閉じられた箱庭の幸せ
山の奥深く、その男は小さな木の家の扉をゆっくりと開いた。
「姫、ただいま戻りました」
質素な小さな家の中は、やはり質素で、その中には少しの家具が置かれているのみ。その小さな部屋の中に、一つだけ動く影があった。
年頃の若い女性だ。年は十代後半ぐらいだろうか。
男の声に反応して、無邪気な笑顔を浮かべた彼女が駆け寄る。
声もなくまとわりついてくるその女性を、男は愛おしそうに抱き寄せた。町から外れた森の奥の小さな家、質素な服、少ない家具、どれもが彼らの質素な生活を物語っていた。否、彼らの過去を思えば粗末と言った方が正しいかもしれない。
けれど、ここには彼女の屈託ない笑顔があった。それは、以前の暮らしにはなかった物であった。男はそれさえあれば幸せだった。
男が彼女を「姫」と呼んだ通り、腕の中にいる彼女はもともと一国の王女であった。けれどそれも見る影もない。
命を落としかねない毒を盛られたが為に。一命は取り留めたが、彼女はたくさんの物を失った。
陰謀が渦巻く王宮内の勢力争いに巻き込まれたのだ。
美しく賢かった姫は政略結婚で間もなく有力な貴族の元に降嫁する予定であった。その時に政敵がそれを阻止しようと姫に毒を盛り、暗殺されかけたのだ。
賢明な処置と看病で、幸い命は助かったが、目覚めた彼女は、声を失い、知性を失っていた。
男は、彼女の護衛の騎士であった。守るべき姫を守れず、死の淵に漂わせ、あまつさえ、通常の生活さえ困難な姿にさせてしまった。
彼は己を責めた。
まるで何も知らぬ赤子のように、息が漏れる程度の声にならぬ声を吐き出し、ぼんやりと辺りをただ見つめ、気に入らなければひたすらに訳も分からず泣きわめく。わめくときですら、ただ息が強く漏れるのみ。
彼女は、王宮内でその存在意義を失った。
男は、このままでは彼女の命が再び危ないことを感じていた。この哀れな姿は、ともすれば醜聞となりかねない。それを隠すために今度は味方から狙われはじめようとしていたのだ。
彼は姫をさらい、王宮を出た。形ばかりの捜索がなされ、姫の存在は亡き者とされた。
そして今はこうして山奥に居を構え、二人だけの生活をしている。男は騎士の身分も剥奪されお尋ね者となり、細々と暮らすのがやっと。
けれど、彼はなんの悔いもなかった。
彼女は聡明な姫だった。だが、聡明さ故に、あらゆる事を諦めたように、影のある笑みを浮かべる姫だった。自らの喜びや幸せ、望みを諦めている姫だった。
けれどここに逃れてきてから、彼女は少しずつ表情を取り戻した。あの頃の姫の聡明さは失われたままだったが、知性をなくし赤子のようだった様子とも変わってきて、感情も、意志も表現できるまでに戻っている。
今はただ、何も知らぬ子供のように笑い、泣き、感情を表に出す。
男は、ただ、そんな彼女が愛おしかった。
男は王宮を逃れてから今までを思い返す。
あれから一年が経っていた。今日は記念日とも言えよう。
男が、胸に秘めるしかなかった思いを叶えた日。愛する姫をその手に得た、記念すべき日。
男は恍惚とした笑みを浮かべた。
腕の中に、彼女が居る。
そして姫に口付ければ、彼女はさも幸せそうに微笑む。
いくら思っても、手を伸ばすことさえ許されない存在だった彼女が、今は腕の中にいて口付けに応えてくれる。
男は、彼女が聡明さを失うことで、彼女を手に入れたのだ。
腕の中の姫は幸せそうにふんわりと微笑み、男を見上げる。小さな手は彼の背に回され、男を包み込んでいる。
男も、この上なく幸せな笑顔を返す。
頬を撫でると、彼女はくすぐったそうに肩をすくめ、けれど彼から逃れることはしない。
こんな笑顔を浮かべる人だったのだと、この森の奥で暮らす内に知った。
あの頃の儚い笑顔ではなく、あたたかな、屈託ない笑み。
あなたには笑顔がよく似合う。
男はその事を誇らしげに思う。この笑顔を、自分が浮かべさせているのだと。自分がこの花を咲かせ、守っているのだと。
あなたは、ここで微笑んでいればいい。楽しい夢を見続けていれば良い。
男は全てを失い哀れな姿になったかの女を見て思う。
きっと、これは、あなたにとっても、そして私にとっても、幸せなのだ。
私はあなたを何者からも守ろう。だからあなたは、このままここで笑顔を絶やさずに居てくれればいい。私があなたのために作り上げた、あなたと私だけしかいない、この小さな、箱庭で――
* * * * * *
意識が戻ったとき、彼女の中にあったのは「感情」だけであった。
不快かそうでないか、気持ちいいかそうでないか。
彼女はそれだけを感じ、それを感じたままに反応を返していただけだった。
そのうちに、快不快以外にも違う感情を覚えるようになった。
うれしい悲しい、楽しいつまらない。
快不快の中の細かな感情を意識し始めたのだ。
感情だけで生きていた彼女は、認識を細分化する内に、自分とそこにいる自分以外の存在を意識するようになった。自と他を分けて認識できるようになったのだ。
そこにいるのは若い男だった。もちろん彼女はそれを若いとか男だとか認識できはしなかった。
認識できたのは、自分の意識では動かない存在がいること。
けれど、自分が訴えれば「それ」は反応して望むことを時折返してくれる。
「それ」が与えてくれるものはたいてい気持ちのいいものだった。
自分を包み込むように抱きしめてくれる体も、空腹の時に与えられる食べ物も、向けられる笑顔も、どれもこれもが気持ちのいいものだった。
男は頻繁に口を動かして何か音を出していた。その音が意味を持っているのだと理解したのはずいぶん経ってからだった。
彼女はそれまで「感情」の世界だけで生きていたのだ。意志の伝聞の方法など知るよしもなかった。
だが、男が何度も口にする音があることに次第に気付いていった。
「出かける」「待っていて」この音は同じ意味を持っているのだと気づいた。
それは、男が自分の前からいなくなるときの音だった。
彼女は、その音を理解していなかったが、知っていた。意味があるのだと気付いてから、その言葉の意味もそのまま知っていた。
けれどそれは知識としてあっても、彼女にとっては意味のない音に等しかった。意味が理解につながっていなかったのだ。出かけるといわれると出かけるのだとわかった。けれど男が家を出て行くことだと理解できていなかった。そして、彼が出かけてから「それ」がいなくなったことを不快と感じるだけだった。彼女の中で、何一つつながりを持っていなかった。
けれど、次第にそれは彼女の中でつながりを持ちはじめ、ある日、言葉が彼女にとって意味を持ったのだ。
出かけるといわれれば、自分が不快に感じる状態につながるのだとわかるようになった。
それはとてつもなく不快で、「出かける」と言われれば、彼女は力一杯不快感を示した。
けれども「それ」は、どんなに彼女が不快を示しても、取りやめてはくれない。「食事」だとか「仕事」だとかなにやら音を出して、とても悲しそうな顔をして彼女をおいていくのだ。
彼女は「それ」がそんな表情をするのもまた、不快だった。彼女は「それ」が笑っている顔が好きだった。
彼女は「それ」の出す音に意味があることに気づいてからは、時折その音を気をつけて聞くようにした。
彼女の中で、「感じる」、「表現する」以外に、「思考する」ということができるようになり始めていた。
物事の認識が点でしか存在していなかったことが、つながって認識できるようになり始めていたのだ。
それは日々を過ごす中で、少しずつ増えてきていた。
彼女はだんだんと彼の行動が言葉で理解できるようになっていた。
彼が出かけると言うと、そこにいなくなるということ。けれどそのうち帰ってくるということ。そして必ず何かいいものをくれるということ。
そのうちに「なぜ」と考えるようになっていた。
ちゃんと彼のすることには理由があるのだとわかってきたからだ。
そのうちに、彼女はあるひ突然に思い出した。
私は、彼を、知っている。
彼女は、記憶を取り戻したのだ。と言っても、全てを思い出したわけではなかった。いくつか断片的に思い出すのだ。
彼はずっとそばにいてくれた人だった。でも、昔は触れたりすることができなかった。したらいけない人だったからだ。
そばにいられるだけでしあわせで、けれどけっして触れたらいけない人でしかないことが悲しくたまらなかった。
けれど、今、彼はたくさん抱きしめてくれる。
彼女はうれしくてたまらなかった。彼が帰ってくれば、駆け寄って彼の背中に手を回す。すると彼も笑顔で自分を受け止め、そして優しく抱きしめ返してくれるのだ。二人だけしかいない世界は幸せで仕方がなかった。
そのうち、彼女は、彼以外のことも思い出していった。自身のこと、過去のこと、なぜ自分がここにいるのかということ。
彼女は記憶を取り戻すことで、飛躍的に思考力を回復していった。
ただ、ここに来てからのことは、ほとんど覚えていない。かすかな記憶の向こうに、彼が献身的に尽くしてくれていたことだけを漠然と思い出せるのみだ。
今ではほとんどのことを思い出し、理解している。
彼女は彼の姿から、自分がおかしくなってから、おそらくそう何年もは過ぎていないだろう事にも気付いていた。
けれど、彼女は、今日もなにも知らないふりをして、あどけなく笑って、かえってきた彼にとびついて帰宅を歓迎する。
思ったままに振る舞っても彼は受け止めてくれる。その幸せは過去にはあり得ないことだった。何より彼はこんな自分に、幸せそうにほほえみかけてくれている。以前よりずっと優しく、ずっと幸せそうに。
無邪気を装って心から溢れる愛しさを示せば、彼は「愛しています」と心を込めた言葉と抱擁をくれる。
この幸運を手放す気はなかった。
それは、自分が全てを失ったからこそ得られた物。
彼女は思う。
私は、なにも知らない哀れな女のままでいい。彼にいかほど苦労をかけているのかわかっていても、それでも私は欲望のままに演じ続ける。
それが例え彼の忠誠心と、哀れな女への哀れみであろうとかまわない。
笑顔で抱きしめ返してくれる彼の存在を留めておけるのなら、いくらでも哀れな女を演じよう。
この小さな箱庭の中だからこそ許される、その幸福のために。
* * * * * * *
「姫、愛しています」
愛おしげに、とろけるほどの笑顔を浮かべて男が囁く。
『私もお慕いしております』
彼に届かない、声にならない声を吐息に乗せて、彼女がこの上なく幸せな笑顔で返す。
それは、男が作り上げ、彼女が望んだ、小さな箱庭での、小さな幸せ。
以前、すぴばるでツイッターのお題を元に書いた物です。
「「箱」、夢見がちな作品を創作しましょう。補助要素は「記念日」です。」