電車でスーツのおじさんと。(仮)
お題:スーツ 通勤電車
あの人、いるかな。この電車に、今日も乗ってる?
この前彼がおりたのはこの駅。ここで待ち伏せして、私は電車から降りてくる人の流れの中に彼の姿を探す。
彼と出会ったのはこの電車の中だった。たった一度、言葉を交わしただけの彼のことが忘れられない。情けない出会いだけれど、その分、印象的だった。
あの日、私は電車が揺れた拍子に足元が滑り、そのまま足首をひねって、すぐそばにいた人に顔からつっこんでしまったのだ。
顔から彼の胸に向けて倒れてしまった時のことを思い出す。
抱きしめるように手が伸ばされ、体が支えられたその瞬間。整髪料だろうか、シャンプーだろうか、鼻をくすぐる清潔そうな香りと、ほのかな男の人らしい体臭がして。
あっと思って顔を上げて見えたのは、ゆるめられたネクタイと、ボタンが一つはずれたワイシャツ。
見えていたのどぼとけはその人が顎を引くことで隠れてしまう。代わりに見えたのは顎のあたりのわずかに伸びた髭と、自分とは違う少し焼けた肌の色。
「すみませんっ」
慌てて謝ると、仰いだ視線の先で、厳しそうな少し強面の顔が、思いもよらず、優しげに笑った。三十代半ば頃だろうか。笑ったときに出来た目元の皺が、なんだか愛嬌があって意外に可愛く見えた。
一瞬見ほれた物の、とっさに握りしめていた彼のシャツの存在に気付き、慌てて手を離す。そこで、「ぅぎゃっ」と変な声を上げてしまったのは、もう、どうしようもない。
彼のワイシャツに、私の顔の跡がばっちりとついていたのだから。慌てて化粧をして濃くなったとか、何で今日に限って口紅を濃い色にしたんだろうとか、ぐるぐるとどうしようもないことばかり考えてしまった。
「ご、ごめんなさ………」
謝る声が震えたのは、この後どうしたらいいのか考えてパニックになっていたから。だってこの後、急いで学校に行かなきゃいけない用事があって、とてもちゃんとお話しして謝罪する時間なんてなかったから。
「ああ。大丈夫だろ。スーツのボタンを留めたら見えねぇよ」
気にすんな、とぞんざいに言ったその口端が、楽しげに弧を描く。
「それより」
そう言って、彼が少しかがむようにして私の顔を見下ろしてきて、ものすごく近くで目が合った。
「君は、そのくらいの唇の色の方が似合うんじゃないか?」
彼の低く渋みのある声がからかうように耳をくすぐった。
かぁっと顔が熱くなっていくのが自分でも分かって、いたたまれずに下を向くと、笑いを含んだ声が「そっちの方が可愛いな」と、言葉が続けられる。
そんな事ないですというのも変だし、ありがとうございますも違う気がするし、そんな事より、クリーニング代というか、謝罪というか、どうお詫びをしたらいいかについてとか……。
「あの、えっと……」
何を言いたいのか、何を言えばいいのか分からず、でもなんか言わなきゃいけないという事だけは分かっていて、私が言葉を探している内に、電車が止まった。
「じゃあ、俺はここだから。気をつけろよ」
腕が離れ、自分が彼の腕に支えられたままだったことに今頃気付く。慌てて顔を上げると、彼は既に電車を降りていた。
「あのっ」
とっさに出た声は思ったよりも小さくて、雑踏の音にかき消される。電車を降りることも出来ずにその背中を見送っていると、私の声に反応したように、彼が振り返った。
その目が私をとらえてわずかに笑った。彼が小さく挙げた手は、私に向けられた物だろう。とっさに手を振り替えしてしまったけれど、彼の目にそれが映ったかどうかは分からない。私の為に振り返っていた横顔はすぐに背けられ、後ろ姿になって私の視界から消えた。ドアが閉まって電車がまもなく動き出す。
窓の外を見ながら、何度も何度も思い返す。ぶつかってから雑踏に消えるまでの彼の一挙一動をまんべんなく。何度も何度も再生する、彼の声を出来るだけ正確に、頭の中で響かせるように。
迷惑掛けた相手に、一目惚れ、してしまいました。
きっと、一回り以上年上の人。私なんて、きっと相手にならないような小娘だろうと思うけど。でも、もう一回会いたいと思った。
この前のことを思い返しながら、記憶の中にある彼の姿を、もう一度思い返す。
もう一度、会いたい。
私が彼にぶつかった時に乗っていた電車が止まった。乗っているだろうか。
あの日、彼が言ったから、口紅の色は持っている中で一番淡い色にして、ナチュラルメイクで彼を待つ。
あの時の車両を特に注意して彼を捜した。
お詫びを口実に、彼に渡そうと買ったお菓子をぎゅっと握りしめて、なんと声を掛けようかと、心の中で復習する。
『先日は、ご迷惑を掛けました。これお菓子ですけど、お詫びにもらって下さい』
簡単なセリフを頭の中で何度もシミュレーションを繰り返しながらじっと電車の中を見つめる。
ドアが開いて、どっと人が降りてくる中に、彼を必死に探した。
必死で目を動かす中に、彼が見えた気がして、どくんと心臓がはねた。見えたのは顔の半分。とっさにそっちへ向かって体を進め、彼の横顔を発見する。
いた! あの人だ!
記憶の中にある通りの彼。着崩されたシャツの襟元の雰囲気はあの時と同じ。
「あのっ」
この前と同じように、私の声は、周りの音にかき消されて消えてしまう。そして、この前のように彼が気付いてくれることはなかった。
まって。まって。
人の流れに流されながら、必死で彼を追いかける。少し先を行く彼の手が胸元で動いているのが見える。
「あのっ」
ようやく手の届くところにまで近づいて、人から押されるのに抗うように、私はとっさに彼のスーツをつかんでしまった。
つかんだのはスーツの脇腹のあたり。引っ張られた彼が私を振り返った。
「……君は」
驚いた表情で彼が私を見つめてくる。どうやらネクタイを締め直していたらしい彼の喉元は、先ほどの崩れた様相とは違い、綺麗にかっちりと決まっている。
ネクタイを整えていたらしい手がさっと動いて、私の体をぐいっと引き寄せる。
腰に回された彼の手に、パニックに陥りそうになりながら、私は彼と並んで歩くことになった。
「俺に、なんか用?」
どう話しかけるつもりかすっかり頭から飛んで言ってしまって、あたふたしている私に、彼が少し首をかしげて私を見下ろしている。
「は、いっ、あの、この前のお詫びに、そのっ」
あれだけ頭の中で何度も練習したのに……と、この後、この受け答えを何度も思い出して悶絶するのはまた別の話。
彼に腰を抱かれたまま、持っていたお菓子の入った紙袋を持ち上げて、思わず助けを求めて彼を見る。それが助けを求める相手としては非常に間違った相手だということに気付くのも、後になってから。
でも、それで彼は私の言いたいことを察したようで、困ったように笑って首を横に振る。
「気にしなくて良いと、言った筈なんだけどな」
「いえっ、気にしたいです、気にさせて下さい! 受け取って下さい!」
差し出したお菓子を見て、それから私を見て、彼が困ったように髪をかき上げた。
「このお菓子は、君が好きなお菓子?」
「え? はい。おいしいんです」
勢い込んでうなずくと、彼がにっこりと笑う。
あ。
この前可愛いと思った目元の笑い皺が目に飛び込んできて、きゅんと胸が疼く。
「じゃあ、それは、君が食べることにして、で、どうしてもお詫びがしたいって言うのなら、今夜、メシ食いに行くの、誘われてくれないか?」
「……え?」
もしかして、食事に、誘われた? なんで?
バカみたいに口を開けたまま彼をまじまじと見つめていると、笑っていた顔が、からかうような楽しげな顔だと言うことに気付く。
「おじさん相手に、そんなに気軽に声を掛けてたら、簡単に食われちまうぞ?」
「……え? …………えええ?!」
紙袋を持っている手に、ぎゅうううううっと力がこもり、私の体はこわばって、頭の中は真っ白になった。
「気にしてないから、その話しはおしまいだ。脅したお詫びに、そのお菓子は、君にあげるよ」
からかうように笑った彼は、私の腰に回した手をほどいた。
私はとっさに、彼のスーツにすがりつく。
「行きます!!」
「……は?」
とぼけた顔も好みだなぁ、なんて頭の片隅は冷静に思っていたけれど、ここで逃したら、本当にきっかけはなくなっちゃう。ちらりと確認した彼の指には、どこにも指輪ははまってない。
「夕食、おごらせて下さい!!」
「ちょっ、何言ってるんだ。俺が言いたいのは……」
「大丈夫です!!」
うん、大丈夫。仮に彼に襲われても本望、彼が何をする気がないのなら尚更大丈夫。どこにも問題はない!
「彼女さんとか、奥さんとかいますか?」
「いないけどな、だから、そうじゃなくてだな……」
焦ってうろたえている彼に、私は必死になって言いつのる。
「お仕事が終わるのは何時頃でしょうか。私、待っていますから、電話下さい!」
彼を構内の端っこまで引っ張って、手早くスケジュール帳に私の名前と番号を書くとやぶって彼に押しつける。
「……勘弁、してくれ」
疲れ切ったようなつぶやきに、私はようやく我に返る。
もしかして、ものすごく、迷惑なことをしているんじゃ……ていうか、これって逆ナン……?
さっきまでの興奮が嘘みたいに、今度は一気に血の気が引く。
「すみません、あの、お詫びしなきゃいけないのに、逆に、迷惑掛けて、その」
うつむいた私の目に、彼が私の番号を書いた紙切れをもてあそんでいるのが映る。
ふぅ、と溜息が聞こえてきて、呆れたのかな、怒らせたのかな、と体がこわばる。
「……俺は、良いんだよ、俺は。そうじゃなくて、君が、危機感がなさ過ぎるんだ。まあいい、今夜八時、待ち合わせはここだ。怖くなったら来なくていい。むしろ来んな。俺が待つのは十分だけだ。これは返す。……じゃあな」
返された電話番号を書いた紙切れと、「もうちょっと知らない男に対して危機感を持てよ」といって髪をくしゃっと撫でた手の感触とを残して、彼は私を置いて駅を出た。
まくし立てるように言われた言葉と、逃げるようなその態度に、私は、さすがにそれ以上は追いかけることが出来なくて。
彼の態度にしょげてしまう気持ちと、でも彼の言葉が私を心配してくれていた物であることと、でも約束をしてくれた期待感とで、私はその場に立ち尽くして、ぐるぐるとさっきまでの会話を思い返していたのだった。
その後、八時の待ち合わせにやってきた彼に、「君は危機感がなさ過ぎるだろう!」と、さんざん叱られ、結局食事をするも、支払わせてもらうことが出来ず、つまりはおごってもらって、好きです、一目惚れしました、また会ってくれないのならストーカーしますぅぅ!!と泣きついて(脅して?)連絡先を聞いて押しかけ、口説き倒して彼女の位置に納まるのは、あと少し、先の話。
ツイッターで、#moe_novel で書いた物が、どーしてもちゃんと書きたくなって、勢いで書きました。