墓守
バッドエンドと感じる方も、いらっしゃるかもしれません。
男は少女の護衛だった。
護衛と言っても男の身分は決して低くない。少女の身分には劣るが、いずれは男もそれなりの家名を継ぐことが決まっていた。
少女は護衛の男を好いていた。一途に慕うその姿は、見ているだけでほほえましい。少女の小さな恋を誰もが応援したくなるほどに。
男も憎からず思っていたが、それでも相手は幼い。
少女の成長を待って、その時に互いが望めばという話はありはしたが、それだけだ。
特に明確な約束があったわけではない。それでも男は主である少女を、この上なく大切にした。変わる事なく慕うその気持ちは何よりも尊く、愛おしい物だった。
少女は年を重ねるごとになお強く男を慕う。
少女は男を心から恋うようになり、そして子供とは呼べない年頃にさしかかろうとしていた。
まもなく成人を迎える頃のことだった。
これまで変わる事のなかった男と少女の日常が、変わろうとしていた。
少女にとある人物との見合いの話が持ち上がったためだ。
その相手は、男より遙かに身分が高く、少女の相手として不足のない人物だった。年の頃合いもちょうどよい。
しかし、男を慕う少女は当然その話を嫌がった。護衛の男が良いと、泣いて訴えた。
少女の家族は見合いの人物との縁を結べないのは惜しいと感じたが、そこまで少女が嫌がるのなら……と、思案気味だ。
男は、少女をこの上なく大切に思っていた。護衛として以上に男自身が彼女を何よりも大切にしてきた。
その思いは、既に親愛だけではなくなっていた。
しかし、男の身分は相応にあるとはいえ、少女より明らかに低い。今までの生活と同じ暮らしをさせることはできない。いくら愛しく思っても、埋められない物が存在することを知っている。少女のかわいらしいわがままを、男では聞いてやることもできない。
幾日も、幾日も男は悩んだ。悩み抜いた末。
男は、少女を突き放した。
自分では与えられぬ幸せがあることを知っていた。それだけが幸せとは思わない。しかし、少女は若すぎた。ようやく大人の仲間入りをする年頃だ。幼さがまだ色濃い少女に、実質的な苦労をかけるのはためらわれた。
年も離れている。
男は、少女を思う気持ち以外、自信が持てる物など、何一つなかった。
少女は泣いて男に縋った。しかし男は少女に応えることはしなかった。
時が経てば、どんなに苦しい思いも感情も、そのうちに癒えていく事を知っていたからだ。
まだ幼さの残る淡い恋など、今の内に忘れてしまえばいい。
男はこの世を恨みながら、少女の幸せを願った。
少女を手に入れられる相手を嫉み、己の不甲斐なさを嘆いた。
それでも望むのは、少女の幸せだ。
恋うた者同士の幸せは得られないかもしれない。けれど、添い遂げることで積み上げられていく暖かな幸せもあるはずだ。
男と別の道を歩むことで、少女は安定した幸せを手に入れられるはずだ……それだけを支えに、彼女から離れた。
そして少女は、見合い相手の元に嫁いだ。
年の近い二人は、いかにも似合いの夫婦だった。若く初々しい二人を誰もが祝福した。
少女は夫となった青年の隣で微笑んでいる。前日まで泣いていたことは、おくびにも出さず。
陰りのある少女の笑顔に男は気付いていたが、それもひとときのことと、自分に言い聞かせた。
釣り合いのとれた二人だ、必ず幸せになるだろう、と。
しかし、それが過ちだったと知ったのは、数年が経った後。
男の元にその噂が流れてきたのは、男が少女の屋敷を去ってからのことだ。
少女が、死んだ、と。
信じられなかった。ただの噂だと信じたかった。事故か、病気か……男は調べた。
そしてつかんだ事実に、男は愕然とした。
少女は、嫁ぎ先で酷い扱いを受けていたというのだ。嫁いだ相手には愛人がいた。少女が太刀打ちできないような年上の女だったようだ。ないがしろにされた少女は、それでも健気にがんばっていたらしいが、最終的には夫の暴行によって亡くなったのだという。
最期は無残な姿で見つかり、あまりにも酷すぎる状態のため、少女の家族にはその姿を見せることのないまま葬られたというのだ。
知った事実を前に、男は震えが止まらなくなった。
男は少女を幸せにするために身を引いたはずだった。
あの相手なら、なんの不自由もなく幸せになれると信じていたからこそ、胸を引き裂かれそうな思いで身を引いたはずだった。
それが、男のしたことは、全くの逆のことだったのだ。少女をどん底の不幸に突き落とし、そして殺してしまった。
男は己を憎んだ。
自分が少女の気持ちに応えていたならば、こんな事にはならなかったのだ。
少女の家族が男に少女を嫁がせることも視野に入れていることを知っていた。
あの時、男が身を引きさえしなければ、苦労はさせたとしても、大切に大切に慈しみ、今も男の隣で笑っていたかもしれないのだ。
男の自信のなさが少女を殺したのだ。男の弱さが少女を殺したのだ。
少女は、迷うことなく男を求めていたというのに、そのことから逃げた。
せめて、婚姻後の彼女の様子を確認していたならば、奪い去ることも出来たはずだ。助け出す隙があったはずだ。少女は、男にならば、現状を訴えてくれていたかもしれない。
けれど、男はそうはしなかった。
少女の幸せな姿を見たくないと逃げていた。
もし彼女の元を訪れていたのなら、救えただろうか。守れただろうか。
男は慟哭した。
少女を思い、少女の苦しみを思い、守れなかった己の不甲斐なさを憎み、手放した愚かさを悔いた。
男は少女の墓を訪れた。非業の死を遂げた彼女の墓は、その死を隠そうとされたのか、とても質素なものであった。少女の家族はずいぶんと反発したという話もあるが、家格の差に握りつぶされ、それすらも聞き入れられなかったらしい。
泣き尽くして、涙も涸れ果てた。
男はその日から毎日毎日、少女の眠る場所へと通った。
墓標に向けて彼女の名を呼んだ。少女の好きな花を手向けた。彼女の好きそうな物を見つければ手に入れては、墓標に向けてまるでそこに少女がいるかのように贈り物をする体で話しかけた。
まるで墓守だと誰もが男を笑った。
しかし男はそれをやめることはなかった。
男は将来を期待されていた。けれど少女の死を知った後、男は何も手に付かなくなっていた。狂ったようにわめき、少女の婚家を調べては、何も出来ない現実に突き当たり絶望する。日がな一日墓の前で過ごしては、ただただ泣き続ける。絶望と憎しみで狂った男は、ついに廃嫡された。
男は、毎日墓に通い続ける。
少女の嫁ぎ先の家の者が何度か訪れたことがあったが、決して近づけさせなかった。もう、二度と少女に辛い思いはさせたくなかった。彼女を苦しめた人間を近寄らせるなど許せなかった。身分の高い者に対する命がけの抗議は、やがて呆れられる形で、そして、少女の存在を婚家が完全に見捨てる形で決着が付いた。
今更になって体を張る己が滑稽だと思った。
それでも、譲れなかった。
たとえ、最も少女を傷つけたのが、己だとわかっていても。
もう、近づけさせたくなかったのだ。
少女の家の者は、何も言わなかった。
ただ、もう十分だと男に声をかけたが、男がその言葉の意味を解することはなかった。
彼女の眠る場所を守り続ける男は、やがて年老いた。
日がな一日、その墓のそばにいて、少女の名を呼んだ。いつまでも、いつまでも、男はその場所を守り続けた。
あるとき、男の姿が墓のそばから消えた。
しかし、ある者は相変わらずいると言った。
誰もいなくなった墓の周りを、時折大きな影がよぎるのを見たという者が幾人もいた。
けれど何処を探しても男はいない。
年老いても体躯のいい男だった。
確かに、その男だったと、誰かが言った。興味半分で男を探す者が現れたが、けれど、やはり誰も男を見つけることは出来なかった。
墓守の男のことを誰もが忘れるほど、年月が過ぎた。
いつしか、荒れ果てた古い墓場で体躯のいい若い男が墓守をしているという噂が流れた。
小さな墓のそばを、男の影が守るようにたたずんでいる。低く小さな声が、墓に眠る主の名を何度も何度も繰り返す。
その影の主に思い当たる者は、それを、墓守と呼んだ。
それを笑う者は、もう、誰もいなかった。
やがて、その墓の主を知るものは誰もいなくなるほどに年月が過ぎた。
その古い墓地には、墓守がいると、人は噂した。
昔、昔から伝わるその土地の者だけが知る、たわいのない噂話だ。
小さな墓を守る墓守が荒れ果てた墓地にいると。
そこを暴く者が誰もいないように。安らかな眠りを妨げることがないように。
その影は今も眠る主の名を呟き続ける。
もう、己が何をしているのか、なんの為にいるのか、つぶやく言葉がなんなのかさえも忘れてなお、何かをひたすらに求め続けて、ただ一つの言葉を紡ぎ続ける。
おわり
********************************
あるとき、荒れ果てた墓地に、小さな影がふらふらと迷い込んできた。
薄汚れた体に、ボロボロの布きれのような服をまとった、小さな子供だ。息も絶え絶えに、ふらふらと歩く。
そして足下の石段に躓き、そのまま転ぶと、もう、立ち上がることも出来なくなった。
「……おなかすいたよぅ……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、ひもじさに泣いている。
「……おとうさん、おかあさん……」
隣国との戦争が勃発し、国境からほど近いこの地では、戦火が町の中まで及んでいた。
子供はそこから一人逃れてきたのだろう。
『……』
男の声がした。
子供は、もう動かすことすら億劫になった体をゆるりと動かした。
目の前に、大柄な男が立っている。古めかしい服を着て、腰に剣を携えている。
子供は敵の兵かと思い一度は体をすくませたが、男の様子がとても穏やかなのを見て取ると、すぐに力を抜いた。
殺されるのでなければ、もう、どうでもいい。
『……』
男が、再び言葉を紡ぐ。
子供の、名前だった。
「どうして、わたしの名前、しってるの……?」
絶え絶えの吐息にのせたか細い声は、それでも男に届いたのか。
表情がどこかはっきりせぬ男の顔だったが、とても優しく微笑んでいるように見えた。
子供の脇にひざまずくと、そっとその髪をなでる。
優しい、優しい手つきだった。
ああ、この、優しい感触、知ってる。
母のぬくもりにも似ていたし、父の大きな手にも似ている。でも、ほんの少し、何かが違う。覚えがあるようで、全くない。暖かいようで、胸の奥がちりちりと疼く。でも、それがとてもこそばゆくて、暖かい。
何処だっただろう。
「わたし、あなたのこと、しってる」
もうろうとする意識の中で、子供は、何となくそう思った。
『お探し、しておりました』
低く響く声は穏やかで、とても心地よく子供の耳に響く。
『もう、二度と、あなたを苦しませることは、いたしますまい』
震える声は、けれど何処までも暖かな物だった。
薄汚く絡まった髪を、まるで絹糸でも触れるように、優しく優しく撫でる、大きく骨張った指。
昔から、この大きな手が、好きだった。
子供は、見知らぬ男の手つきの心地よさに身を任せる。
「さみしかったの」
もう、子供の家族は、どこにもいない。
『私が、おります』
「ずっと、一緒に、いてくれるの?」
『はい、何処までも、お供しましょう』
力ない子供の顔に、笑みが浮かんだ。
ずっと、ずっと、その言葉を待っていた気がする。
なぜだろう。幸せで、幸せで、涙があふれる。
「……うれしい」
小さな体は、どんどんと重くなってゆく。力が抜けてゆく。
ゆっくりと胸を打つ鼓動は、最期に一度、小さく胸を打ち、そしてその動きを止めた。
「ずっと、いっしょ、ね……」
『ええ、共にいきましょう。二度と、私からあなたを手放したりはしません。もう、二度と……』
子供の体がふわりと軽くなる。
『……』
男が子供の名を呼び、その体を抱き上げた。
子供がことさらうれしそうに男にしがみつく。
風が吹き渡る。
ざん……と、木々が音を立てた。
辺りのはびこった草や蔦が、ゆらゆらと揺れている。
忘れ去られた墓のそばに、小さな子供の骸があった。それを抱えるように、朽ちかけた古めかしい衣装をまとった白骨化した男の遺体が重なっている。
草木は揺れながら、墓と二つの朽ちた体を、ゆっくりと、ゆっくりと、覆い隠していった。