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幸せの行方

「……そうか」

 たった一言そういうと、彼は少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべた。




 彼の栄転が決まったのは、もう数ヶ月も前の話だった。

 貴之が日本を去る。

 それはもう数日先にまで迫っていた。

 瑞穂は現在仕事を持っているが、所詮代わりのきく人材。上司や同僚とは巧くやっているし、やりがいも感じているが、それでも退職して彼についていったとしても大した問題ではなかった……表向きは。

 結婚をしたのは三年前。

 結婚当時であったのならば、何の問題もなくついていっただろう。

 女ったらしと悪名高かった貴之が瑞穂だけを愛していると、ただ一人の女性に彼女を選んだ。そして瑞穂もまた恋心をいだく貴之の想いを拒むことなく、二人は結ばれた……はずだった。

 結婚当時、未来はまさしくバラ色に輝いて見えていた。まさかたったの三年でこんな状態になっているとは考えもしなかった。

 ……なぜこんな事になったのだろう。

 瑞穂の口からはため息ばかりがこぼれた。

 彼が日本を去る日を指を折って数えてみる。

 何度数えても同じだった。

 後たった五日しか一緒にいられない。

 ついていきたいのに、その一言を言えないでいる。

 このままだと本当に5日後には別れの時が来る。


 もう二年以上の間、夫婦といえるような関係ではなくなっていた。

 表向きは普通に仲のいい夫婦を演じられるのに。二人でいると彼の視線は瑞穂から逸らされた。

 そして距離が生まれる。

 もう愛されていない。

 嫌でも現実が突き刺ささる。

 からかいを装いながら優しく包み込んでくれていた彼は、今はもういなかった。

 いつからだっただろう? 気がつけば距離を感じるようになっていた。少しずつ、無意識のうちに彼は遠ざかって行っていた。

 怖くて何も聞けなかった。

 彼の様な人がどうして自分なんかを選んでくれたかがわからなかったから。いつか彼が自分に飽きて離れていくことも、考えなかったわけではなかったから。……だから、距離が生まれているのに気がついたとき、ついにこのときが来たのだとわかった。

 けれどそれを確認するのが怖かった。心が離れても、それでも側にいたかった。せめて体だけでも側にいたくて、決定的な言葉を聞くことが出来なかった。もしかしたら自分の勘違いなのではないかと、いつか、またあの優しい微笑みを浮かべて見つめてくれるのではないかと夢見ていたかった。そして形だけの妻の座にしがみついて、全てをはっきりさせるのが怖くて、何も聞けないままここまで来てしまった。

 彼は何も言わない。

 出国を5日前にして、別れようとも、一緒に行こうとも。

 いっそ、彼の方から別れでも切り出していてくれれば良かったのに。

 愛していないと、事実を突きつけてくれれば良かったのに。

 けれど彼は何も言わない。

 だから瑞穂も何も言わなかった。言いたくなかった。他の人の前でだけ取り繕う……、そのまともではない夫婦関係さえ、瑞穂にとっては放しがたいつながりだった。十分に失っているのに、それでもその蜘蛛の糸のようなつながりを失うのが怖くて今の状態に終止符をうてないでいた。


 でもそれも終わる。

 そう、このまま何も言わなければ。

 引っ越しの手続きついでに離婚届もとってきているかもしれない。

 そう思うだけで苦しかった。

 早く持ってきて欲しい。この苦しみから解放して欲しい。

 最後の瞬間までその別れの通知を見たくない。

 反する感情にはさまれて、どちらが自分の本当の望みかすらわからない。

 1日1日が、針の筵のように瑞穂を苛む。そして彼との別れを恐怖する瑞穂のもとから、容赦なく時間がこぼれていく。

 彼は何も言わない。

 同じ家の中にいるのに、すれ違っても、なんの声もかからない。

 時折視線が交わり、どちらからともなく反らされる。煩わしそうに視線をそらす彼と、別れの声をかけられるのが怖くて、目を合わすのが怖くてすぐに視線をそらしてしまう瑞穂。

 せめて心が側になくても一緒にいたいのに、その言葉さえ口にできないでいる。

 言えるはずがなかった。

 だって、あなたは私を見ない……。

 心の中でつぶやくと、瑞穂の胸はきりきりと痛んだ。

 だから、せめて、早く切り捨てて欲しい。

 遠くから彼の姿を見つめる。

 貴之さん、貴之さん、貴之さん……。

 愛しさに涙が込み上げる。そして、彼の視線が自分に向かないことに、たまらない悲しみもまた込み上げるのだった。


 本当に何も言わないまま見送るのか。

 瑞穂は何度も自分に問いかけた。

 本当に何も言わなくて良いのか、と。

 私はただ彼の言葉を待って、捨てられてあきらめるのか、と。

 ……無理だと思った。絶対に無理だった。

 あきらめられるはずがなかった。

 彼の自分を拒否する言葉を想像しただけで胸が痛み、涙がこぼれそうになる。けれど何もせずにその時を待つのでは、きっと自分は後悔すると、瑞穂は自分を奮い立たせる。

 ならば自分は言わなければいけない。恐怖もプライドも捨ててこの気持ちを彼に。


 心を決め、その一言を何度も胸の中で繰り返す。

 その、たった一言を貴之に告げるために、何度も何度も心の中で繰り返し練習する。

 こんな言葉を今更聞いて、彼はどんな顔をするだろう……?

 驚く? それとも、拒否する?

 考えて、瑞穂は自嘲した。

 ……きっと拒否なんてしない。だから、言う決心がついたのだ。

 たとえ心の離れてしまった妻であろうと、彼が女性を傷つけるようなことはしない。

 そんなことは、彼の性格上、よくわかっていた。

 そういう人なのだ。優しすぎるぐらい、優しい人だった。たとえ心が離れても、彼にとって、瑞穂は守るべき存在だった。それが分かってしまうぐらい、彼は瑞穂を気遣っていた。

 その優しい彼を自分の我が儘でつなぎ止めるのだ。彼の自由を、これからの人生を自分は奪うのだ。

 瑞穂は、その覚悟も決めていた。

 そうすることが、より彼の心を遠ざけることになるかもしれないと分かっていても。

 愛してもいない女が、一生自分の生活についてまわるのだ。快い感情を持つはずもない。そう思っても。

 それでも瑞穂言うのだ。側にいたいがために。その代償が彼の嫌悪の目だとしても。

 そう。疎ましく思っていても、きっと貴之は拒否しない。そんなことが出来るのなら、今ごろ既に別れていただろう。

 疎ましく思っているのなら、いっそ拒否してくれればいいのに。

 考えていることが矛盾していると、自分でも分かっていた。

 切り捨てて欲しくて、切り捨てられたくなくて、相反する感情の間で、常に揺らいでいる。

 全てを終わらせたいのに、それが怖くて。

 絶対に終わらせたくないのに、それさえも怖くて。

 どうすればいい?

 問いかけても答えのでない行き場のない感情。

 どうすればいいかもわからぬまま、胸の中で、同じ言葉を繰り返す。

 それでも側にいたい、と。

 どんなに心が揺らいでも、この結論だけは覆したらいけないと思っていた。


 何も変わらぬまま、また1日がすぎた。

 同じ家にいて何度か顔を合わせているのに、瑞穂は何も言えずにいた。

 彼を目の端にとらえ、何度も自分を奮い立たせようとした。心の中で何度もつぶやいた。

 けれど、彼を呼び止める声さえも出なかった。「貴之さん」と、彼の名前を呼ぶことさえ出来なかった。

 そんな自分の姿がひどく惨めに思えた。

 夜中、眠れずリビングのソファーに、瑞穂は一人体をゆだねる。

 もう時間はあまりにも少ないのに何も言えずにいる自分が情けなくて、眠れるような状態ではなかった。

 ひどく疲れていた。眠いのに目はさえている。頭の中はとても澄み切っているようで、なのにひどくすさんでいるようにも感じた。

 一人だけの時間がまたこのまま過ぎていくのだと思っていたその時だった。

 足音がした。振り返ると瑞穂の気持ちを掴んではなさない彼がいた。

 彼は無表情で、何を考えているのか分からなかった。ただどこか疲れたように、瑞穂を見ている様にも見えた。

 瑞穂はとっさに目をそらす。

 恐怖が先に立った。言わなければいけないことより、拒まれる怖さが瑞穂の感情を支配していた。

 言わなければいけない言葉は頭から消え、「言わなくちゃ」と思うばかりで何を言わなければいけないのかさえ分からない。ただ、その感情の読み取れない視線が耐えられなかった。

 どうして私はいつもこうなんだろう。

 瑞穂は彼に背を向けたまま自分を責めていた。

 だから私は愛想をつかれたのだ。

 最初からこうだった、と、瑞穂は思い出す。はじめての恋にどうしたらいいかわからず、とまどってばかりだった。今も同じ。そんな女の相手をして、彼のような人がいつまでも面白がるはずがないのだ。きっと珍しかったから、だから相手をしてくれていたのだ。

 初恋は叶わないという。それなら、いっそのことあの時思いが叶わなければ良かった。恋が実らなければ良かった。結婚にまでたどり着かなければ良かった。そしたら、ここまで辛くならなかった。

 どうして、あのとき、私なんかを選んだの。

 瑞穂は、貴之を心の中でなじった。

 それが少し瑞穂の中に余裕を生んだ。彼に目を向ける余裕を。

 彼の中に答えを探すように瑞穂が目を向けると、その視線を受けたかのように貴之はゆっくりと歩み寄ってきた。

 そして、目の前に来てためらったように呟いた。

「……君は、日本に残るか? ……それとも」

 貴之の声が、鋭いナイフのように突き刺さった。

「……俺と一緒に行くか?」

 4日後だ。

 4日後に彼はこの日本を出る。

 瑞穂は目を見開いて貴之を見た。

 何故今頃たずねてくるの?!

「行こう」でも「別れよう」でもない、今ごろ自分の意志をたずねてくるその意味を思って怒りが込み上げてきた。

 憐れんで? それとも妻に対する義務感で?!

 それとも直前なら、貴之の一緒に行きたくないという意図をくみ取って自分から断ってくれるとでも思ったのか。

 体がぶるぶると震えていた。こみ上げた怒りのためか、自分の感情に対する恐怖か、自分でも分からなかった。

 瑞穂は立ち上がった。

 少し離れたところに、彼女を見つめる貴之がいる。

 瑞穂の中でちっぽけなプライドが自分を守ろうと振りかざされる。

 それなら望み通り別れてやろう、と。

「……いいえ。日本に、残ります」

 静かな室内に、彼女の声が大きく響いた。 

 自分が発した言葉だというのに、瑞穂はそれを他人事のように聞いていた。

 頭の中はまだまだ興奮状態だったが、片隅のわずかに冷静な部分が、なぜそんな事を言うんだと自分を我に返そうと働き始めた。

 私は、何を言ったのだろう……?

 少しずつ、興奮状態の頭の中が冷め始め、放った言葉の重さに恐怖がじわじわと押し寄せてきた。

 惨めで僅かなプライドを振りかざして、それで……? 自分の得る物は一体なんだというのか……。

 彼の表情は変わらない。

 瑞穂は血の気が引いていっているのが自分でも分かった。

 頭がくらくらした。

 手の平はやけに冷たく感じるのに、ひどく汗ばんでいる。

 足が重い。

 こんなにひどく重たい言葉を言ったのに、彼の表情はやはり変わることはない。

 彼にとってはその程度の言葉なのだ。

 ……もう、これで、終わり……。

 茫然とした。

「……そうか」

 彼が淡々とした声で呟いた。

 けれど、少しだけ寂しそうに見える表情を浮かべて微笑んでくれた。

 あからさまにほっとしないところが、あなたらしいわね……。

 悲しくて、切なくて、けれど茫然としてそれが今ひとつ実感できないまま、頭の片隅で他人事のように思った。

 彼を見つめた。

 なんの感情も見せない仮面を付けて。なんにも感じてないフリをして。でないと泣いてしまうから。

 早く私の前からいなくなって。私の頭の中が麻痺しているうちに。

 瑞穂は祈った。

 早く、彼の視線の先から消えてしまいたいと。

 見つめる先で、貴之が動いた。そして、瑞穂の脇を、そのまま通り過ぎる。

 ゆっくりと、足音が遠ざかって行った。



 ……終わった。

 そう思うと力が抜けた。体が重かった。ソファーに座り込むと急に彼と離れる切なさがこみ上げてきた。

 たまらず振り返る。

 何度この背中を見ただろう。

 行かないでと、その一言が言えずに何度も見送った背中。私を見てと言いたくて、言えなくて。

 後悔しない?

 瑞穂は自分に問いかけた。

 このまま別れて、本当に後悔しない?

 その問いかけの答えなんて、一つだけに決まっている。

 彼を失って後悔しないはずが、ない。失うのならせめて彼の気持ちを知りたい、そう思った。

 ねぇ、少しは私のことを好きだと思ってくれていた?

 大切にしてくれたあの時の気持ちに、嘘はなかったよね?

 それにうなずいてくれたら、それだけで生きていけるから、だから……。

 そう思ったら呪縛から解けたように体が動いた。

 瑞穂は貴之に向かって身を乗り出す。

「貴之さん……!」

 ようやく名前を呼ぶことが出来た。このたった一言を口にするのに、この瞬間まで勇気を振り絞れずにいた。そして振り絞って出した一言は、それ以上言葉にならない精一杯の一言だった。

 瑞穂が立ち上がった直後に彼は立ち止まり、そして振り返った。そして駆け寄っていった瑞穂はそのまま彼に抱き寄せられていた。

「……瑞穂」

 低い声で、うなるように彼はつぶやいた。痛いほどに強く抱きしめられたまま瑞穂はその声を聞く。

 何が起こったのか理解できなかった。

「瑞穂」

 絞り出すように、何度も自分の名前が呟かれて、はじめて彼が泣いていることに、気付いた。

「……貴之さん……?」

 ふるえる自分の声に、瑞穂自身も泣いていることに気付く。

 どうして泣いてるの?

 どうしてこんな風に抱きしめてくれるの?

 言葉にならず、ただ彼の背中に腕を回した。

 自分を抱きしめてくる腕の強さが、彼に求められているような気がしたから。

 彼を包み込めたらいいのにと瑞穂は思う。彼の気持ちは分からない。けれど、こんな風に辛そうに泣く彼を癒せるものなら自分が癒したい。

「……貴之さん……?」

 泣かないで。憎まれても良いけれど、悲しませたくはない。辛い思いはさせたくない。

 泣かないで。泣かないで。

 瑞穂は、泣きながら貴之の背中をなでた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 分からないまま瑞穂は謝っていた。何故か、彼が泣いているのは自分のせいのような気がして。自分が彼を傷付けているような気がして。いつだって彼女は、彼を傷つけたいと思ったことはなかった。彼から見放されて、辛くても、悲しくても、いつだって彼には笑っていて欲しかった。そして、それを向けてもらいたかっただけだった。

 貴之の腕の力がゆるみ、少しだけ体が離された。けれど、瑞穂を抱きしめる腕は放されることなく、彼が瑞穂の顔をのぞき込んできた。

 ためらいがちな動きで、彼の顔が近付いてきた。

 瑞穂が思わず目を閉じるとついばむようにキスをされた。

 唇が離れると、涙をすくうように瞼にキスがおとさた。そして次は額に、それからほほに、触れるだけのキスを繰り返される。

 再び唇に重ねられ、彼の舌が口内に浸入してくる。

 涙の味がした。

 どちらの、涙だろう……?

 ぼんやりと考えながら、彼のキスに応えた。

 彼を抱きしめる腕に力を込めた。

 これは、最後の夢かな?

 私の願望が見せる、夢なのかな?

 だとしたら、永遠に続けばいい。これが夢なら覚めないまま死んでしまいたい。

「貴之さん、貴之さん……」

 唇の離れる合間に、何度も彼の名前を呼んだ。

 その度に、強く抱きしめられ、深く口付けられる。

「俺から、離れて行くな」

 苦しみをこらえながら、唸るように彼が呟いた。

 今、この人は、なんて言ったの……?

 瑞穂は自分の耳を疑った。

 けれどその疑いを打ち消すように、強く、更に抱きしめる腕に力が込められる。

「……愛しているんだ……」

 そう呟いた言葉が聞こえた。

「……うそ……」

 茫然としている瑞穂の口から呟きが漏れる。

「だって、貴之さん、私のこと、ずっと、避けてて……」

 体の力が抜ける。寒くもないのに、体ががくがくとふるえた。

 けれど貴之の抱きしめる腕の力が瑞穂の体を支えていた。

「避けてたのは君じゃないか……!!」

 思わぬ激しい言葉に、びくりと体がこわばった。

「ちがう……」

 貴之の目を見て、何度も首を横に振った。

 軽く後ずさろうとした瑞穂を、貴之の腕が阻止する。

「避けてなんかない、私は、ずっと……」

 涙に喉が詰まって、声にならず、瑞穂はただ、何度も首を横に振っていた。

「ずっと? ずっと、なんなんだ?」

 彼の真剣な瞳が瑞穂を見つめていた。

 瑞穂は逃げたくなっていた。怖くてずっと言えずにいたことを今問われている。けれど彼の視線に追い詰められて、瑞穂はまとまらない言葉で必死に話し始めた。

「私は、ずっと、貴之さんと、一緒にいたかったのに、貴之さんは、だんだん、離れて行くばっかりで……」

 涙に言葉を途切らせながら、言葉を紡いだ。

 ずっと言えなかった言葉だった。ずっと言いたかったことだった。やっと言えた。貴之の瞳は自分の存在をを拒否していない、それを感じ取って、やっと。

「だから、もう、私なんか、飽きちゃったんだって、思って……、でも、それでも、側にいたくて、奥さんの座にしがみついて、別れを切り出せなくて……。縛り付けて、ごめんなさい……」

 言ったら力が抜けた。後は涙があふれすぎて言葉にならなかった。

 力が抜けた瑞穂の状態に反して、貴之の表情は苦痛を感じているかのように歪み、苦しそうに瑞穂を掻き抱いた。

「馬鹿だ、君は、何もわかっていない……」

 絞り出すような声がした。

「俺は、ずっと君のことだけを想っている。君だけを愛している。どうして、飽きるだなんて思うんだ、どうして……」

 問いつめるような言葉は痛々しいほどの苦痛に歪んで瑞穂の耳に届いた。

「何が君を傷つけた……? 俺の何がそんなに君を追いつめた……? 俺は、君がそんな風に思っているなんて気付けなかった……俺が君を愛していることを、君は当然知っていると思っていた……」

 絞り出される声にたまらないほどの苦しみが滲み出ていた。

 瑞穂は突然気付いた。

 私は、なんてことをしてしまってたんだろう……!

 胸が苦しくなった。貴之の痛みが、瑞穂の物となって彼女の胸にわき上がってきた。

 自分が傷ついたことなど、もうどうでもよくなった。

 貴之の胸に顔を埋め、首を横に振る。

 傷ついていたのは、彼だ。傷つけていたのは自分の方だった。

 そのことに、やっと気付いた。

「……ごめんなさい、貴之さん、ごめんなさい……」

 貴之の気持ちを信じられなかった自分が彼を傷つけた。彼はずっと想ってくれていたのに、自分の自信のなさが彼の想いを疑い、否定し、勝手に遠ざかり、結果、彼を傷つけたのだ。

「貴之さんが好き。私は、貴之さんだけを愛してるのに……、なのに、私……。ごめんなさい、ごめんなさい……」

「瑞穂」

 胸に埋めていた顔を貴之に持ち上げられ、再び彼が口づけてきて、言葉は途切れた。

「瑞穂。愛してる」

 キスを繰り返しながら、貴之が何度も呟いた。

 それ以上何も言わなくていいと、今、確かめたいのは、互いの気持ちの在処だと、態度で貴之が訴える。

「私も、貴之さん……、私も、愛してる」

 想いを確かめ合いながら、泣いた。

 こんなに思いは同じだったのに、何故こんなすれ違いが生じたのだと。

 何故、こんな苦しみをこの人に与えてしまったのだと。

 貴之にすがり、背中に回した手で、彼の服をぎゅっと握りしめると、貴之が決意を込めた声で、低く呟いた。

「……離さないから。絶対に、君を手放したりしないから」

 貴之の両手が頬を包み、視線が瑞穂の瞳を捕らえる。

「たとえ、君が日本に残ると言っても、もうそんなこと許さない。たとえ泣かれても君を奪って行く」

 瑞穂は彼の真っ直ぐに向けられる視線を受け止めて、涙に濡れた顔で、それでも鮮やかに微笑んだ。

「はい。私は、どこまででも、あなたと一緒に……」

 それ以上、言葉にならなかった。涙に声が消された。

 けれど瑞穂は笑顔だった。それを見た貴之もまたほほえんでいた。

 これほどの幸福があるだろうか。

 愛してやまない人が、誰よりも自分を求めてくれている。

「もう、二度と君に悲しい思いはさせない。君を傷つけたりしない」

 誓いの言葉のように、貴之が真摯な瞳で言葉を紡ぐ。

 喜びが込み上げる、けれど、それ以上に瑞穂の胸に激しい痛みが突き刺さった。

 貴之の言葉には応えず、瑞穂は同じほどの真摯な瞳で彼をを見た。

「私は、あなたを傷つけたの?」

 問いかけと言うよりも、確認だった。

 瑞穂は貴之の瞳を探る。

 いや、と貴之が首を振るが、瑞穂にはそれで十分だった。

「私も、約束するから。あなたに、悲しい思いをさせないって、傷つけたりしないって」

「瑞穂、俺は……」

 貴之が否定の言葉を口にしようとするのを遮った。

「貴之さん、二人だけの、約束をしよう?」

 とまどった様子の貴之に、僅かに微笑んでみせる。

「気持ちを胸の中に閉じこめないこと、辛かったり、悲しかったりしたら、必ず言うこと」

 瑞穂は貴之の瞳に訴えかける。ごまかしはいらない、と。

「想いは言葉にしないと伝わらないこともあるから、だから約束しよう? 何でも二人で分かち合ってゆきたい、そう思うから。きっと何かあったら貴之さんはがまんするんでしょう? 私もきっと何も言えなくなってしまうから。でも、それはもう嫌だから。二度と、こんなすれ違いをしたくないから。……そう思うの。ダメ?」

 すがるような気持ちで見つめる瑞穂に貴之が優しく微笑みを返してきた。

「約束するよ」

 そして、僅かに体を離して、穏やかな顔で貴之が言った。

「瑞穂、話をしよう、これからの俺達のために」

 視線を合わせてささやく貴之に瑞穂は小さく首を傾げたが、優しく自分を見つめる瞳に、微笑みを浮かべてうなずいた。

 それに応えて貴之が小さくうなずく。

「大事な話だよ。同じ過ちを繰り返さないための、大事な。だから気持ちを隠さず全て話してほしい。……俺も、何も隠さない。きっと、それは互いにとって苦しい言葉を聞くことになる。きっと自分のしてきたことを悔い、苦しむことになる。それでも、これから先の俺達にはきっと必要なことだから」

 彼の強い瞳に、瑞穂は少しの悲しみを浮かべ、うなずいた。

 貴之が何を話し合おうとしているのかがわかった。

 確かに、それは必要なこと。

 そしてそれは瑞穂の知りたいこと、そして貴之もきっと知りたがっていること。


 何が、こんなすれ違いを招いたか。

 何が瑞穂をそんな風に思わせたか、何が瑞穂を傷つけたのか。

 何が貴之を遠ざけてしまったのか、何が貴之を傷つけたのか。


 それを話すということ、それは瑞穂の愚かさを伝えるということ。貴之を信じられていなかった自分をさらけ出さなければならないということだった。

 自分の愚かさを貴之に伝えれば、きっと貴之は逆にそれを気づけなかった貴之自身の愚かさと受け取るだろう。

 そして、貴之も思っているのだろう。貴之の言葉は、瑞穂にとって、瑞穂自身を苛むことになると。

 貴之の言葉通り、これからしようとする話は互いを苦しめることになるだろう。それでも、それを乗り越えた先には、きっと二人で歩んでいける道が開けるはずだから。

 これは瑞穂が約束した言葉の第一歩。

 全てを二人で分かち合ってゆくため、今は言葉でしか伝えられないことを知るため。

 

 貴之に肩を抱かれ、瑞穂は一緒に歩く。

 きっと長い話になる。

 きっと辛い話になる。

 泣いて、彼を困らせるかもしれない。

 けれど信じている。

 きっと話し終えたとき二人は笑っているだろう。

 一緒にいる喜びを分かち合っているだろう。

 これから先、一緒にいられる喜びに幸せを感じているだろう。

 長い夜になる。

 でも、それを終えたとき、必ず夜が明ける。

 そのための一歩を、今二人で踏み出すのだ。



 4日後には瑞穂は一人日本に残り、笑顔で彼を見送るだろう。

 そして急いで退職に向けて引き継ぎをして引っ越し準備をして……、それから1日でも早く会いに行こう。

 きっと人生で2度目の、二人で進む出発地点。

 まずは離れることになるけれど、きっと幸せな気持ちでのスタートにするのだ。

 これからは、愛している人に愛されて、望まれて、共に生きていくのだから。


 予感がある。


 これからの未来、きっと二人で歩んでゆける。

 ずっと。


 そして、その予感は、きっと現実になる。


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