幸運の天使
「おじさん、これ、あげる」
人通りもまばらな、雨の公園入り口。
男はヤンキー座りからそのまま腰を下ろしたような状態で座り込んでいた。
目の前には濡れそぼったダンボール箱、足下には元々その中に入っていた仔猫が一匹。
地面に卸した腰は、濡れた地面から水を吸って冷たく肌をぬらす。もっともそんな事さえ関係ないほどに降り続く雨で全身濡れていたのだが。
口にくわえていたたばこは、既に雨で消火されて役に立っていない。そろそろ口から出さないとやばいことになりそうだ。
男は目の前に立った小さな影を煩わしそうに見た。
桃色の小さな足。ウサギ模様の真新しい長靴がまず見えた。ゆっくり視線を上げると、桃色のランドセルに背負われているような小さな少女がいて、ウサギ柄の桃色の傘を男に向けて差し出している。
「おじさん、風邪引かないでね。これはねこちゃんに」
真っ直ぐな瞳が男を捕らえる。
押しつけられたのは幼児向けの小さな桃色の傘と、ウサギ柄のタオルと。
少女は男が何かをいう前に、ペコリと頭を下げて、そして雨から逃げるように走っていった。
「……なんなんだ」
おじさんと呼ばれるような年ではない。だが、そう思っているのは自分だけなのか。二十代も半ばも過ぎると、あの少女の父親の年とそう変わらないのかも知れない。
そこまで考えて、男は嗤う。
どうでも良いことだ。
年齢も、呼び方も、そしてずぶ濡れになってこの先自分がどうなろうとも。
男は手元に残った小さな傘とタオルを、眉を寄せながら見る。
しかし「何もかもどうでも良い、いっそ風邪でも引いてそのままここで眠ってのたれ死ぬか」などとくだらないことを考えていた気持ちが、目の前の小さな桃色の傘をどうした物かと考えている内に萎えていっているのを感じる。
ひとまずウサギ柄のタオルを仔猫に掛けてみる。邪魔そうにもがきだしたのを見て、ふははっと笑う。
ああ、まだ笑えたんだと思って、なくしたと思った感情が残っていたのを実感する。
「……んじゃ、もう一踏ん張りするか」
男は溜息をつくと、タオルにまみれた仔猫をその手に掴み上げる。
立ち上がって肩にかけた小さな傘がゆらゆらと揺れるのを見て、また笑う。
ずぶ濡れのいかつい男が自分の肩幅さえ入らないような幼児用の傘を指して歩く滑稽さがおかしかった。
この程度の道化を笑い飛ばせなくてどうする。もう一度あの世界に戻って一からやり直すのなら、こんなのは屈辱でも何でもない。かわいらしい道化だ。いっそ楽しめばいい。
男は、差す意味がどれだけあるのか分からない、似合わぬ傘をさして、ゆっくりと歩き始めた。
「で、その傘をおじさんに無理矢理押しつけちゃって。今思うと、ひどい嫌がらせなのよね。子供向けの傘よ? ピンクの。アレもらっても、おじさんも困っただろうと思うのよ。あんな傘させなかっただろうし。で、私は私で、お母さんに怒られちゃって。でもおじさんにあげたとか言ったら、絶対更に叱られるし。黙って、どこでなくしたかわかんないって、嘘つき通しちゃった」
後ろで聞こえてくる会話に男は思わず反応する。あの日を境に、彼の生活は一転した。運気が回って来たとでも言うかのような変化だった。
非科学的なことを信じる質ではなかったが、何をしても抜け出せなかった不運の連鎖が突然に断ち切れ、幸運と言えるようなことばかりが起こった。
あの時拾った猫は今も家にいる。年を食ったが、何とか元気だ。そしてその時少女から渡された傘も、タオルも、捨てられずにいる。ばかげていると思いながらも、真新しい傘を捨てるのが忍びなかった。返そうと暇があれば同じ場所で待ったこともあったが、そういつまでも待てるほど時間があったわけでもない。会う事のないままもう十五年が過ぎた。
ばかげていると理性は言うが、それでも、男にとって、あの少女は、幸運の象徴だった。
捨てられるはずがなかった。
わずかに振り返ってみれば、そこには年若い女性が楽しげに話をしている。
あの当時小学一年生だったのなら、今はもう二十二になる頃か。
さすがに少女の面影は見つけられない。見つけられるほど記憶にもない。
振り返った男の目と、彼女の目が一瞬だけ合った。
そのまなざしが、あの時ののぞき込んできた瞳を思い出させた。
ああ、彼女だ。俺の、幸運の天使。
冗談交じりに付けたそのあだ名が、今は男の胸にすとんと落ちるように当てはまる。
そこでほほえむ彼女にぴったりだと思えたのだ。
こんなオヤジに声をかけられても困るだろうが、あの時の礼は返しておこうか。
男は彼女から向けられる視線にほほえみかけると、ゆっくりと立ち上がった。