初恋の記憶を売ったら、本人が買い戻しに来ました
「クララ。僕は、何か君を怒らせただろうか」
そう尋ねたお客様は、菓子の箱を両手で持っていた。深緑の上着の袖口に、乾いた泥が少し残っている。私は注文帳の上から顔を上げ、慌てて首を振った。
「まさか。ヴァルツ様には、いつもお世話になっております」
答えると、箱にかかっていた彼の親指が止まった。私は何か呼び方を間違えたかと、帳面に書かれた名前を確かめた。ルシアン・ヴァルツ様。王立図書館の蔵書整理官で、伯爵家の次男。修復を請け負っている本の受け取りに、いつもご自分でいらっしゃる方だ。
その顔も、声も知っている。けれど、どうしてこの人が困ったように私を見ているのかは、分からなかった。
「母は療養院におります。お預かりした地図帖は、来週にはお渡しできますが」
「エステルさんが?」
彼が箱を作業台の端に置いた。母の具合を尋ねる声があまりに切実だったので、私は、治療はもう始まっていることと、今朝は熱が下がっていたことを先に伝えた。彼は戸口に半歩戻りかけた足を止め、私の話を聞いた。
昨日の朝、母は紙を裁つ途中で倒れた。呼んだ治癒師が療養院へ運んでくださって、その日の夕方には専門の施術を受けることになったのだ。
「知らせてくれれば、迎えの馬車くらいは……いや、昨日なら、僕はまだ街道にいたね」
「地方の蔵書を調べにいらしていると伺っていましたから。お戻りは今日だったのですね」
「今朝、着いた。工房は金曜に開けているはずだと思って、そのまま」
彼は旅の鞄を足元に置いた。図書館からの依頼書も本も取り出さず、菓子の箱だけを少し私の方へ押す。細い紐を結んだ指が、結び目をほどく前にまた止まった。
「いつものを買ってきたんだけれど、お茶どころではないかな」
いつもの、と言われても、中身が分からない。
私は箱と彼の顔を見比べた。今朝、母の注文控えを確かめた時にも、何ページかにルシアン様の名があった。仕事で知っている方だと、それで安心してしまっていた。
「あの。ひとつ、お伝えしなければならないことがありまして」
引き出しを開けて、折った紙を取り出した。治療費の受領書に重ねておいた、小さな取引の控えである。自分で書いた最後の一行を、もう一度読んでから口を開いた。
「私、昨日、初恋の記憶を売ったんです」
彼は何も言わなかった。外を通る荷車の音が、窓の前からゆっくり遠ざかった。
「その相手が、ルシアン・ヴァルツ様だと。ここに、私の字で書いてあります」
紙を差し出すと、彼は受け取る前に椅子を引いた。座ってもいいかと目で訊かれ、私は頷いた。父の代から使っている椅子が鳴った。彼は紙を読んで、膝の上に両手を置いた。
「僕の名前は、覚えているんだね」
「はい。お仕事のことも。昨日、記憶店へ行ったことも覚えています。ただ、二人でどこへ行ったとか、何を話したとか、そういうことが出てこないんです」
「この店で、お茶を飲んだことは」
「……すみません」
彼は紙の角を親指で押さえたまま、しばらく窓を見ていた。私は棚から客用のカップを下ろしかけ、どれを使っていたのだろうと手を止めた。白いものが二つと、縁に青い線のあるものが一つ。答えは出なかった。
「謝らないでほしい。君のお母さんが助かったなら、まず、それがよかった」
ルシアン様は立ち上がり、私に紙を返した。机を挟んだまま、紙を持つ私の手が落ち着くのを待ってくださった。
「どこの店へ?」
「橋通りの、マルタ記憶店です。初恋は買い手がつきやすいと聞いて。金貨二枚になりました」
母の薬と施術、入院に必要なお金は六枚だった。家にあった四枚を何度数えても、増えはしなかった。工房の棚には値の張る本が並んでいるけれど、どれもお客様の預かり物だ。売れる品を探して空の小箱を閉じた時、ずっと前に見た記憶店の看板を思い出した。
売る前の私は、この紙を書いている。ペンの跡が最後だけ深くなっていた。名前を最後まで書くのに力を込めたらしく、紙の裏へ触れると、ごく小さな凹凸が分かった。
「もう買い手がついていたら、取り戻せないそうです。でも、まだ結晶を落ち着かせている途中だから、お店にはあると思います」
「取り戻したい?」
私は紙を見つめた。ここに書いた名前の持ち主は、私が母の話をした時、すぐに会いに行こうとしてくれた。私の失礼な応対にも、怒ってはいない。
思い出せたら、この人がいま何を堪えているのか、少しは分かるのだろうか。
「はい。できることなら」
「では、一緒に店へ行ってもらえるかな。君の記憶を買い戻したい」
私は首を上げた。彼は今度は、ためらわずに私を見ていた。
「お金は、お返しできません。工房の売り上げから少しずつなら、いつかは」
「返してもらうつもりはないんだ」
彼はそこで一度言葉を切り、言い方を探すように口元を押さえた。
「その記憶を、君のところへ戻したい。受け取ったら僕に何かしてほしいとか、そういう条件もない。……君が、受け取ってくれるなら」
急いで頷こうとして、喉に言葉が引っかかった。私は取引の控えを丁寧に折り直した。角を合わせるのにいつもより時間がかかったけれど、ルシアン様は鞄を持って待っていた。
「お願いします。私も、一緒に行きます」
店の札を休憩中に替え、鍵をかけた。彼は私の歩幅に合わせて隣へ来た。通りで車輪が石に跳ねると、いつからそうしていたのかという自然さで、私と荷車の間に入った。
マルタ記憶店の窓には、色の違う小瓶が並んでいた。旅先で見た海、亡くなった犬と過ごした午後、初めて舞台へ立った夜。中の光は、近寄ると細い糸のように揺れる。買った人はそれを夢の中で味わうのだと、昨日、店主に教わった。
私は薬代を手に入れることばかり考えていて、自分のものが誰かに買われるところまでは、うまく想像していなかった。今日は、店の奥へ足を入れる前に、つい小瓶の札を一つずつ読んでしまった。
「あんたのは、まだ裏だよ」
銀縁の眼鏡をかけたマルタさんが、帳簿から顔を上げた。昨日と同じ赤い肩掛けをしている。私は控えを出し、思い出を取り戻したいと告げた。
彼女はルシアン様を見てから、私へ問いを戻した。
「こちらの方に、代金を払ってもらう。それでいいんだね?」
「はい」
「買い戻しは、元値に店の手数料がつく。金貨二枚と銀貨五枚だよ。昨日渡した二枚を返してもらうことはない」
ルシアン様が革の財布を出した。金貨と銀貨を別々に数えて置く。その音を聞きながら、私は、療養院へ納めたお金が足りなくなるわけではないことを、やっと手元の紙と結びつけられた。
マルタさんは二つの控えに同じ番号を書き、私の方へ一枚を寄越した。それから奥の戸棚を開け、布を敷いた盆に、小瓶を一つ載せてきた。
薄い琥珀色の光が、小指ほどの結晶の中を行き来していた。口の封蝋には、昨日押した私の拇印が残っている。
「他の人が、見たりは」
「していない。封もこのとおり。安定前の結晶は、開けられないからね」
私は瓶を持ち上げ、明るい方へ傾けた。何か懐かしいものが見えるかもしれないと思ったけれど、光は光のままだった。ルシアン様は覗き込まず、私が瓶を盆へ戻すまで、帳簿の横で待っていた。
「今日、戻せるわけではないんですね」
「昨日も話したとおり、取り出してから四十八時間は必要だ。あんたのは明日の午後二時。それより前は、うまく体になじまない」
「二時になったら、お願いします」
マルタさんは帳簿に丸をつけた。瓶を私へ返すか、復元まで預かるかと尋ねられたので、私はそのままお願いした。工房には紙を裁つ台や重しがある。割ってしまうのが怖かった。
「その間にしたことは、どうなりますか」
「この二日間も覚えたままだよ。昨日より前の分を戻すんだからね」
私は買い戻しの控えを鞄へ入れた。今度は折り目をつけず、納品用の薄い板に挟んだ。ルシアン様が戸を開けて待っている。お礼を言うと、彼は肩から少し力を抜いた。
「明日も、付き添っていただけますか」
「もちろん。工房へ迎えに行く」
彼がそう答えてくださったので、私は、明日の二時が少しだけ近くなったように思った。店を出る時には、窓の小瓶を見ずに済んだ。
工房へ戻ると、作業台の上に菓子の箱が残っていた。休憩中の札を裏返し、鞄を下ろした私は、そこでようやく、ルシアン様がお昼を召し上がったのか気になった。
「馬車の中でパンを食べたから、大丈夫」
「いつのお話ですか」
「明け方だったかな」
私は戸棚からカップを二つ出した。今度は、自分で青い縁の方を選び、彼には白い方を置いた。ルシアン様はそれを見て何か言いかけたものの、結局、茶葉の缶を取ってくださっただけだった。
湯を沸かす間に、窓際の小卓を片づけた。修復を終えた本を棚へ戻し、切りくずを払って、菓子皿を置く。彼が箱の紐をほどくと、中から茶色い焼き菓子が六つ現れた。細かく刻んだ橙の皮が、割れ目から覗いている。
「こちらを、いつも持ってきてくださっていたんですか」
「君が気に入ってくれたから。僕も好きで、つい同じものばかり」
お茶を注いでから、一つかじってみた。よい香りがした。歯を入れるとほろほろ崩れて、それから、思っていたよりずっと苦かった。
私はカップを持ち上げた。お茶で流し込もうとして、渋みまで加えてしまった。向かいでルシアン様が、菓子を口へ運ぶ途中の手を止めた。
「固かった?」
「いえ。その……」
まだ五つ残っている。せっかく、私のために選んでくださったものだ。小さくかじれば食べられるし、砂糖をお茶に多めに入れれば、きっとどうにかなる。
そう考えながら砂糖壺へ伸ばした手が、途中で止まった。母の具合を聞かれた時も、記憶を戻したいかと尋ねられた時も、この人は私の返事を待ってくれた。
「もう少し、甘いものが好きです」
ルシアン様は、手の中の菓子を見た。それから箱を見て、私に目を戻した。
「これは、好きではなかった?」
「香りは好きです。けれど、私にはちょっと苦くて」
「四か月も、同じものを食べさせていたのか」
あまりに気の毒そうな顔になったので、私は急いで首を振った。
「気に入ったと言ったんですよね、私が。それなら、ルシアン様には分からなくて当然です」
「もっと早く、ほかの菓子も買えばよかったな。甘いのは、どういうものが?」
「杏のジャムが入ったパイです。広場の角のお店の。端までジャムが入っていて、持ち帰ると、いつも袋に少しついてしまうんですけど」
言いながら、その味を思い出した。袋を開ける時に漂うバターの匂いも、母と半分ずつ食べようとして、結局二つ買ってしまうことも。
ルシアン様が椅子から立った。私は、早々に帰らせてしまったのかと菓子皿を置いた。
「それを買いに行こう」
「今からですか?」
「まだ明るいし、売り切れていなければ。……行きたくなかったら、僕が買ってくるけれど」
「行きたいです。私も」
私は火を落とし、ポットに布をかけた。ルシアン様は食べかけの菓子を皿へ戻してから、残りを箱に入れ直した。そんなに急いでくださらなくても、と言いたかったのに、気づくと私も、扉の鍵を手に取っていた。
広場の菓子屋には、幸いまだパイがあった。最後の焼き上がりだという大きな盆から、私が指した二つを、店の娘さんが袋へ入れてくれた。ルシアン様は、並んでいる砂糖がけの菓子にも目を向けている。
「ほかには?」
「今日は、これで。二人分ですから」
「僕の分も?」
「お好きではなかったですか」
「食べたことがないんだ。あの角の店を、ずっとパン屋だと思っていた」
さっき二人で指差して確認したばかりの店先には、大きなパイの絵が描いてあった。私が看板を見上げると、彼もつられて顔を上げた。長い間その絵を眺めてから、困ったように笑った。
「君の店へ行く時は、馬車の列が切れるかどうかしか見ていなかったらしい」
工房へ戻り、お茶を淹れ直した。パイを皿に置いて割ると、明るい橙色のジャムが少しはみ出した。ルシアン様は一口食べて、何も言わずにもう一口食べた。私は自分のを持ったまま、その続きを待っていた。
「……熱い」
「真ん中は、まだ」
「先に訊けばよかった」
彼は口元を押さえ、残りを皿へ戻した。慌てて水を出すと、今度は慎重に飲んでいる。ようやく息をついた彼の前に、私はパイの端から食べるところを見せた。
「ここは、もう大丈夫です。ジャムもちゃんと入っています」
「本当だ。こっちから食べればよかった」
ルシアン様は教えたとおりの場所をかじった。それから、今度こそおいしいと言った。私はその返事を聞いて、自分の分へ口をつけた。二口目は、一口目より大きくなった。
彼は橙の焼き菓子も一つ食べた。私が少し心配になるくらい、平気な顔だった。好みというのは本当に人によるのだと思いながら、私は皿に落ちたパイの薄い皮を指先で集めた。
「前の私は、どうして好きだと言ったのでしょう」
つい口に出すと、ルシアン様はカップを置いた。答えを知っているようでもあり、知っていて口にしたくないようでもあった。私は、余計なことを訊いたのかもしれないと、その顔を見た。
「僕が好きなものを、君にも食べてもらいたかったんだ。最初にそう言って渡したから、断りにくかったのかもしれない」
「最初の日は、たぶん、緊張していたんだと思います」
「僕も、かなりしていた」
彼はカップの取っ手から指を外し、小卓の端を撫でた。何度も磨かれて丸くなった角だった。
「仕事の用がなくても寄っていいかと訊くのに、地図帖の話を随分した。君が、その場で見積書を書き始めてしまって」
「お仕事のご相談だと思ったんでしょうね」
「僕も、そう思われる話し方をしていたんだろうね」
私は笑ってしまった。戻った記憶の中に、真剣な顔で紙代を計算している自分がいたら、どんな気持ちになるだろう。今の話をもっと聞きたくなって、けれど、それだけでは足りないようにも思った。
「ルシアン様は、ご自分のお部屋でも本を読まれるんですか。お仕事で一日中読んでいらっしゃるのに」
「仕事では、著者と刊行年を探して閉じることも多いから。続きが気になって、借りて帰る」
「それで、お部屋にも本が増えるんですね」
「椅子が一脚、使えなくなっている」
私は窓際に立てかけた厚紙を見た。工房でも、母の椅子の上には仕上げ前の表紙を積んでしまうことがある。母が戻る前に片づけておかなくてはと思っていたところだった。
「座るところは、先に空けた方がいいですよ。本の上に座ると、直すお仕事が増えます」
「君に怒られそうだ」
「大切なお客様でも、それは怒ります」
言ってしまってから、お茶を飲んだ。ルシアン様が笑う声を、カップを持ったまま聞いていた。さっきまで注文帳で確かめていた名前を、もう一度見なくても、その声と一緒に思い浮かべられた。
お茶のあと、彼は作業台に置いた地図帖を見せてほしいと言った。古い紙を補った箇所を伝えると、窓からの光を遮らない側へ回り、指を触れずに覗き込む。目を寄せる時だけ少し首を傾げる癖があった。
「このページ、開くたびに端が落ちそうだったんだ。よかった」
「保存箱も作ります。厚みが不揃いなので、既製の箱だと中で動いてしまって」
「明日は、その仕事を?」
「午前中に、型を作るつもりです。午後は、あのお店へ行きますから」
ルシアン様は仕事台と窓際の椅子を見比べた。帰る時刻を延ばす理由を探しているのでは、と気づいて、私は自分の考えに驚いた。分からないふりをするには、彼の視線の行き先が、あまりに分かりやすかった。
「明日、少し早く来ていただいてもいいですか。箱を作るところ、ご覧になります?」
「邪魔にならなければ、ぜひ。明日は休みを取ってある」
「では、十一時ごろに。上着に糊がつくかもしれません」
「汚れてもいい服で行くよ」
私は戸口まで見送った。ルシアン様は忘れずに旅の鞄を持ち、途中で一度だけ、菓子の箱をどうするかと振り返った。橙のお菓子は持って帰っていただいた。杏のパイの袋は、空になって私の手元に残った。
その夜、工房の帳面を閉じたあとで、私は明日の予定を書き足した。箱の採寸の横に、十一時、ルシアン様。午後二時、記憶店。書き終えてから、十一時の文字を少しだけ濃くなぞった。
土曜の朝、母は病室で自分の眼鏡を探していた。私が持ってきた着替えの上にあったので渡すと、ようやく食事の品書きが読めると笑った。昨日より声がよく出ている。回診に来た治癒師からも、追加の施術は必要なく、このまま休めば数日で家へ帰れるだろうと聞けた。
支払いの済んだ受領書を鞄の底へしまった。母には、記憶のことを今日初めて話した。金貨が足りなかったことから、昨日ルシアン様が来てくださったことまで。母は途中から私の手を握り、話し終わってもしばらく放さなかった。
「そう。今日、戻るのね」
「二時に。迎えに来てくださるの」
「ルシアン様に、お礼を言わないと」
「私からもお伝えするわ。お母さんからは、退院してから」
母が頷いたので、私は椅子から立った。空の籠を持つ前に、握られていた手を、今度は私から握り直した。熱のない手だった。
「お店の椅子、片づけておくからね」
「私の?」
「表紙を積んでしまったの」
「あれは私が積んだのよ。一番下にある赤いのは、金の飾りをつけるから、まだしまわないで」
私は笑って、その一枚だけ作業台へ移しておくと約束した。母はもう、退院したら何から手をつけるか考えているらしい。私も、午後の予定を終えたら夕食の時間にまた来る、と言って病室を出た。
工房へ戻ってほどなく、戸の鈴が鳴った。ルシアン様は、薄い灰色のシャツを着ていた。昨日の旅の鞄はなく、脇に抱えているのは昼食用のパンの包みだった。
「今朝は、ちゃんと食べたよ。これは昼の分」
「では、お昼を忘れるほど働いていただいても大丈夫ですね」
言うと、彼は早速袖を折り上げた。伯爵家の方に冗談が過ぎたかと少し気になったけれど、彼は窓際の明るい場所を私に譲り、どこに立てばいいか尋ねた。
私は地図帖を別の台に置き、採寸した数字を見せた。厚紙を使う前に、端紙で箱の形を作る。細い鉛筆の線に沿って切り込みを入れると、平らだった紙に底と側面ができていった。
「そこは、こちらへ折ります」
「ああ、そうか。蓋になる方を勘違いした」
ルシアン様は、自分の分の見本を広げ直した。彼が持っている方は、蓋だけが妙な方向へ伸びている。私はその紙を受け取らず、自分の手元で同じ順番をもう一度見せた。
「最初に、この細いところ。次に底を包んで、最後に蓋です」
「ここで一度、向きを変えるんだね」
今度はうまく収まった。ルシアン様はできた箱を開けたり閉じたりしてから、私のものと並べた。少し歪んでいたけれど、蓋はちゃんと閉じる。
「これは、最初から君に教わるべきだった」
「本の扱いはお上手ですけど、箱作りは初めてですか」
「整理すると、箱は棚に収まっているから。どれほど手間がかかるか、考えていなかった」
彼は見本の隅に、折る順番を小さく書き込んだ。癖の少ない、読みやすい字だった。番号を二つ書いたところで顔を上げ、また実際に折って確かめている。その熱心さに、私は次に渡す厚紙の端を揃えながら、しばらく見入ってしまった。
「間違えた?」
「いえ。次は、こちらを押さえていただけますか」
厚紙を裁つ時、彼は言われた位置から手を動かさなかった。切り終えた私が息をつくと、彼も同じように手を離す。重しを置いておけば一人でもできる作業なのに、切り取った紙が落ちる前に受け止めてもらえるのは、思った以上に具合がよかった。
背丈も手の大きさも違うから、何も言わずにぴったり合うわけではない。ここを持ってほしい、もう少しこちら、と頼むたび、彼は自分の位置を変えた。私も、彼に渡す前に厚紙を半回転させるようになった。
「クララは、こういう時には遠慮をしないんだね」
「紙を曲げてしまうと、あとで直すのが大変なんです」
「では、最初から細かく頼んでもらえた方が助かるな。こんな大きい紙を、いつも一人で?」
「普段は母と。私の方が、よく怒られますよ」
彼が少し驚いた顔をした。私は棚から、背の飾りが斜めになった見本の帳面を出した。商品にはできないので、紙の寸法を書き留めるのに使っているものだ。
「これを作った時は、線を一本引くのを面倒がったんです。今でも、急いでいると母がこれを出してきます」
「うちの上司は、僕が刊行年を一桁写し間違えた本の控えを持っている。三百年早く出版されたことになっていて、著者が生まれる前だと」
「それは、ずいぶん気の早い著者ですね」
「僕もそう言って、余計に叱られた」
私は厚紙を置いて笑った。ルシアン様も笑いながら、裁ち屑を集めた。床へ落ちていた細い一枚を拾おうとして、机の下で額をこつんと鳴らす。私はもう一度笑いかけて、慌てて手を伸ばした。
「大丈夫ですか」
「頭を上げるのが早かった。……今のは、忘れてもらえるとありがたい」
言い終わった彼と、目が合った。彼がしまったという顔をするより先に、私は首を振った。
「それは、取っておきます」
ルシアン様は額を押さえたまま、声を立てて笑った。私も机の下を確かめて、もう拾うものはないと伝えた。彼がちゃんと身を起こしてから、二人で道具を片づけた。
昼食には、買ってきていただいたパンと、私が温めた野菜のスープを並べた。母は追加の施術を受けなくて済むと話すと、ルシアン様は手にしていた匙を止め、よかったと答えた。母がお礼を言いたがっていることも伝えた。
「お元気になったら、会いに行ってもいいかな」
「母も喜びます。でも、その時は、お菓子を全部同じものにしないでくださいね」
「杏と橙を半分ずつにする」
「母も杏の方が好きです」
「それなら、僕の分だけ橙だね」
ルシアン様はそう言って、パンを割った。私は明日からも、工房の戸が鳴るたび、この人が来たのかと確かめるようになるかもしれないと思った。今すぐ次のお茶の日を決めてしまいたくて、けれど、午後二時までは待とうと、スープを口へ運んだ。
出かける前、作りかけの保存箱に重しを載せた。糊が乾くまでは、蓋を動かさない。ルシアン様が作った端紙の見本は、折り順の書き込みを上にして、道具箱の横へ置いた。
「それは捨ててしまっていいよ」
「使います。この形の箱を、また作るかもしれませんから」
私は彼の字が見える向きに、もう一度紙を揃えた。振り返ると、ルシアン様が戸口で待っている。持ってきたパンの包みも、見本の箱も、昨日までは工房になかったものだった。
記憶店には、二時になる少し前に着いた。マルタさんは奥の部屋を開け、背もたれの高い椅子へ私を案内した。小卓には水差しと布巾、それから、私の結晶の入った瓶が置かれていた。
隣へ座ったルシアン様が、具合は悪くないかと訊いた。私は首を振った。けれど、スカートの上で重ねた手が、どうにも落ち着かなかった。
「思い出したら、私が気に入ったと言った時のことも、戻るんですよね」
「お菓子のこと?」
「はい。ほかにも、ずいぶん、何でもいいと言っていた気がして」
それは思い出したことではなかった。昨日、苦いと言う前に飲み込みかけた言葉から、何となく想像がついてしまったのだ。相手の困った顔を見たくなくて、いいえと言う代わりにお茶を飲む。きっと何度か、そうしていた。
「今日みたいには、お話しできなくなるかもしれません」
ルシアン様は私の手元を見て、それから自分の袖を直した。折り上げていたところが少し不揃いだった。作業台で袖を留めた時のままで、糊の白い跡が一つついている。
「僕は、明日からも杏のパイを買って行くよ」
その袖を見ていたせいで、返事が遅れた。顔を上げると、彼はいつものように、私が何か言うのを待っていた。
「ときどきは、ほかのものも食べたいです」
「それなら、次は一緒に選ぼう」
私は頷いた。さっき工房で頼んだ時と同じように、今度はこちら、と言ってもよかったのだ。この人の袖に自分の工房の糊がついているのを見たら、急に、お茶の席まで遠い場所に感じなくなった。
表の時計が二時を打った。マルタさんが入ってきて、私に小瓶を渡した。
「封を確かめて、自分で開けておくれ」
拇印のついた封蝋は、昨日見たままだった。私はそれを割り、栓を抜いた。結晶を小さな平皿へ滑らせると、光が皿の縁までにじんだ。
マルタさんに言われたとおり、掌を上からかぶせた。触れたはずの硬いものが、すぐに分からなくなった。紙を漉く時のぬるい水に似た感触が、指の間を通った。
初めに思い出したのは、本の中の竜だった。
三年前、ルシアン様が工房へ持ってきた冒険の本。子供の頃に何度も読んだらしく、表紙が外れかけていた。図書館の依頼品を届けたあと、彼は鞄の底から、その一冊を少し恥ずかしそうに出したのだ。
余白には、活字にかぶさるほど大きな竜が描いてあった。挿絵の王子が、小さな剣を振り上げている。その剣を、子供のルシアン様が自分で描き足して、竜より大きくしていた。
「これなら勝てると思ったんだ」
私が余白の絵に気づくと、彼はそう言った。悪戯描きごと残してほしい、と頼まれた。紙を継ぎ足した箇所で線が途切れないように、本を開く角度を何度も変えたことを覚えている。
仕上がった本を渡した時、彼は大きな剣のページを最初に開いた。そこを残してくれたのかと、声まで明るくなった。私が一番気を遣ったところを、真っ先に見てくれた。
それから、本が増えた。図書館の依頼書に添えて、ここが破れかけていると、彼の細かい書き込みがつくようになった。私が紙の代わりになるものを探して困っていると、次の来訪で、蔵書の間に挟まっていた古い見返しの見本を持ってきてくれた。
冬に届いた本は、外側の包みだけが雪で濡れていた。彼は中の紙まで湿っていないか心配して、入口で包みをひとつずつ外していた。私が乾いた布を持っていくと、床まで濡らしてすまないと言った。その本の納品日より、濡れた前髪を邪魔そうに払った顔を、よく覚えていた。
金曜になると、髪を結び直すようになった。白い襟が曲がっていないか、鏡の前で確かめていた。彼が来ればすぐ分かるように、戸の鈴を磨いたこともあった。
四か月前、仕事の用がなくても寄っていいかと訊かれた時には、嬉しくて、すぐにお茶を淹れた。差し出された橙のお菓子を、彼は自分の好物なのだと言った。香りを嗅いで、おいしそうだと答えたところまでは、何も困っていなかったのに。
「どうかな」
期待した顔で尋ねられて、私は頷いてしまった。そのあとも、彼が好きなものを一緒に食べられるならと思っていた。金曜の朝になると楽しみで、夕方には、次まで一週間もあるのだとカップをゆっくり洗った。
膝の上へ、雫が落ちた。私は空いた方の手で目元を押さえた。すぐに手巾を渡され、受け取ろうとすると、私の手が彼の指に触れた。
「クララ」
目を開けると、ルシアン様が隣にいた。マルタさんが手を支えて平皿から離してくれた。皿の中には、もう何も残っていなかった。
水を少しずつ飲んだ。マルタさんに名前と今日の出来事を訊かれ、自分の名と、朝に母へ会いに行ったことを答えた。気分が落ち着くまで座っているよう言われて、私は背もたれに体を預けた。
「あの竜の本、まだお持ちですか」
マルタさんが小卓の道具を片づけている間に、私はルシアン様へ尋ねた。彼は私を見たまま、息を吸った。
「持っている。寝室の棚に」
「剣を、あんなに大きくしても、王子は持てないんじゃないかと思ったんです。でも、大事そうに見ていらしたから、言えなくて」
ルシアン様は何度か頷き、それから手で顔を覆った。指の隙間から、小さく笑う声がした。
「あの剣にも、無理をさせていたのか」
「王子に、です」
私は手巾を目元へ当てたまま笑った。明け方にパンを食べたきり工房へ来たことも、杏のジャムの熱さに驚いたことも、いまは思い出の続きに並んでいた。明日の朝も彼の名を書いた予定を見たいと思ったのを、忘れてはいなかった。
ルシアン様が顔から手を離した。目の下が少し赤かった。彼の前で泣くのも、彼のこんな顔を見るのも、私には初めてだった。
「苦かったです」
私が言うと、彼はゆっくり頷いた。
「毎回、ちょっと。ごめんなさい。ルシアン様が買ってきてくださるのが嬉しくて、言い出せませんでした」
「気づかなかった。僕も、君が喜んでくれたことばかり覚えていた」
彼は私の手に残った手巾を見て、水をもう少し飲むかと訊いた。私は頷いて、注いでもらった分を飲んだ。カップを戻してから、膝の上で手巾の端を揃えた。
「ルシアン様が来てくださるのを、ずっと待っていました」
彼は何も挟まずに聞いていた。私は、息を整えるために一度口を閉じ、それから、手巾の端を握る手を緩めた。
「好きなんです。三年前から」
ルシアン様が私の名を呼んだ。声が少しかすれていた。私は今度は、途中で目を逸らさずにいられた。
「昨日、お菓子を選んだ時も。今日、箱を作っていた時も、また来てほしいと思っていました。思い出したら言えなくなるのが嫌で、それが少し怖かったんです」
「僕も、君が好きです」
彼の返事は、思っていたより早かった。私は手巾を取り落としそうになって、膝で受け止めた。
「昨日、記憶を売ったと聞いて、僕が来るまでの間に、誰か別の人を好きになっていたらどうしようかと、考えてしまった」
「一日しか、経っていなかったのに?」
「その一日を、僕は知らなかったから」
彼が苦笑した。思い出を買い戻すと言った時の、まっすぐな顔を思い出した。あの時にも、彼はそんな心配をしていたのだ。それでも、先に私へ、取り戻したいかと訊いてくれた。
私は膝から片手を上げ、椅子の間へ差し出した。ルシアン様がその手を見て、私の顔を確かめたので、私は頷いた。
彼の手が、下から私の手を包んだ。厚紙を押さえてもらった時は、私が頼んだ位置に置いてもらうだけだった。今は、私も指を動かして、彼の指の間へ自分の指を入れた。
「あの、ひとつ、お願いがあります」
「何だろう」
「今度は私から会いに行ってもいいですか」
ルシアン様は返事をする前に、背筋を伸ばした。握った手に少し力が入ったので、私は彼の顔を見上げた。彼は頷き、それから、やっと言葉にした。
「来てほしい。ぜひ。……椅子は、必ず空けておく」
私は思わず笑った。もうその部屋の椅子に積まれた本を、少し知っている気がした。伯爵家の応接間を思い浮かべて緊張するより先に、どの本から読んでいるのか、訊きたくなった。
「水曜の午後でしたら、工房を休めます。二時ごろは、いかがですか」
「水曜なら、僕も午後は仕事がない。お茶を淹れて待っている」
「杏のパイを買っていきます。あと、橙のお菓子も一つ」
「君は無理して食べなくても」
「ルシアン様の分です。私のは、杏にします」
彼は笑って、ありがとうと言った。私は手を繋いだまま、顔を伏せた。最初に好きだと伝えた時より、今の方が照れくさかった。
十分に休んでから、マルタさんに礼を言って店を出た。戻った記憶に気になるところはないかと最後に確かめられ、私は、全部思い出せましたと答えた。買い戻しの控えには、復元済みの印が加わっていた。
橋の手前で、ルシアン様が胸ポケットから小さな手帳を出した。自分の家の住所を書き、迷いやすいからと地図も添えてくださった。図書館から二筋先の借家だという。私は道順を指でたどり、建物の前に描かれた四角を指した。
「これは?」
「鉢植え。大家さんが、玄関の前に三つ並べている」
「一つしか描いてありませんけど」
彼は真面目に二つ描き足した。それから手帳の一枚を切り離そうとしたので、私はその前に鉛筆を借りた。住所の下の空いたところへ、水曜、午後二時、と書く。手が少し震えて、二時の二が、いつもの字より大きくなった。
「その日は、帰りの時間も空けておいてもらえるかな。工房まで送って行きたい」
「はい。お母さんの夕食までに戻れれば」
彼が手帳から紙を外して渡してくれた。私はそれを丁寧に折り、鞄の内側の小さなポケットへしまった。復元の控えとは、別のところに入れた。
鉛筆を返すと、ルシアン様の手が少し開いたまま残っていた。私はその手を取り直し、二人で橋を渡った。
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