七章 もう一人の師
「うぅ、ん」
ミリィは、寝苦しそうな声を洩らし寝返りをうった。
部屋の通気溝から緩やかに流れる風が、室内の温度を一定に保っている。
その為、寝苦しいというほどの気温の変化は無く、むしろ快適な室温である。
食堂での話が終わると、丁度夕食の時間だった。ミリィはそのまま食事を済ませてから、各自に割り当てられた個室に入った。
ミリィの割り当てられた部屋は、最初にこの船で目を覚ました部屋である。二人一組のチームの為、相棒の海斗の部屋は隣に割り当てられていた。
長旅の疲れを癒そうと、早くから床についたミリィだったが、慣れない船内の為か、なかなか寝付けないでいた。
「もう!」
腹ただし気に声をあげると、ベッドから体を起こし、ブーツに足を通した。
そして、船の中ってこんなに寝にくいものかしらと、ぼやきながら照明のスイッチを入れる。室内が暗闇から一気に昼間のように明るくなった。
あまりの眩しさから、周囲が真っ白な世界に包まれたようになり、ミリィは思わず目を細める。
「散歩でもすれば眠くなるかな――」
ホットパンツと黒のTシャツの姿に着替えたミリィは、部屋のドアを開け、あてもなくフラフラと通路を歩きだした。
迷わないようにと、アレンからもらった船内の略図を広げ、散歩場所を探す。
「えぇと、こっちは食堂で」
なにか一日中鉄の部屋に閉じこめられ、息苦しさを感じていたミリィは、迷わず甲板を目指していた。
迷路のような通路をしばらく歩くと、目的の手摺りのついた階段を見つけた。
「これね!」
ミリィは階段を軽い足取りで昇りきると、目の前にある重厚そうな鉄のドアに躊躇いも無く手を掛けた。
横開きのドアに力を込める。
ドアは低い音を立ててゆっくりと開き、ひんやりと心地よい風が散歩で火照ったミリィの頬をなでた。
「うわぁ! 気持ちいい!」
ドアを潜ったミリィは、煌々と輝く月の光と、澄み切った心地よい風を全身に受け、あまりの気持ち良さに思わず声を上げていた。そして両腕を大きく広げ、瑞々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「――本当にこの船、地面を走っているんだ」
横に視線を移すと、広く重厚な鉄の甲板の切れ目から、山一つ無い乾いた大地がゆっくりと後方に流れているのが垣間見え、その上には漆黒の夜空が無限の広がりを見せていた。
幻想的な世界に吸い込まれるかのように歩み寄ろうとしたミリィは、肌を撫でる風が一瞬震えたことを感じ、薄暗い前方に目を凝らした。
歩みを進めていくと、空気の振動はビリビリと肌に感じるほど大きくなっていった。
その空気の振るえを辿っていくと、淡い月の光を受けた人影がゆらゆらと浮かび上がってきた。
「――海斗」
海斗は内股立ちで、無限の深さを見せる地平線に向かって、ゆっくりと拳を突き出していた。
下腹に深く空気を吸い込むと同時に、ガードするように立てた右腕を後方に引く――溜め込んだ空気を息吹に変え、ゆっくり吐き出し、引かれた右腕を前方に突き出す。
また深く空気を吸い込むと同時に、突き出された右腕を内から弧を描くように元の位置に戻す。
今度は左腕が後方に引かれ同じ動作を繰り返す。
カラテにおける、三戦といわれる型である。
左腕が一連の動作を終えると、海斗は顔の前で両拳を交差させ、拳を腰位置まで降ろし呼吸を整えた。
「ミリィか」
人の気配を感じ、振り向いた海斗の瞳に、予想していた人物の顔が映った。
「うん、ちょっと寝付けなくてさ――海斗も?」
その通りと言いたげに苦笑した海斗は甲板の端に歩み寄ると、両足を投げ出し腰を降ろした。
「まぁな」
ミリィも海斗に習って隣に座り、宙に投げ出した両足をばたばたさせると、流れる景色を眺め、おもむろに口を開いた。
「ねぇ、海斗はカラテを誰に習ったの?」
海斗は柔らかな風に前髪を靡かせながら、遠く地平線の彼方を見つめた。
「親父に習った――いや、叩き込まれた」
「お父さんに、か。初めて聞くね、海斗のお父さんの事」
ミリィの一言葉を聴いた海斗の横顔が曇りを見せ、その瞳には深い憎悪と悲しみの色が称えられていた。
海斗は自身の過去を誰にも語ったことがなかった。それはミリィに対してもおなじだった。触れられたくない過去――自分と似たようなところを感じてか、ミリィは敢えて言及もしなかった。
ミリィは海斗の瞳に落ちる暗い影を払拭するかのように、にっこりと微笑んだ。
「じゃ、レッスルの技はどうしたの?」
海斗は感慨深く沈黙すると、重い口を開いた。
「教えてもらったんだ。もう一人の師に――この身をもってな」
そう呟くと、海斗は遥か遠くの地平線に向かって、ゆっくりと語りだした。
闇と静寂が支配する空間。
そこに忽然と眩いライトの光を受け、冷たく巨大な格子に囲まれた空間が場内に浮かび上がった。
その瞬間、いままでの静けさは嘘のように去り、一転して殺伐とした熱気に包まれ、一種、異様な世界に変化を遂げた。
闇の中、ライトに照らされた四角い金網に観客達の目は釘付けとなり、わきあがる声は雷鳴のごとく広い場内を振るわせていた。
場内を埋め尽くした観客皆が一点に見つめる先。金網と言われる檻の中にその男がいた――海斗・桐生である。
海斗は右足を後方に引き、深く腰を落とし後屈に構え、男と対峙していた。
「レッスル相手に打撃など通用するか!」
男は叫ぶと露出している上半身の筋肉をうねらせながら腰を落とした。
やや前方に突き出した両手がバラ手である。
そして海斗の構えは重心が後方にかけられているのに対し、男の体は前傾で、重心がかなり前にかけられている。
「――またレッスルか」
海斗はうんざりした様子で呟くと、後方に引いた右足を外側に開き、四股立ち気味に構え直した。
黒い短髪の男は足を躍らせるように、前後にフェイントをかけながらジリジリと飛び込むチャンスを伺っている――が、海斗の体は全く動かない。
誘いに乗る気配が無いことを悟ったのか、痺れを切らせるように男の足は床を蹴った。
黒いトランクスがはためいた。
海斗に向かって筋肉の壁が押し寄せる。
男の腕が海斗の体に伸びる。
海斗の左足が跳ね上がった。
「ふん!」
読んでいたぜと言わんばかりに男は口から気合を洩らす。
タックルに合わせて突き出された膝。
これを左手で弾く。
右肩を海斗の下腹部に叩き込む。
ストライカーは倒しちまえばこっちのもんだ。
どう料理してやろう。
投げるか。
それとも間接で痛めつけるか――男は頭の中で勝利を確信していた。
その時、突如背中に電流が走ったかのような激痛を受けた。
男の背中には振り下ろされた斧のごとく、海斗の右肘が突き刺さっていた。
「ぐ、ぎゃぁぁぁ!」
男にとって未だ受けたことの無い痛みだった。
両目を充血させ、男の口から悲鳴が上がった。
瞬間、海斗の右足は床を蹴っていた。
「せいや!」
迸る気合。
中段の回転膝蹴りが、男の側頭部を捉えた。
「――」
奴はタックルを迎撃するのに有効な膝蹴りを読んだ俺のさらに先を読んでいたとでも――男は悲鳴の半ばで意識を失い、その体を冷たい床に沈めていった。
金網を囲んでいた雷鳴のような歓声はいつの間にか息を潜め、静寂な時が空間を支配していた。
海斗は横倒しに床に転がる男に素早く向き直り、双手に構え残心を取る。
程なくして金網の出入り口の扉が開き、白いシャツを着た男が金網の中に入ってきた。
シャツの男――審判は、倒れている男に近寄り、男の瞼をこじ開け、瞳孔を確認する。
審判は男を床に寝かせると、海斗に歩み寄り、硬く握られた右拳を掴み、天高く突き上げた。
「っしゃ――」
海斗が勝利の雄叫びを上げた瞬間、今まで沈黙を守っていた観客達の歓声が轟き、暗く広い場内を激しく揺るがした。
その津波のごとくわきあがる光景に、観客席から独り、冷ややかな眼差しを向ける人物がいた。
その男の顔には年期を感じさせる深い皺が刻まれていた。
男は低い声でぽつりと呟いた。
「海斗・桐生――か」
男は歳老いた顔に不釣合いである逞しい体を揺らしながら、場内の闇の中に姿を消していった。
「うし、今日の晩飯は肉と洒落込むか!」
海斗は、闘技場入り口のカウンターで受け取ったファイトマネーを懐にしまい、いまだ死合いの歓声が響き渡る闘技場を後にした。
海斗は足取りも軽く、町の細道を歩き始めた。
このノルマの町は、実家を飛び出し放浪していた海斗が腕試しに初めて立ち寄った町だった。ノルマの人々は定期的に仕入れた材料を織物、装飾品などに加工し、細々とした生活を営んでいた。
定期的に加工材料を町に運ぶ商人達の娯楽として、小さな町とは不釣合いな闘技場が建てられていた。週に一回、商人が立ち寄る日の闘技場は、近隣の村や町からも観客が集まり、普段とは違った賑わいを見せていた。
海斗は道というにはお粗末である砂利がひかれた小道を踏みしめ、商店街に向かって歩いていた。
「いつまで着いて来る気だ?」
海斗が呟くと、小石を踏みしめる音がぴたりと止んだ。
「海斗・桐生か?」
足を止めた海斗の背後から響いたのは、低くしゃがれた声であった。
「ああ。用件はなんだ?」
海斗は振り向きもせず答えた。
「顔を貸してもらおう」
ぶっきらぼうに答える海斗に男は即答する。
男の宣戦布告とも思える発言だ。
海斗は緊張を漲らせ、油断無く後方に身を返した。
「老人!?」
海斗と対峙する男。オールバックに流された白髪、顔に刻まれた年輪の長さを想像させる深い皺からは、そのような挑発的な言葉の似合いそうな歳ではない。
しかし、その体つきを見ると、はち切れんばかりに盛り上がる筋肉が、土色に汚れた半袖シャツの下に隠されていることがはっきりとわかる。
海斗は確信した――間違いなく声をかけてきたのはこの男であると。
「――死合うのか」
男は海斗の問いに答えるかのごとく踵を返した。
「着いて来い」
海斗は男の大きな背中を鋭く睨みつけると、足元の砂利を踏みしめた。
踝くらいの高さに背を伸ばした雑草が生い茂る野原。そこに差し掛かると、不意に先を歩く男の足が止まった。
野死合いの場に着いた事を悟った海斗は、背を向ける男から数歩退き距離をとった。
日差しが傾き、大きさが増した太陽に溶け込むかのように男の背中が揺らいでいた。
男がゆっくりと振り向くと、海斗は両の拳を目の前で交差させ、腰位置まで下ろした。
すると、男の右腕が空高く突き上がり、その人差し指は遥か天空を指していた。
「シュート!?」
人差し指を上に向ける仕草は、レッスルにおける真剣勝負、すなわち潰し合いを示したものだ。
指定した場所といい、シュートの意思表示――奴はレッスルの使い手か。
「はぁぁ――」
海斗の口から洩れる息吹に感応し、周囲の空気が振るえた。
草の葉が擦れ合う乾いた音が響いた。
息吹とともに膨れ上がる闘気が頂点に達した。
海斗は左拳を男に向け、右の拳で鳩尾をガードし、右足を後方に踏み込んだ。
双手の構えだ。
「海斗・桐生!」
名乗りを上げた海斗に応ずるがごとく、男は突き上げられた右手を下ろした。
「スカル・ゴッチ!」
スカルはスタンディングのまま右足を半歩引いた半身で、開いた両手を目の高さに構えた。
「――これがレッスルなのか?」
海斗にとって予期せぬ構えだった。
思わず洩らした呟きを尻目に、ゆるりゆるりとスカルは海斗との間合いを詰める。
隙がねぇ――海斗は恐れ気もなく、ごく自然に間合いを詰める男に眉を寄せた。
気がつくと、近距離の間合いを取られていた。
「シッ!」
スカルの口から気合が洩れた。
右足が草の葉を巻き上げた。
肉を打つ乾いた音が響き渡った。
スカルの右足は、宙に浮いた海斗の左ふくらはぎを打っていた。
カラテの直線的な蹴りとは異なる、しなやかでかつ、速い蹴りに海斗は見覚えがあった。
カラテに似た格闘技、キックか――海斗の顔が驚愕で色を失う。
「どうしたコゾウ。レッスルが蹴りを出して驚いているのか?」
「るせぇ!」
スカルの嘲笑うかのような台詞に目を尖らせ、右足を突き出した。
鳩尾を突き刺すような前蹴り。
それをスカルは左手で弾き返した。
その反応の速さはまるで技を出すことを予期していたごとくだった。
間髪入れず、弾かれた右足で踏み込む。
「せい!」
海斗の左正拳突きがスカルの秘中(両鎖骨の間)を狙う。
またも予期していたごとくにスカルの右手がそれを内にいなした。
しかし、通常の突きよりも重みが感じられない。
「なに!?」
目を剥いたスカルの視界には、海斗の左足は存在していない。
そう感じた瞬間、右側頭部を打ち抜かれた。
重い衝撃だった。
海斗の左上段回し蹴りだった。
勝利を確信した海斗の顔が次の瞬間、驚愕で歪んだ。
スカルの右手が海斗の左足首をがっしりと掴んでいたのである。
「甘いな、コゾウ――」
スカルは掴んだ左足を脇に挟み込む。
そして左足で海斗の残る足を払った。
「進化する格闘技、それがレッスルだ!」
後方に倒れこむ海斗の体に、スカルの足が絡みつく。
「アキレス腱固め!」
スカルの背中が大地を叩いた。
そのまま体を弓のように撓らせる。
海斗の左足首に、激痛が走った。
レッスルの使い手を掴まれる前に叩きのめしてきた海斗にとって、未だ味わったことの無い激痛だった。
頭を抑え、喉から苦しみの呻き声が搾り出された。
ギシギシと左足が悲鳴を上げる。
体中を駆け抜ける激痛が頂点に達した。
瞬間、ブツリという嫌な音が周囲に響き渡った。
まるでロープを引きちぎるような音だった。
「う――がぁぁぁ!」
左足を押さえ、苦悶の悲鳴をあげながら草の上にのた打ち回る海斗。技を解いたスカルは海斗に腕を伸ばし、強引に引きずり起こす。
そして海斗の背後から腰に腕を回す。
海斗がそこから逃れようとスカルの顔面に向かって肘打ちを放つ。
それはもう技とはいえなかった。
ただ闇雲に肘を叩き込んでいった。
スカルは肘による打撃をものともせず、海斗の体をそのまま後方に引っこ抜いた。
「ジャーマンスープレックス!」
海斗の足がふわりと宙に浮いた。
スカルの体が芸術ともいえるほど綺麗な弧を描いた。
海斗の後頭部が草の生い茂る大地にすいこまれていく。
そして、激しく叩きつけられた。
受身を取れず、後頭部を地面に強打した。
その衝撃に、たしかな手ごたえを感じたスカルは、ブリッジを解いて、ゆらりと立ち上がった。
沈みかけた夕日に揺れるスカルの姿は、痛みに歪み、細められた海斗の眼に眩しく突き刺さるようであった。
スカルは暫し哀しげな眼差しで海斗を見下ろすと、そのまま歩き出した。
「ま、まて――」
全身を激痛が苛み、やっとの思いで振り絞った声は、まるでかすれた悲鳴のようだった。
この俺が負けた――海斗の中を支配していた痛み。
それは悲壮感に変わった。
さらに自分の弱さへの怒りに変わった。
スカル、あんたを必ず超える!
海斗の中で激痛を忘れてしまうほどの熱く煮えたぎるものが、ふつふつと込み上げていた。
語り終えた海斗は口を閉じると、眼前に広がる漆黒の空を仰いだ。
「それから俺は、奴を倒す為に、レッスルの技を盗んでいった――毒には毒だ」
海斗はミリィに向かって微笑を洩らし、体が冷えちまうと呟きながら立ち上がった。
ミリィは海斗がレッスルの技をかける時、何故技の名前を叫ぶのか、なんとなくわかったような気がした。
立ち上がった海斗は、ゆっくり正対に構えると、両の手を丹田の位置で重ね礼をする。
そして海斗の顔が上がった瞬間、首が、腕が、足が、体が空気を裂いた。
接近戦を想定した型を連続させた、ナイファンチンといわれるものである。
「せい!」
カラテの心があればカラテカ――川の流れのように自然で、美しくも力強さを感じさせる海斗の挙動は、その言葉を納得させるには十分だった。
ミリィは、海斗の言わんとする言葉の意味が、少しわかるような気がした。
漆黒の夜空を背景に、月光に浮かび上がる海斗の演舞に見惚れながら、そう思うミリィだった。