還る場所
節分のお話。
小さな影が、ふらり、ふらりと暗闇を進んでゆく。
十にも満たない小さな少女の影だ。
「セツ……セツ……?」
幼い声が、あたりに響く。
ひっく、ひっくと泣きじゃくりながら少女は素足で薄暗い山の中をさまよっていた。
「セツ……?」
呼びかける声は小さく口から漏れ、風の音にかき消されてゆく。
少女はごしごしと涙をぬぐった。
拭うと周りを見渡し、誰もいないのを痛いほどに感じ、こらえきれずしゃくりをあげる。 うぐっとこみ上げてくる涙を飲み込むと、苦しくて、嗚咽が漏れた。ひぃんっとしゃくりをあげると、こらえていた涙がぼろぼろとこぼれた。
風は冷たい。空気は斬りつけるように冷たく、足下にある小枝や石だけでなく、冷たい土さえも少女の足を刺すように痛めつける。
寒さで真っ赤になった素足、前をあわせただけのみすぼらしい薄手の服。
冷え切った指先をぎゅっと握りしめ、少女はしゃくりをあげながら、薄暗い山の中をさまよう。
「セツ……、セツ……」
少女は誰もいない木々の中に、彼の姿を探す。優しい彼の笑顔が脳裏をよぎり、彼の声が頭の中で響いた。
『ハル』
自分を呼ぶ彼の声は、耳の奥深くで、今も鮮明によみがえる。
『どうしても行くのかい?』
あのとき、彼はそう問うたのだ。
少女は答えた。
『うん』
その返事に、彼は、悲しい顔をした。
『もう、やめよう。彼らに期待するのは、やめた方が良い。ハルが傷つくだけだ』
悲しげな彼に、少女は首を横に振った。
『でも、あそこが好きなの。一緒に、いたいの』
『ハル』
責めるように、なじるように、諭すように、そんな彼の感情が込められた呼びかけに、少女はもう一度首を横に振った。
少女は、一年前のそのときの事を思い出していた。
あのとき、彼の言うとおりにしておけば良かったのだろうか。彼らとの関わりを絶ち、二人で山の奥に身を潜めて暮らしていれば、こんな思いを、今更のように感じずにすんでいたのだろうか。
冷え切った体に、後悔と絶望が渦巻き、少女はとうとう歩みを止め、立ちすくんだ。
「セツ」
ここには、何もなかった。
求め続けてきた物も、大切な彼も、何も。
あるのは闇と、絶望と、体を切りつけるような寒さ。
何度も、何度も感じてきた絶望。もしかしたらと期待しては、その期待は毎年この時期になると裏切られる。それでも、と。暖かな彼らの笑顔に期待を抱かずにはいられなかった。身を寄せ合い、互いに思い合って生きる彼らを見るのが、少女は好きだった。
その中に入りたくて、仲良くなりたくて、少女は彼らに憧れた。
何度も、何度も裏切られてきたのに、それでも諦めきれずに。
けれど、そんな少女を守るようにずっとそばにいてくれた彼は、一年前、とうとう彼らに見切りをつけた。
一緒に行こうと何度も言ってくれたのに、少女は彼よりも、彼らを選んだ。
そして一年が経つ今頃になって少女は思い知った。
セツがいたから、私は彼らを恋しんだのだと。セツがいたから、彼らに憧れた。悲しみも、苦しみも、包み込んでくれる彼がいたから彼らを好きでいられたのだと。
「セツ、セツ……」
泣きじゃくりながら、もう一度彼の名を呼ぶ。
もう、ここにはいないのだろうか。
最後に会ったのは一年前。彼は、ここで私を待っていてはくれなかったのだろうか。
少女の目から、またもや涙があふれ出した。
「セツ……」
ごめんなさい、ごめんなさい。
心の中で、何度も謝った。
あんなに心配してくれていたのに。私は、彼の気持ちを裏切った。彼が私を求めてくれていると知っていたのに、私は彼を選ばなかった。優しい、寂しがり屋の彼を捨てて、私は彼らの元で暮らす事を選んだ。
でも、それは間違いだった。
少女は彼らに追い立てられてようやく、ここまで逃げてきた。どんなに恋しくても、自分は彼らには忌むべき存在でしかないのだ。
それを、今更ながらに思い知った。一人で味わった絶望は、あまりにも苦しく、もう一年、がんばろうという気持ちも萎え果てた。
少女は彼の名を呼ぶ。
彼らの事は、もう諦めたから。どうか、もう一度、あなたのそばにいる事を許して。
祈るように、彼を思い浮かべる。
少女はこみ上げる悲しさと絶望、そして、誰よりも今そばにいて欲しい存在がここにいない喪失感に、がんじがらめになっていた。
「ハル?」
ガサリと音がした。
少女はゆっくりと声のする方に目をやる。
「……セツ」
目の前に、ずっと思い描いていたその人がいた。
見上げるほど大きいからだ。整いすぎるほどに美しい顔。優しく穏やかな瞳。つややかな黒い髪。
「ハル、………やっと、見つけた」
冷たく見えるほどに美しく整った顔が、ほころぶようにほほえんだ。
歩み寄ってきた彼に、小さなその体は軽々と抱き上げられ、優しく少女を包み込むようにその体はとらわれる。
「かわいい俺の姫。迎えに来るのが遅くなってすまなかった」
優しくささやかれる声に、少女は何度も首を横に振る。ありがとうと、声にならないままに、少女はしゃくりをあげる。
少女の小さな手が彼のほほに触れた。
「こんなに冷たくなって」
彼が包み込むように手を重ねる。
「セツ、怒ってない?」
少女の問いかけに、彼は首をかしげた。
「置いていって、ごめんね」
少女の言葉に、彼はほほえむ。
「ハルは、俺がいなくて、寂しかった?」
うなずいた少女に、彼はうれしそうに笑みを深くした。
「なら、おあいこだ」
「おあいこ?」
「そう」
大きくうなずいた彼に、少女はくすりとほほえむ。
「やっと笑ったな」
小さな影は、大きな影と寄り添って山の中へと消えてゆく。
冷たい風が吹き、さらりと彼らの髪がそよぎ、隠れていた角がちらりと見えた。
「おにわーそと、ふくわーうち」
節分の豆まきの声が、山のふもとの家々から聞こえてくる。
人に憧れ、恋しんだ鬼は、鬼を追い払う声から逃げるように、山の中へと姿を消した。
恋愛です。