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其ノ一

 バケツの水を頭からぶちまけられるのも、三回目になると馴れたものだ。

 だから心臓の辺りが締めつけられるように痛いのは、

「あんたさー、黙ってないでなんか言ったらどうなの? キモイんだけど」

私に向けられた悪意が原因ではないはずだ。きっと急に冷たい水を身体に受けたせいだ。そうじゃなければ、不整脈かもしれない。帰りに病院に行こうかな。でも、こんなにびしょ濡れで行くと病院も迷惑だろう。やっぱり家に帰って着替えないと。

「やっぱし調子に乗ってるよね」

 問いかけるのではなく、断定するように松沢恵理は私を睨みつけた。彼女の取り巻き数人も、同じように鋭い視線を突き刺してくる。

 私は目を伏せる。制服のプリーツスカートから滴る水滴が、校舎裏のアスファルトにつくる染みを眺めた。夕暮れの茜色が照らす中、暗い色の染みはどんどん大きくなっていく。

「っあ……」

 声を出そうとすると、ひどく心臓が痛い。やっぱり病院、行った方がいいかも。

 松沢恵理の取り巻きのひとり、名前は知らないけど、髪を茶色く染めた背の高い子が、まだ中が乾ききっていない掃除用のブリキバケツを放り投げる。アスファルトの地面とぶつかって耳障りな音を響かせた。

 私の身体は小さく震えだした。春も半ばを過ぎてだいぶ暖かくなったとはいえ、夕方に全身ずぶ濡れはさすがに寒いよなぁ。濡れた上履きのかかとを上げると、ぐちゅりと音がした。

 胸の辺りはまだ痛い。

「その態度がホントイライラするだよね」

 別に、彼女に対して何かしら態度を取ったつもりはないけれど、松沢恵理は剥き出しの黒い感情を押し付けてくる。

 確か、松沢恵理のお気に入りである他校の男子生徒が、私に好意を持ったのがきっかけだった。別にその男子と何かあったわけじゃない。向こうが勝手に好意を抱き、松沢理恵が勝手に私を憎んでいる。まったく、迷惑な話だ。

 黙って俯く私に、松沢恵理とその取り巻きはイラだちを募らせているのがわかる。そんなに気に入らないのなら、私の前に立たなければいいのに。私だって早く帰りたいのだ。

 しかし、彼女達はしつこく、私を鋭い視線で突き刺す。

 憎しみやイラだちは結局ただのきっかけだ。最終的に彼女達は群れて、強者になりたいのだ。そんなことはわかっている。私はその為に必要な弱者、餌だ。

 頭の中で整理をつけてみたところで、いまこの現状が変わるわけではないけれど。

「はぁ……」

 おもわず洩れた私のため息を、ピリピリしていた彼女達は耳ざとく聞き取る。そして青筋を立てた。

 そのあと松沢恵理が金切り声で何かまくし立てていたけれど、内容は全然頭に入ってこない。私は静かに目を閉じた。頭が痛くなる声よりも、自分の体に流れる血流の音の方が大きく聞こえるような錯覚に陥る。私はその音を聞きながら、自分という餌が彼女達の攻撃的なクチバシについばまれているイメージを、頭の中に浮かべていた。人が人を餌として喰らうとき、どんな味を感じているのだろう。私がその味を、今まで味わったことのある味覚に照らし合わせて想像していると、松沢恵理の怒声が一旦止んだ。冷たい風が吹き、濡れた体が勝手に震えた。

「汚らしい魂ね。餌としても下等だわ」

 その時、とても澄んだ、ちょっと冷たい声が風と一緒に流れてきた。松沢恵理とその取り巻き達の声ではない。聴き覚えのない声だ。

 私はゆっくり目を開けた。

 私の前に立っている女生徒達から少し距離を置いた後方に、濡羽色の髪がなびいている。スラリとした体躯と、遠目でもわかる、綺麗すぎる顔立ち。その身を包んでいるのは、私や松沢恵理達と同じ、この高校の制服である灰色のブレザーとチェックのプリーツスカート。胸元のリボンの色が、私達よりもひとつ学年が上であることを教えてくれる。

 このとんでもない美人の先輩は誰だろう。私は濡れた頭を捻った。どうしてこんな面倒な状況に自分から関わろうとしているのか、私にはわからない。バケツの水を掛けられてずぶ濡れの女生徒と、それを取り囲む明らかにスクールカースト上位の生徒達という図。普通なら見て見ぬ振りするところだ。この先輩はよっぽどのお人好しか、それとも後輩のいじめに参加したいという歪んだ嗜好の持ち主なのか。

「黒月先輩……」

 突然声をかけられて、驚きと共に背後を振り返っていた松沢恵理がしばらくの間をおいて呟いた。この黒髪美人は黒月先輩というらしい。松沢恵理の知り合いだろうか。

「あの……先輩、これはですね……」

 松沢恵理とその取り巻き達は、黒月先輩の冷たい視線に射抜かれて、なんとか自分達の正当性を主張する言葉を探しているようだった。

「でも、とってもお腹が空いてしまって耐えられそうにないの。だから、あなた達みたいな下等な餌でも我慢してあげるわ」

 松沢恵理達の言葉を全く無視して、黒月先輩はよくわからないことを言った。私も、たぶん他の女生徒達も、黒月先輩の言葉の意味を理解できていない。

 黒月先輩は唖然とする私達を見て、微かに笑った。その微笑みが美しすぎて、どうしてか怖い。細められた目は、夕陽のせいか、赤く光って見える。その赤い眼光は、私と松沢恵理達から身体の動きを奪っていた。私は指の一本も動かせる気がしなかったし、あれだけ威勢の良かった松沢恵理達も微動だにしていない。

 凍りついたように静止する校舎裏で、黒月先輩だけがゆっくりと、人形みたいに動かない女生徒達に向けて、手を伸ばした。

 黒月先輩の手が青白く光りだす。目の錯覚や光の加減ではあり得ない、確かな光だった。明らかな超常の現象に、私は恐怖を覚えた。けれど相変わらず身体は全然動かないし、ぼんやりと光に包まれる黒月先輩の幻想的な美しさに目を奪われてしまい、その場から逃げ出すことはできなかった。

 黒月先輩が今度はにっこりと口角を上げて笑うと、蒼い光は急激にその強さを増した。私は眩しさで思わず目を閉じる。

「やっぱり‥……あまり美味しくないわね」

 閉ざした視界の向こうで、黒月先輩が残念そうに独りごちた。それから、ゆっくりと足音が私へ近づいてくる。私は恐る恐る目を開けた。

 目の前に、黒月先輩が立っている。黒く染められたシルクの髪をなびかせて。彼女の傍には、松沢恵理とその取り巻き達が倒れていた。理解を超えた状況に、私は唾を飲みこむ。濡れた制服のスカートから、ぽとりと水滴が落ちた。

「あなたは、この子達と違って美味しそう」

 黒月先輩は私を見据え、髪を掻き上げる。黙って立っているだけの私に話しかけるように、彼女は言葉を続ける。

「私ね、美味しいものは最後にとっておく方なの」

 さらに私へと近づいた黒月先輩は、私の顎へ手をやり、俯き加減の私の顔を上へと向かせた。先輩と目が合う。彼女の瞳はさっき見た赤い輝きではなくて、吸い込まれそうなな琥珀色だった。

「あなた、気に入ったわ」

 しばらく私の目を覗き込んでいた彼女はそう言うと、濡れて額に張り付いた私の前髪を指先で掻き分けはじめる。そして、あらわになった私の額へなぜか突然キスをした。私は動けず、言葉も出せず、ただその柔らかい唇の感触を額で感じた。

 黒月先輩はそっと私の前から離れ、身体を翻してその場から立ち去っていく。

 私は、何かその背中に声を掛けなければならない気がした。

「……あの」

 カラカラに乾いた口から、やっとそれだけの音を出すことができた。

 黒月先輩は首だけで軽く振り返り、上品に笑う。

「また、会いましょう」

 風と一緒に、消えるように先輩はその場から去って行った。その姿が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。しばらくして、もう一度風が吹く。その風で、私はようやく水をかけられた身体の寒さを思い出す。恐怖と寒さが混ざり合い、私はすぐにでもこの場を離れたい衝動に駆られた。足元に倒れている松沢恵理達を心配する気は起きなかった。水に濡れた靴下と上履でぐちゅぐちゅと音を立てながら、私は歩き出す。

 冷え切った身体のなかで、黒月先輩にキスされた額だけが妙に熱っぽく感じられた。

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