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今年の夏は猛暑が続き、昨年より熱中症の死者が増えていることから、屋外での活動を控えるように大学でも呼びかけていた。
そんな中、陽は灼熱の中で登校し、正門前の坂道はただ暑いだけの難所でしかなく、延々と繰り返される蝉時雨や、燦燦と降り注ぐ日差しに、蒸し風呂に入っているかのような心地になる。
眼下の線路を走る列車のフレームが眩い光を明滅させ、樹木が風を受けて枝を擦らせている。その音が一種の催眠のように生徒達の口数を少なくさせた。
陽はキャンパスの敷地内に足を踏み入れて、そのまま中央校舎に入った。
視聴覚室へと足を運んで、ドアに手をかけようとしたところで、「あら、日阪君」と声をかけられた。
振り返ると、原田知美がそこに立っていた。陽はげんなりしたが、「よう」と男勝りな声で彼女は言った。
「原田も、映画を観るのか?」
陽は面倒臭そうにそうつぶやく。
「いやいや、あんたの背中が見えたから、追っかけて来たのよ」
「一体、何の用だよ」
陽が突き放すようにそう言うと、知美は唇を尖らせて、「何よ、その言い方」とつぶやく。
「また話のネタを収集しに来たのかよ。うんざりなんだよ、そういうの」
すると知美はふん、と鼻を鳴らした。
「別に私はね、それが目的で君に話しかけてた訳じゃないよ」
「どうだか」
陽は取り合わず、そのまま部屋の中へ入った。すると知美が後をついてきて、席に腰を下ろすと、彼女も隣に座った。
「なんなんだよ、お前も観たいの?」と言うと、知美は黙ってうなずいた。
DVDプレーヤーにディスクを差込み、ヘッドホンを一つ渡した。そうして二人は無言で映画を観始めた。
知美が何故こんなに付き纏ってくるのかはわからないが、悪気はないのだろう、と最後には思うことにした。
しばらくじっと観ていると、知美は聞いてもいないのにべらべらと感想を話し始める。陽は本当に変わった奴だな、と心底思った。
映画が終わると、知美は泣き始めた。まさか感動して泣くような奴だとは思わなかったので、狼狽した。彼女は陽から受け取ったハンカチで目尻を拭い、鼻水拭くなよ、と言おうとしたが、彼女はそのままそれで鼻をかんでしまった。
「私ね、こういう切ない恋愛モノに弱いのよ」
そう言って彼女はDVDのケースを叩いてみせる。
「あんたも、こういうの観るのね」
「原田が泣いたことの方が意外だよ」
「自分でもそう思うわ」
陽達はそんな会話を交わしながら、学食へ向かった。なんだか彼女の意外な一面を見たようで、その所為か嫌悪感が薄れてきたようだった。そのまま窓際の席について、昼食を摂った。
「なんというか私、あんたに随分と迷惑かけてたみたいだね」
突然そんなことを言い出したものだから、陽はまじまじとその顔を見つめてしまう。
「どこか頭でも打ったのか?」
「何よ、それ。あんたのさっきの顔見て、私のこと嫌ってるんだってすぐにわかったわよ」
陽は「いや、確かにうるさいとは思ってたけどさ」とカツサンドを手に持って言う。
「私は別に、話題を探していただけよ。皆が食らいつく話って大体決まってるでしょ? 別にあんたが面白いネタ持ってるから近づいていた訳じゃないんだから」
「そうなのか?」と陽は首を傾げながら言う。
「そういうことで、私謝るから。そのカツサンドは私のお詫びの印よ」
陽はその小さな一切れを見つめながら、自分が被った厄介事はカツサンド程度のものなのか、としみじみ思った。
「そんなに躍起になる必要ないんじゃないかな」
陽は咀嚼しながらぽつりと言う。知美は興味深そうにこちらを見つめてきた。
「気負わずに、ありのままでいればいいんだよ」
その方が被害も少なくて済むだろうし、と思いつつその横顔を窺がうと、彼女はカウンターの方をじっと見つめていた。そして「ありがとう」と小さくつぶやいた。
陽は最後の一欠けらを口に詰め込み、安っぽい味だな、と心中で感想をつぶやいた。
学食から出て、講義室へ向かった。民俗学の授業が午後から始まることになっていたのだ。この授業は受講者が多い為、大講堂を使うことになっていた。
中央の席に腰を下ろすと、ふと「あら」と声がした。振り向いた瞬間、身体中の血液が沸騰するのを感じた。山本和子だった。
「え、あ、」
陽は咄嗟に言葉が出ず、声を裏返らせてしまう。和子はそんな様子には気付くことなく、「また会ったわね」とそっと微笑んだ。すると、知美がひょいと顔を出し、「どうも」と和子に頭を下げた。
「あら? 今日は彼女と一緒なの?」
和子は二人の顔を交互に見つめながら、微笑ましそうに言った。陽達は同時に顔の前で手を振り、「ありえないです」と言った。
「そうなの? 親しそうだったから、つい」
そう言って和子は「ここに座ってもいいかしら」と隣の席を指で叩いた。陽は「もちろんです」としどろもどろになりながら言う。
和子はそっとスカートに手を当てながら、座った。
「あんたも、美人に弱いのね」と知美は呆れながら言った。陽は「声がでかいよ」と囁いた。
「私、消えた方がいい? 邪魔でしょ?」
知美のその申し出に陽は首を振って、「居てくれよ」と懇願した。
「本当にチキンね」
それでも知美は身を乗り出して、気さくに和子へと話しかけ始める。陽は二人の会話を聞きながら、とりあえずほっと息を吐いた。
その時、再び「日阪君」と声が聞こえてきて振り向くと、本田洋子がそこに立っていた。こちらに手を振っている。
「……久しぶりね」
洋子は階段を挟んで隣の席に腰掛けた。
「ここ一週間ばかりはちょっと授業を休んでいたけど、何とか単位だけは取れそうよ」
それはよかった、と陽がつぶやいた時、知美が「どうも」と洋子に声をかけた。
そうして三人はすっかり意気投合し始め、陽は呆気に取られながら、彼女達の様子を見守った。
そして、会話が弾む中授業が始まり、どうしても隣にいる和子のことが気になってしまう。その顔を窺がうと、彼女は熱心に話に聴き入っているようだった。
何故こんな気持ちになるのだろう、と思った。だが、自分は友人として、彼女ともっとよい関係を築きたいと思っているのではないか、と考えた。
しかし、いくら悩んでも答えは出ず、結局のところそういうことなのだろう、と結論付けることにした。
授業が終わると、彼女達はお互いに顔を見合わせて、「それじゃ、またね」と囁き合った。
「もし良かったら、今度みんなで会おうよ。来週までは待ち遠しいし」
洋子が、ふと言った。和子もパチンと手を叩き、うなずいた。
「……そうね。じゃあ、日阪君と連絡取り合って、みんなの予定を合わせましょう。学内でもいいし、飲みに行ってもいいし、とにかく会いましょうね」
知美も「賛成」と手を上げる。そうして、彼女達の視線が陽へと向けられた。
「そういうことだから、まとめ役お願いね、日阪君」
その言葉に陽はうなずくしかなかった。そうして、そのまま彼女達と別れた。
陽は知美と一緒に講義室を出た。そこでようやく肩の力を抜いた。
「チキンね」
知美がもう一度そう言った。陽は何も言い返せず、溜息を吐いた。
「まあ、会う約束まで取り付けられたから良しとするけど。うまくすれば、恋人にすることも可能かもよ?」
「いや、だからさ、」
陽はうんざりした心持ちで知美に言う。
「これは恋愛感情とかじゃないよ」
「恋愛がどうのこうのとか、細かいことは気にしないの。さっさと恋人にしてしまえばいいのよ。恋愛かどうかは、付き合ってるうちに否応なしにわかるんだから」
そう言われても、陽は釈然とせずに首を振って、そのまま並んで一号舎へと向かう。
あんな美人を彼女にできる訳ないじゃないか、と心底思う。望みがあると言うが、当の本人にしてみれば、そんな可能性は皆無であるように思えた。
講義が終わった後、二人は駅の改札口で向かい合って別れた。
「それじゃあ、またね。今日は誤解が解けたようで良かった」
知美は笑ってそう言った。陽はその表情をまじまじと見つめながら、こんな表情もできるのか、と驚いていた。
「……じゃあ」
知美は小さく手を振ってそのまま改札口に向かっていった。陽はその背中を見送った後、売店で新聞を買い、電車へと乗った。
吊り革に掴まりながら買ったばかりの新聞を片手でつかみ、記事を読み出した。
頭の隅で今日のことがフラッシュバックしてきて仕方がなかった。今日は本当に楽しかった、と思う。友人の少ない陽にとって皆と語り合った時間は本当に貴重な経験だった。
これからもこうした一時を過ごせていけたらいいな、と思う。しかし人付き合いは難しく、今日のような場面に出くわしたのは本当に稀なのだろう。
陽は駅へと着いて、書店に入った。そのまま物色していると、ふと肩にぽんと手を置かれる。
振り向くと、同い年くらいの少年がそこに立っていた。短髪は艶やかで純粋な黒色をしており、背は高く陽の方が見上げる形となった。
「兄貴じゃねえか、偶然だな」
日阪夕陽は白い歯をのぞかせて笑った。陽は夕陽の顔を見返しながら苦笑し、「全然偶然じゃないだろ」と言った。
「ちょうど予備校から帰ってきたところなんだ。参考書買おうと思っていたら、形の良い後頭部が見えてね」
「お前、僕の後頭部に拘るなあ」
「兄貴の頭の形、本当にいいんだよ。なんだか、胸に抱えたいくらいだ」
二人はお互いの顔を見つめ、笑い合った。夕陽は現在高校三年で、地元公立高校に通っている。私立大を狙っていて、部屋に閉じこもって勉強している為、陽と顔を合わせない日もあるぐらいだった。
「俺はもう買ったけど、兄貴はまだここにいるのかよ」
「いや、僕も用は済んだよ」
「陽の、用が済んだか」
夕陽はそう言って、「巧いだろ?」と笑う。二人は歩き出してエスカレーターに乗った。
「同じようなギャグを言った知り合いがいるんだよ」
「自分で言うのもなんだけど、その人、頭悪いな」
夕陽の言葉に、陽は「そうなんだよ」とうなずいた。
「なんかチャラチャラしてて女好きだし、将来あれでやっていけるのかなって思う」
「兄貴にもそんな友達がいるんだな。それは貴重じゃねえか」
「貴重?」と陽はじっと弟の顔を見つめる。夕陽は人差し指を立てて、「だってよ」とつぶやく。
「自分と正反対のタイプと付き合ったら、自分が狭い範囲でしか物事を考えていなかったことが否応無しにわかるだろ? 価値観が広くなるんだ。そういうのって大事だと思うよ」
「そういうものかな」
陽は言われるまま、将太の顔を思い浮かべる。そうしてすぐに首を振った。あいつと接していても、面倒なことになるだけだ。
そのまま二人はバスへと乗り、自宅へと向かった。




