懺悔
R15
婚約者のいる人と寝た。そして次の月も、その次の月も生理は来なかった。
そんな現実に直面して頭が真っ白になったのは、もう何ヶ月も前だ。
身軽になったのか、身重になったのかわからないこの体を動かし、夕暮れの道を散歩する。
おなかが目立つ前に仕事は辞めた。妊娠に気づいてすぐに会社には退職願を出した。
無職の身だが、貯金だけはそれなりにある。趣味が貯蓄とは、我ながら良い趣味だった。子供が生まれてから一年ぐらいは余裕で無職でいけるはずだ。その後のことは、今は考えずにいよう。
彼は、会社の先輩だった。ずっと好きで、ずっと見つめていた人だった。でも、彼女がいて、彼女と別れたという噂の直後には、婚約したらしいという噂が入ってきた。
「婚約したって聞いたんですけど、ほんとですか?」
何気ない会話をよそおって尋ねたとき、彼は少し困った顔をして「一応ね」と笑みを浮かべた。
「そうですか、おめでとうございます」
その時の私の笑顔はそんなに引きつっていただろうか。
けれど、それも今となってはどうでも良いことだ。
思い出してため息をつく。
『もしかして、俺のこと、好きですか?』
あの日、彼はそう言った。『婚約の話をしたとき、笑顔が硬かったですよ』と続けて。
「いいえ」と、そう答えた。なのに、体は理性を裏切っていた。
火照った顔が、その色で彼に答えを教えてしまった。じんわりと笑みを深めた彼が私を追い詰めた。
『嘘、ですね。あなたは、俺のことが好きなんだ』
触れてきた彼の指先が、火照った私のほほをひんやりとなぞって、それが気持ちよくて、ぞくぞくと快感が走った。
「……いいえ。お酒を、飲み過ぎただけです」
彼を振り切るために絞り出した声は震えていた。『梓、本当のことを言って』耳もとでささやかれた言葉に、私は必死に首を振ることしか出来なかった。
酔っていただとか、ずっと好きだったとか、拒絶しきれなかった理由を挙げるならいくらでもある。けれど、事実は一つだ。
私は、婚約者のいる人と寝た。そして妊娠した。
最低だ。
情けなくて涙がにじむ。
それでも彼が好きで、忘れられなくてむなしさがこみ上げる。
この子への責任は、私同様、彼にもある。でも、その婚約者には、ない。私には、その婚約者の幸せを踏みにじる権利などない。いや、それ以前に、婚約しているのなら慰謝料とか言われたら大変なことになる。これからこの子と二人で生きていかないといけないのに、それだけは困る。
……なにが婚約者の幸せを踏みにじる気はない、だ。我が身がかわいいだけのくせに。
散歩の最中、考えることはうつら、うつらと流れてゆく。
雲の切れ間からのぞく空の際があかい。
夕暮れ時ともなるとぐっと冷え込む。はぁ、と息を吐くと、吐息が白くなって空中へと溶け込んでゆく。
夕暮れ時、風に吹かれて飛んでゆくたんぽぽの綿毛を二人で並んで見たことがあった。
社員旅行で暇つぶしで道ばたにあったたんぽぽの綿毛を何となく吹いていたときだった。
誰もいないと思っていたのに『なにしてるの?』と声をかけられたときは、心臓が止まるかと思った。子供じみたことをしているのを見られて耳まで熱くなっている私に、隣に来た彼は『懐かしいな』と笑って並んで綿毛を飛ばした。
白い吐息と夕暮れ空に、あの日の光景がよみがえる。
それは風に吹かれて、ふわふわ、ふわふわと飛んでいった。
何でもない話をして、何でもないことで笑って、そばにいると落ち着けて、尊敬していて、大好きだった。
彼にはなにも言わず会社を辞めた。接点は会社でしかなかったから、それっきりだ。
淡い紫色に染まった空の際から、そのまま真上へと視線をあげる。分厚い雲が立ちこめていて、どんよりとしていた。遠くの雲の切れ間から見える空の淡い色合いが嘘のようだ。向こうはきれいで、こっちは暗い。まさに自分の今の立場のようだ。
風が吹いて、寒さが身にしみる。手袋をしていても、指先は寒さで軽い痛みを感じる。 帰ろう。風邪を引いたりして、この子を失うわけにはいかないから。コートの首下をきゅっとつまんで、寒さから身を守る。
たとえ、やったことは最低でも、彼と私をつないでくれる、かけがえのない宝物だ。誰も知らなくても、私だけは知っている、私だけが知っていれば良い、大事な大事な命だ。
夜の帳と共に怪しくなった雲行きに身を震わせ、私は帰り道を急ぐことにした。
「……梓?」
突然、後ろから声がした。よく知っている声に振り返ってみれば、やはり想像したとおりの声の人がいる。
「……上原、さん」
「よかった。君に会いに行こうと思っていたんだ」
ふわりと笑ったその顔が、私の胸を締め付ける。
なぜ、そんな風に彼は笑えるのだろう。私は罪悪感でいっぱいだというのに、なぜ彼は何の憂いもないような顔をして私に笑いかけることが出来るのだろう。
「何の、ご用ですか?」
目をそらし、うつむいてつぶやいた声は、ひどく不機嫌に響いた。
「あれから、話も出来ないうちに会社を辞めてしまったから、探したよ」
少し責めるような口調に怒りがこみ上げる。
なにを話すというのか。浮気をした相手に話しかけるような、何があると。避けたことを感謝されこそすれ、責められる覚えはない。
あの日から、彼と距離をとって、プライベートなことは話さないまま会社を辞めた。引き継ぎの人以外には知られないように、こっそりと。
「……探されるような、用は、ないはずです」
「……君は、会うことが用事にすらならないような男に、バージンくれたの?」
私の拒絶する声に反応して、彼の声が怒りでも抑えているかのように低くなる。
「……俺は、君が好きだから抱いたよ」
「好きだから、なんて、何の免罪符にもなりませんよね。私も、あなたも」
自分の固い声が、冷たい空気の中で白々しく漏れる。彼から、ため息が漏れた。
「君が俺から距離をとろうとするから、焦って、手順を間違えたのは認める」
くぐもった声が、申し訳なさそうに響いたが、私はこみ上げる笑いに口元がゆがんだ。
手順。何の手順?
引きつるように片方だけのほほがゆがむ。この顔は、笑っているだろうか。それとも、引きつっているのだろうか。
「は……はは……」
勝手に笑いが漏れた。
「そうですか。浮気に、正しい手順があるだなんて、知りませんでした」
皮肉な言葉を吐きながら、自分は誰をあざけっているのだろうと思う。彼のことなのか、自分のことなのか。
「浮気のつもりはない」
「じゃあ、婚約者がいる人と関係を持った私は、何をしたんでしょうね」
苦い、苦い笑みがこぼれる。こんな人だとは思わなかった。自分のやったことを棚に上げるような人だとは。なのに、苦しげに顔をゆがませているのを見ると、いたわりたくなる。
ああ、感情はやっかいだ。なぜ、理性で気持ちがコントロールできないのだろう。そしたら、誰も取り返しのつかない過ちを犯さずにすむのに。
「婚約者なんていなかった」
低くつぶやかれた声に「は?」と顔を上げる。
「婚約したって言っていましたよね」
「一応、したことになっていた。………結婚自体をする予定がなかったんだ」
「意味が、わかりません」
「……俺の幼なじみは、母親からのひどい束縛を受けている子でね、憐れなぐらい自由のない子だった。その母親が気に入っているのが、唯一俺で。彼女の彼氏は母親から嫌われていた。すごい良い奴だったんだけどね。学歴だとか、職種だとか、性格だとか、何かと気に入らなかったみたいで。あいつは、幼なじみを母親の呪縛から解放してくれた奴だから。……逃げるまでの時間稼ぎに、婚約したんだ。幼なじみの彼氏が転勤するのに合わせて。本当に、あの子に関しては異常な人だったからね、あの母親は。俺は捨てられた婚約者役をやって、母親を責め立てて、すぐに探しに行けないようにする役目があった。……君を探しに行くのを、後回しにしてしまった」
思いもよらない告白に息をのむ。
「今は、大丈夫ですか?」
「さあ? 俺は幼なじみとも縁を切ったしね。へたに知っていると、逆に足がつきそうだからね。後は彼らの問題で、俺は関係ない」
「……そうですか」
「……なぜ俺になにも言わずに仕事を辞めたの?」
その言葉に返せるだけの物はなかった。持っていた答えは全部彼を責める物か彼にすがるような物ばかりしかなかった。彼の事情を知った今、私になにが返せるというのか。
「……じゃあ、上原さんは、婚約者がいると知りながら寝るような女に、なぜ会いに来たんですか」
「誘ったのは俺だ」
「受け入れたのは私です」
「それは、君が俺を好きだからだとうぬぼれてはいけない?」
「そんな女、ほかに好きな男がいればまた好きだからと浮気しますよね。好きだからなんて、なんの免罪符にもなりません。信用なんて一度失ってしまえばそれっきりです」
少なくとも、私ならそう思う。現に私は思った。彼は、そういう男だったのだと。信用できないと。彼の疑いは晴れたけれど、私には晴らすすべはない。私は、浮気を受け入れた女だ。
なぜ、私は自分をこんなに貶めているんだろう。好きな人を前に、なぜ、こんなことを言わなくてはいけないのだろう。
けれど、これが私がしたことで、選んだことだ。涙があふれる。ぼろぼろとこぼれる涙が止まらない。
妊娠をすると涙もろくなるというのは、本当だと思う。あの日から、私は何かにつけて泣いている気がする。泣きたくもないこんな時にまで止めることが出来ない。
「……するの?」
「しないけど!! 一度間違った人は、ずっと疑われ続ける物だもの」
「……思うんだけどね。取り返しのつかない過ちを犯したことのない人なんて、いないと思うんだ」
「……え?」
「人を傷つけたり、いつまでも忘れられない後悔をしたり、そういうのが全くない人なんて、いないと思うんだよね。いるとしたら、その人は人を思いやれない最低の人間だと思う。失敗をしない人間なんていないから。人間関係で間違いのない対応をし続ける人なんていないから。必ず誰かを傷つけているし、感情的に間違えた選択をすることもある。悪いとわかっていてもしてしまうこともある。抑えられない感情にまかせることもある。後悔を持たずに生きている奴なんて、ろくでもないと思う」
黙ったままの私の傍で、彼は淡々と話し続ける。
「人はね、それを責めるんだよ。過ちをした人を責める。それはね、過ちが痛いことだと言うことを知っているからだ。痛みを知っているから、その痛みを与える人間を責めるんだ。責める人は、痛みにおびえている人だ。痛みの存在をこの世からを消し去りたい人だ。でも、消すことなんて出来ないんだ。だって人は、傷つきながらその痛みを人に与えないすべを学んでゆくから。傷つかないと痛みを知らないから。傷つけないと、自分の行動の意味を学べないから。繰り返し、繰り返し失敗しながら、人は人を傷つけない術を学んでゆく。傷つけない術を学びながら、傷つける何かを憎み、その意味を考え、自分の中にある物を知り、自分の中にも存在することを知ってゆく。そうして痛みを与えた人を許す術を覚えてゆく。君が俺とのことを過ちだと思うのなら、それでも良い。取り返しのつかないことだと思うのなら、それでも良い。大事なのは起こした過ちじゃない。それを悔いたのなら、次につなげることだ。……君は、それが出来る人だと思っている。俺から逃げた時点で、君が後悔したことはわかっている。同じ事はしない人だって言う証明じゃないか」
そんなことをいわれても、私はどう答えたらいいか分からなかった。
彼の視線を受け止め、けれどなにを返すでもなく沈黙を守る。それに耐えかねたのは彼の方が先立った。まっすぐに私を見つめていた彼が、自嘲気味に目をそらした。
「ごめん。ひどいことをしたのは、俺の方だよね。許しを請わなければいけないのは、君じゃない。俺の方だ。俺は酔った君につけ込んだんだ。あのとき君を口説くわけにはいかなくて、でも、俺をあきらめようとする君を引き留めたくて、なにも言わずに卑怯な手段をとった。そのせいで、君が負わなくていい後悔を、負わせてしまった。俺がちゃんと説明をしてさえすれば、君は自分を責めずにすんだはずだった。俺がそそのかさなければ君が後悔する行動をとらずにすんだはずだった。君にその苦しみを負わせたのは俺だ」
ごめん、と彼がつぶやいて私の手を取った。手袋越しの感触は冷たくて、寒さを押しつけられているような痛さでちりちりとした。
「……上原さんが、悪いんです」
懇願するような瞳から目をそらし、私は小さくつぶやいた。八つ当たりだ。わかっている。でも、自分を責めるのは、もう、疲れていて、誰かのせいにしてしまいたかった。
うん、と、彼がうなずいた。
「私は、あなたが好きだっただけなのに」
私のなじるような呟きに、やっぱり彼は小さく「うん」とだけ返す。
「そしたら、こんなに苦しくならなくてすんだのに」
「うん」
「……最低です、あなたも、……私も」
「……うん」
のぞき込んでくる彼の顔が、切なげにほほえんでいる。全部を許してくれるみたいな顔をして、私を見つめている。
「誰が責めても、俺は君を許すよ。君は、俺を許してはくれない……? 君を傷つけて、陥れた俺を、許してはくれない……?」
答えられずに、うつむいたまま握られた手を見つめる。
ちらり、と白い影がよぎった。
またひとつ、またひとつ、白い綿毛がふわふわと揺れながら目の前を落ちてくる。私の手を握った彼の手の上にふわりと降り立ったその綿毛は、じんわりと小さくなって、そして消えてゆく。そこに残ったのは、小さな水滴。
積もり行く先から溶けてゆく。まるで私が彼に寄せるの想いのようだ。凍らそうと思っても、彼の前ではあっけなく溶けてしまう。
ぽろり、ぽろりとこぼれる涙をぬぐうことなく、私は一歩、彼に歩み寄る。
ふれあうほどの距離で、私は彼の腰に手を回した。頭を彼の胸元に預ければ彼の腕もまた、私の背に回される。
彼がささやくように、未来に続く約束を私に告げる。頼むから、君の人生から俺を閉め出さないでと懇願するようにささやかれた言葉に、私はようやく一つだけ小さなうなずきを返す。
ふわふわとうつむいた私の視界を埋める白い影。ちらりちらりと舞って風にながれてゆく姿は、あの日二人で見たたんぽぽの綿毛を思わせた。