或る男の終焉
和風。
ああ、酔いが回る。
ぐるぐる、ぐるぐると世界が回るような、そんな酩酊状態の自分を自覚する。
ふらり、ふらりと歩いて、とんと寄りかかったのは一本の木。
ずるずると座り込んでみれば、仰いだ先に、闇夜を纏い白く浮かび上がる満開の花。
月明かりに照らされた花木は、ちらり、ちらりと花びらを散らし、ふわり、ふわりと舞い落ちる。
桜の季節か。
よぎる想いは、甘く、苦く胸を突き刺す。
会いたいなどと思うのは、愚かなことだろうか。
ああ、だが、会いたいのだ。
一目でいい。お前の笑顔を見たいのだ。
どうか、迎えに来ては、くれまいか。
愚かにも、自身で失ったお前に、今更ながらに願うのだ。
どうか、お前のおらぬこの世界から、連れ去ってはくれまいかと。
遠く離れた地で虫けらのような地を這う暮らしをして二十年。
他の男に嫁ぐのは嫌だと一緒に逃げたいと縋った女から逃げた。逃れた先で身を落ち着けるも、彼女のいない虚しさに、生きる意味さえ見失った。
俺は恐れたのだ。
思い返して瞑目する。
お前を連れ去ることを。
二人でこの地を逃れ、その先でお前が俺を選んだことを悔いるのを。
お前が俺を憎むのを恐れたのだ。
金も力もない俺が、お前を連れて逃げたとして、まともな暮らし一つさせてやれるはずもなかった。愛想尽かされるのではないかと、恨まれるのではないかと、先を思っただけで、心が切り裂かれた。それならいっそ手放してしまえと、俺は逃げたのだ。
情けない俺を憎めばいい、愛した想いを憎しみに変えて、俺を忘れなければいい。心が離れてしまうより、手放してお前の心に残って……。
二十年昔の想いが、胸の中を駆け巡っては遠ざかって行く。
彼女が死んだと、風の噂に聞いた。
何のあてもなく、ふらりふらりと彼女と共に過ごしたこの地に舞い戻ってみた物の、全てが様変わりして、数年前に死んだという彼女の生きた影すら、もはやどこにもない。
生きているのなら、それで良かった。それだけで良かったのだ。
地べたに這いつくばる己の人生が先に終わると思っていた。
もはや遠くに思うその存在は、ただただ愛しい面影となり、幸せになっていればいいと、それだけを願っていたのだ。
ふわりと夜風に晒されて、薄く開けたまぶたの先はうすらぼんやりと揺れる花木を映し出す。
お前も、桜が好きだったなぁ。俺は、桜を見ているお前を見るのが、好きだった。
幹に寄りかかり、目を閉じかけたその時、ふと影が差した。
月明かりを背に佇んだ人影をぼんやりと眺めては、つくづくと、美しいな、と考える。
夢を見ているのか、はたまた酔いが見せる幻か。
重い手をゆっくりと人影に伸ばせば、影はふわりと男の傍に膝をつき、そっと手を取った。
男はうっとりと笑みを浮かべる。
「……」
一目会いたいと思った女の名を呼べば、影はさも嬉しいと言うように、艶やかな笑みを浮かべた。夜の闇の中に、確かに彼女がいる。すぐそこに忘れることさえ叶わなかった、愛しい、愛しい女がいる。
震える唇から、嗚咽が漏れた。
夢でいい、幻でいい、お前に、最後に一目、逢いたかったのだ。お前の心を踏み躙って、情けなくも逃げて尚、それでも、お前が恋しかったのだ。お前のいないこの世は、あまりにもむなしい。
どうか、連れて行ってはくれまいか。
震える唇は、もはや声も出なかった。代わりに、愛しい女の影は、別れたあの頃のままの笑顔を浮かべて幸せそうにつぶやくのだ。
「やっと、迎えに来てくれたのですね。……永うございました。共に行こうと約束したこの木の下で、待って、待って、待ち続けて……ああ、ようやく、おまえさまが迎えに来て下さった。わたくしは、幸せでございます」
愛おしげにつぶやくその笑顔から、はらりはらりと涙がこぼれ落ちる。
ああ、そうか、お前は待っていてくれたのか。逃げた俺を、忘れずに待っていてくれたのか。逃げた俺の愚かさを許してくれるというのか。
満たされる幸福感は、思いあまって涙となってあふれ出る。
「さあ、おまえさま。共にゆきましょう。約束したとおり、二人で共に」
ああ。
男は込み上げる喜びを胸に、力のこもらぬ体でうなずいた。
ああ、共に行こう。
今度こそは、手放さぬよう。
お前と共に、どこまでもいこう。
その日、古木の下で、薄汚れた老人の死体が見つかった。古木に寄りかかったままつめたくなったその老人の顔は、のたれ死んだとは思えないほどに穏やかで幸せそうな物だった。