落涙の魔王
「なんの真似だ、落涙」
落涙と呼ばれた童女が空いた手で瞼を擦る。下着のような姿から、それはまるで寝起きのようだった。
「まあまあ落ち着くの。灼眼がいなくなったらバランス悪いの」
「知れたことか」
激震の魔王は、童女を意に介さず繰り返し俺目掛けて大槌を振るう。
しかしそれら全てを童女が遮った。
何の破壊音もなく、衝撃もなく、ただ童女の手が大槌を抑え込む。暴力の余波すらなかった。
童女の足が地に沈み込むこともなく、ただただ触れた大槌の運動が制止する。
「悲しいの」
童女の目尻に涙が一滴だけ浮かぶ。それを指で拭い取り、激震の魔王目掛けて弾く。
弾かれた一滴の涙が、まるで指向性の爆弾と化した。
「ら、落涙ぃぃぃぃ」
激震の魔王の上半身は腹から背に掛けて爆風を浴びたようにして吹き飛び、残った下半身がその場に崩れ、霧散。
童女の強さは、圧倒的だった。
「久しいの、落涙」
「久しぶりなの、灼眼。しばらく見ないうちに随分きゅ~とになってるの」
半分ほどしか開いていない瞼から覗く瞳は、心なしかキラキラしている。
「我は貴様の所有物になるつもりはないぞ」
「そこまではきゅ~とじゃないの」
即座に目のキラキラを消し去った童女と、魔王の間になんとも言えない微妙な空気が漂う。
その空気を置き去りにし、ライナの下に駆け寄ると、幸いまだ息があった。
ただすぐにでも治療してやらなければならないだろう。
俺はもう枯れ木のように活力の少ない身体に鞭打ち、錬気を練ろうとする。
「止めておけ。その小僧を人の世で生かしておくつもりならの」
視線で問うと、魔王は嘆息した。
「この世には大別して二つの力が存在しておる。便宜上、聖力・魔力と区分しよう。小僧どもが錬気と呼び使用している力は聖力にあたる。練られたそれは無色じゃ。じゃが、今小僧が分け与えようとしている魔力が混ざれば何色になるかわかるかの?」
今の俺と同じ薄紫か。そう判断したのと同時、魔王は肯定するようにほぼ球体の身体を折り曲げた。
「じゃあ、どうするんだよ。ライナをまだ死なせるわけにはいかないんだ」
王国騎士団入りが決まった夜、これで家族に楽をさせてやれるとこいつは笑った。
遺族年金は出る。しかし勇者制度が崩壊した今、騎士団一方からのうえに在籍期間の短いライナのそれでは、兄妹の多いこいつの家には足りないだろう。
それに、春奈の話もさせなきゃいけない。
「治療してやればいいの」
「やめい、落涙」
「死なせたくないなら治療するしかないの。結果がどうなっても私たちには関係ないの」
童女はどうして止めたのかわからないと、魔王へ視線を注ぐ。
魔王が忌々しげに舌打ちをする。
「なあ、何の心配があるんだ?」
聖力と魔力とが混ざるとどうなるのだろう。
現状俺としては影響を感じていない。
肌の色が変わったのは一つの肉体に二つの魂があるからのはずだ。
力はむしろ魔王の一部が流れ込んだおかげで俺は今五体満足で生存出来ている。
「そいつが今後錬気をした瞬間そいつの身体はボン! なの」
「はあ?」 それはおかしい。ならば何故俺は度重なる錬気の使用で無事に――肌の色が変わっているからか?
戦えなくなったライナを、王国騎士団はどう処分するだろう。除名処分か。
そしてそれは不味い。慰労年金にしても在籍してからほぼ日が立っていないから額は雀の涙だろう。
「あ、わかったの。灼眼、ケチなの。この程度くれてやればいいの」
「落涙、この小僧の脆弱さをお主はわからんのか?」
二人の魔王の話はよくわからないのだが、今はそんなことよりもライナだ。
どんな状況になっても、死ぬよりかはマシ、だよな。
手をかざし、錬気を練るが疲労からか、上手くいかない。
深呼吸。焦るな、でも手早く。ライナが死ぬより早く。
「時間切れじゃ」
未だ錬気を流し込めずにいた俺は、魔王の声でライナを注視した。土気色の顔ではあるが、胸はまだ上下している。
「邪魔するな!」
焦りから耐えられない苛立ちをぶつけた。魔王が不愉快そうに眉間に皺を寄せる。その魔王の背後に広がる空に、流れ星が三つ。俺はボロボロになった外套のフードを目深に被る。
そして星がこの場に落ちた。
以前廃鉱山で見た物と同じだ。今回はサラス、その後ろに二人の王国騎士が控えている。
サラスが一歩前へ。
「王国騎士団である。救助要請を出したのは貴殿か」
「いえ、違います。私が辿り着いた時にはもう村はこの有様でした」
「そうか、して魔物はいずこか?」
首を振ってから、ライナの存在を主張するとサラスが目を丸くした。
「ライナ! おい、お前たちはライナを連れて王城へ戻れ」
短い返事と共に騎士たちがライナへ錬気を流し込み、それから再び星へと姿を変えた。
「馬鹿者が、なぜ救援要請しなかったのだ」
その声には、仲間が傷ついたことへの怒りが込められていた。優しい人なのだろう。だが、俺は忘れていない。このサラスが真っ先に春奈に剣を立てた。
「我と変わればこの小娘を屠ってやるが?」
玩具を見つけたように魔王があざ笑う。
それにも俺は首を振る。
「どうした? ところで貴殿たちはここで何を?」
サラスが俺、そして童女へと目を順番に運んだ。
「旅をしていたら、魔物に襲われているような雰囲気でしたので駆けつけました」
「王国を滅ぼそうとここまで来てやったら懐かしい気配を感じたから寄り道したの」
場の空気が一瞬だけ固まる。
「こら、そんな物騒なことを言ってはダメだ」
そういって、サラスが童女の頭に拳骨を落とす。
「かっちーんなの」
童女の周囲に濃い紫の錬気が漂い、サラスが一気に飛び退った。その際生まれた風で、フードが脱げた。
「勇人殿!? …………見下げ果てたぞ。まさか魔族と手を結び、村を襲い、王国転覆を図るとは」
「そんなことはしていない!」
童女のせいでただでさえ悪い立場が、坂道を転がり落ちるようになっていくのを感じた。
「勇人殿、あなたには心底がっかりしています」
「人の話も聞かずに何を勝手な」
サラスが腰に下げた筒へと手を伸ばす。
「一発は一発なの」
サラスが何を企んだのかは知らないが、気付けば彼女のすぐ傍に童女が現れ、そのふくふくとした手で握り拳を作り、サラスの頬へと沈み込ませた。
外から内へと回り込むように振られた拳を受け、サラスは円の軌跡に吹っ飛び、一周したと思うと全身をあらぬ方向へと曲げたが、うめき声一つ上げていない。
「殺し、たのか?」
「一発返しただけなの。結果的に死んだかもしれないけど殺してないの。不慮の事故なの」
よく理解出来なかった。そして多分、理解しなくてもいい。
何も言うことを止め、とりあえずその場を後にしようとした時だ。
童女の背が斬りつけられ、そして刃先が宙を舞う。
「ち、仕損じたか」
最後にそれだけ言い残し、サラスも騎士たち同様星へと姿を変えた。
「落涙、しくじったのか?」
「まさかなの。確実に死んでたの」
童女が切り裂かれた薄手の布を前に、少し寂しそうな目を向けた。