目黒? くすっ
余が大身をいいことに身勝手に振る舞い、その上、世間知らずであることは、余も重々承知しておる。家来どもは、かような余が他出して面倒を起こすことを恐れて、じっと屋敷に籠っておることを願っておることであろう。
なれど、この太平の世で殿さま商売は退屈で我慢ならぬ。つい先日も、金弥に申しつけて、目黒まで遠乗りしようと馬に跨ったら、すぐに尻が痛くなってしまった。すぐに降りれば恥をかくし、家来どもに余計な気を使わせることにもなろう。合戦にかこつけて馬を降り、徒歩で駆け比べをいたすことにした。駆け比べを始めると、すぐに何人もの家来が追い抜いて行った。駆け比べとは申したが、思わず腹が立って、無礼者! と叫んでしまった。あるじより前を駆けるやつがあるか!
家来どもは呆れたことであろう。余もほとほと呆れ果てておる。なにゆえ余はかほどに身勝手で短慮なのであろう。許せ、他意はない。
しかし、あの折、百姓家で馳走になったさかなは美味であった。余は、さかなといえば、鯛しか食したことがない。あのさかなは鯛ではなかった。鯉でもなかった。庭の池には金魚もおるが、むろん、金魚でもなかった。
そうそう、金弥は「さんま」と呼んでおった。ばかに細長く、皮が焼け焦げていて、ところどころ破れておった。ジュウジュウ、プスプスと音まで立てておった。かかる珍妙な姿で目黒川の水の中を泳いでいるのであろうか?
あのさんまには大根おろしが添えられて、しょうゆが垂らされておった。さんまにはこの大根おろしがよく合った。さんまの魚肉を大根おろしと共に口に入れると、駆け比べの疲れもさっぱりと忘れるほどにさわやかに、しかも、香ばしい味わいが口の奥まで広がった。いや、喉や鼻の奥まで行き渡るようであった。これほどの珍味を余は知らなかった。民百姓はかかる味わい深いさかなを常日頃から食しているのであろうか。
今日に至るまで、余はさんまの味が忘れられぬ。それなのに、金弥は、それを口に出してはならぬ、という。余がさんまを食したことが重臣どもに知れると金弥が困るという。
重臣に知れて金弥が困るのであれば、余も二度と口に出すまい。さりながら、あのさんまは美味であった。かほど味わい深いさかながこの世におったのか。
重臣どもに覚られることなく食することはできぬか。思案のあげく、他家で食することに思い到った。他家を訪ねた折にさんまを食すれば、重臣どもには気付かれぬであろう。
余は、金弥に内密で、親類を訪ねることとした。いきなりのことであったが、なに、構わぬ。それより、さんまである。なによりさんまが恋しいのである。
親類では、まかない方が夕餉の献立を訊ねて参った。余は、迷うこともなく、さんまを所望、と伝えた。まかない方は得心したが、しばらくしていま一度確かめに参った。やれやれ、わからずやのことよ。余は詳らかに話して進ぜた。長やかなさかなで、黒く焦げ、ところどころ皮が破れたる様子で目黒川を泳いでおる。食すると秋風のように涼やかな、‥‥あのさんまじゃ。分かったか!
まかない方は首をひねりながら帰って行きおった。しばらくすると、椀に入った吸い物が出てきた。汁の中に白く小さい塊の魚肉が浮いておる。さんまだと言う。これがさんま? 世間知らずと思って侮っているのではあるまいか? それともまことに知らぬのか。余は箸を付けたが、香ばしい匂いもなく、焦げてもおらず、脂も抜けておる。味わいもなく、とても食せるようなものではない。このようなものを食している親類があわれで、余は、さんまは目黒に限る、と教えて進ぜた。まかない方は恐れ入って、ハハッ、と頭を下げた。深々と下げたその頭の下から、クスッと嗤う声が漏れて聞こえた。
刹那、余は顔が熱く赤らむのを覚え、思わず、無礼者! と叫んでおった。
まかない方は青ざめ、平身低頭しておる。こやつは余を侮って慰みものにしようとしたに相違あるまい。余は、恥辱と怒りとにわなわなと震えながら、こやつをなんとしよう、と思案した。そう思案したとき、その思案の隅に余を気遣う金弥の顔が浮かんだ。恥辱や怒りのあまり、家臣の忠義を裏切って騒ぎを起こしたのは松の廊下の内匠頭である。それはできぬ。いかなることがあろうと断じてそれはできぬ。
おのれ、なんとしよう? この無礼者をなんとしてやろう? ‥‥余には思案がつかぬ。さんまの味わいを欲して他出したことが強く悔まれた。 了




