、それでいいのだろう。結局、この彫塑のように美しい、人ならざるバケモノが、私には失いたくない存在で、だから血を与え契約を交わした。千夜子さんに理想の存在になって欲しかったわけではなく、ただそばに居て欲しいから。

 カーテンの隙間から入り込んできた朝日が、彼女の肌をより白く際立たせているようだ。目をつむったままの千夜子さんに、私はわかりました、と返事をした。彼女はきっと、またコーヒーにポーションのミルクだけを入れ、掻き混ぜずに口に運ぶのだろう。様子を想像するだけで、月曜の憂鬱な気分や、千夜子さんに誘惑されなかったがっかり感は、朝の空気に溶けて消えた。ひとりで寝ていた時よりも狭いベッドから抜け出し、私は軽く伸びをする。

「千夜子さんも、できるだけ早く起きてきてくださいね」

「努力してみるわ」

 白い襦袢が、丸くなりながらそう答える。私は頬を緩めながら、寝間着がわりのルームウェアを脱いだ。ハンガーに掛かった制服を手に取る時の気分が、いつものように重苦しいものでないことに私は気づく。これも千夜子さんという存在のおかげかもしれない。なんて、ひとり心の中で浮かれてみる。スカートのファスナーを閉めて、ブレザーのボタンを掛けると、部屋の隅の姿見に、見慣れた冴えない女子高生の姿が映った。制服のシワだけは慣れないアイロンのおかげで目立たなくなっているが、糊のきいた制服を着たところで面白味のない風采には違いない。それでも千夜子さんと契りを交わした自負からか、少しだけいつもより自分に自信が持てそうな気がした。私は部屋の隅へ移動し、今まで無用の長物になっていた鏡と久しぶりに向き合った。柄にもなく髪を指先で弄ってみたり、胸元のリボンの角度を気にしてみる。こんな慣れないことをしてしまうのも、全部千夜子さんのせいだ。千夜子さんがくれた不思議な熱に浮かされながら、私は身支度を終えてキッチンへ向かう。当の千夜子さんはベッドの上で丸まっていて、起きてくるにはまだ時間がありそうだった。

 コーヒーの為にお湯を沸かしている間、私はサイドボードの前で逡巡する。果たしてトースターに何枚のパンを入れるべきなのか。私の知る限り、これまで千夜子さんは朝食を食べていない。いつもコーヒーだけを飲む。いや、朝食だけでなく人間の食べ物という意味に於いては、ほとんど何も口にしない。彼女の餌はあくまで人間であり、私なのだ。それでも休日の夕食で、料理に箸をつけてくれたことを何かの記念のように私は心に留めていた。だから、もしかしたらまた一緒に食事ができるのではないかと期待してしまう。半透明の袋に入った食パンと卓上のトースターを交互に眺めてみる。スーパーで買った六枚入り百五十八円の食パンも、窓からの朝日を受けて眩しい銀色のトースターも、準備するべきトーストの枚数を教えてくれそうにはない。

「まぁ、いいか……」

 くだらないことで時間を使っていてもしょうがない。とりあえず袋からパンを一枚取り出し、トースターに入れる。千夜子さんがもし一緒に食べてくれるというなら、もう一枚焼けばいいだけの話だ。千夜子さんが起きてきてからもう一枚トーストを焼いていたら、学校に遅刻してしまうかもしれないけれど、そんなことはあまり気にならなかった。やはり今の私はどこか浮かれているだろうか。火にかけたケトルの湯気が、コーヒーを淹れろと急かしていた。

 コーヒーを淹れ終えてトーストも綺麗なきつね色になった頃合いで、千夜子さんがキッチンへやってきた。相変わらずどこにしまっていたのかわからない制服に着替えているが、表情はまだ少し眠そうだ。

「おはようございます。コーヒー淹れておきました」

 私の言葉に、千夜子さんは静かに笑みを浮かべる。胸の鼓動が寸分早くなった。

「ありがとう、咲良」

「あのっ……何か食べますか?」

 椅子に座った千夜子さんの前に、マグカップとポーションを差し出しながら尋ねてみる。

「いえ、飲み物だけでいいわ」

 千夜子さんはクリームをかき混ぜていないコーヒーをそのまま口に運ぶ。私は皿にのせたトーストを持って、千夜子さんと向き合うようにテーブルについた。食パンを小さくかじりながら視線だけを上げると、両手でマグを持った千夜子さんがチビチビとコーヒーを飲んでいる。

「もしかして、熱かったですか?」

 パンを皿に戻し、私は恐る恐る聞いてみた。

「そうね。今まで人間の食事なんて口にしたことがなかったから気づかなかったけど、もしかしたら猫舌、というやつなのかもしれないわね」

 コーヒーを舐めながら、なぜか面白そうに千夜子さんは自分の体質について呟いた。次からは少しぬるめにコーヒーを淹れよう。

「それよりも……」

 言葉を切ってカップから顔を上げた千夜子さんが、私の顔を覗きこむ。

「咲良、あなたなんだか面白い顔してるわよ。締まりのない」

 指摘されて初めて、自分の頬が緩みっぱなしなことに気づいた。千夜子さんのカップの持ち方やコーヒーの飲み方が可愛らしいからだ、とはさすがに口に出せない。

「き、気をつけます……」

「まぁ、可愛らしいからいいけれど」

 緩んだ頬が急激に熱を帯びる。琥珀色の瞳に射抜かれるのが恥ずかしくなって、顔を伏せパンをかじる。可愛いのはあなたのほうです、とのぼせた頭の中で訴えた。

 千夜子さんの甘言に浮かれに浮かれているうちに、いつの間にか家を出る時間が迫っていた。マグカップとトーストのお皿を流しに放り込んで、私たちは鞄を持って玄関口に向かう。千夜子さんと一緒に学校へ行くのはこれで二回目だけど、フワフワした気持ちがまだ夢の中で漂っているかのように錯覚させる。傷だらけのローファーだけが、千夜子さんと出会う前の生活の名残に感じられて、余計に夢と現実の境界が曖昧になる。靴を履き終え立ち上がる私に、ドアを開けた千夜子さんが手を差し伸べていた。私はその手を握り、感触を確かめる。夢ならずっと覚めないでほしい。彼女は私の手を引き、ドアの外へと導く。室外の陽気はもう随分と暖かい。その空気を吸い込みながら、玄関のドアに鍵をかけた。

「咲良、行くわよ」

 千夜子さんがまた、私の手を引く。彼女のなめらかな肌は春風にさらされて、寝起きの時よりも温かくなっている。まるで変温動物みたいだ。

「そうだ。今日の昼休み、あの体育館裏に来てくれるかしら?」

 握った手に意識を集中していた私は不意をつかれた。千夜子さんは今思いついたような口ぶりで笑っている。彼女の視線は握られた手でも、私の顔でもなく、前を見据えている。玄関前の通路に吹き込む風が、彼女の暗い髪をそっと撫でた。

「構いませんけど、あの……」

 どうして、と尋ねる前に千夜子さんは私の疑問を察する。

「決まっているでしょう。学生の昼休みなのだから、一緒にお昼ご飯を食べるの。あなたも昼食、持ってきなさい」

 にこやかな千夜子さんの提案は、確かに連れ立って登校する女子高生二人の行動としてはおかしくない。ただしそれはあくまでも一般的な、あるいはステレオタイプな仲良し女子高生の話である。わざわざ体育館裏を指定したことと、千夜子さんのいう食事の意味を考えれば、だいたい想像がつく。私は千夜子さんのお弁当にされるのだろう。ベッドの上で千夜子さんに食べられている時の情景が頭の中に再生された。学校でその行為が再現されるとしたら、さすがに恥ずかしすぎるので、手加減してほしい。

「わかりました……じゃあ、昼休みに」

 それでも断るという選択肢を持たないあたり、私にもすっかり餌としての自覚が根付いたのだろう。餌であることを誇らしく思いながら、千夜子さんの白くて指の長い手に引かれていく。マンションを離れ、街路樹の並ぶ歩道に出ると緑の匂いが風に乗って通り過ぎていった。朝の通学路が見せる彩光の豊かさに今更驚く。地面と向き合ってばかりではなく、顔を上げて歩くと色々な景色が見えてくる。普通に生活していれば当たり前のことなのだろうけれど、今まで地面とにらめっこばかりしていた私には、そんな当たり前のことが新鮮だ。千夜子さんと手をつないでいれば、こういう新鮮さを感じながら、今まで失っていた「普通」を取り戻していけるだろうか。たぶん無理だろうな、と私は思う。この手は人ならざるバケモノの手。その手に引かれ、闇に惹かれた私には、もう「普通」が遠い。それなのに、闇を隣に、世界がこんなにも明るく見える。松沢恵理の悪意で灰色だった世界とは別物だ。この景色が続くなら、「普通」じゃなくてもいい。頭の中で何かを割り切って、千夜子さんの手を握る力を少しだけ強くする。千夜子さんも握り返してくれた気がしたのは、きっと春の陽気が演出した錯覚だ。

 しばらく朝日の明るい路を歩き、学校に近づくと、見慣れた制服が歩道に目立ち始める。それに伴い、好奇の視線もチクチクと肌を刺すようになる。全く気にする素振りの無い千夜子さんの隣で、私も頑張って顔を上げ、上り坂の通学路をゆっくりと進む。千夜子さんとの契りが、私に少しの自信と勇気をくれたので、衆目にも耐えることができる。何人かの生徒が、恒例といった感じで千夜子さんに朝の挨拶をする。それから漏れなく繋がれた手と、私の顔をチラリと見遣る。今の私には俯かないのが精一杯で、彼女たちに笑顔を返せるようになるには、まだ時間が必要だ。

 千夜子さんが声をかけられる度、体を硬くして、握った手を繋ぎ直す。それを繰り返していると、いつの間にかレトロな赤煉瓦の校舎が目の前だった。手には少し汗をかいてきている。千夜子さんが不快に思わないか心配だ。そう思った途端、汗ばんだ手に絡んでいた細くて綺麗な指がほどける。

「あ……」

 思わず情けない声が漏れた。

「どうしたの?」

 先へ行こうとしていた千夜子さんが振り返る。いえ、なんでもないです。私は掌をスカートでこっそり拭きながら、曖昧に答える。

「まだ手を繋いでいたのかしら? でも、もう昇降口まで来てしまったから」

 千夜子さんが意地悪に微笑んだ。手汗が原因で手を振り払われたのではないとわかり、内心胸をなでおろす。

「咲良が教室まで付いて来たいというなら、まだ手を握っていてあげられるけれど」

「あ、いえ、そこまでは……」

 おどける千夜子さんに、私はしどろもどろになった。登校中の生徒たちがゾロゾロと集まってくる場所で、このやり取りを二人だけの秘密にしようというのは無理がある。恥ずかしい。とにかく、制服の集団に取り囲まれる前にこの場を離れる必要があった。

「えっと、それじゃあ昼休みに……」

「ええ、待っているわ」

 それだけの会話を交わした後、私は昇降口前に集まる灰色のブレザーに紛れて自分の下駄箱を目指す。なんだか逃げるようで、千夜子さんに申し訳ない気がした。

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