左耳だけの秘密
ある日突然、俺のワイヤレスイヤフォンが壊れた。
いや、壊れたというには壊れた、というより様子がおかしい。正確には、音楽が流れず、代わりに妙なノイズ混じりの声が聞こえるようになった。
誰に言っても信じてもらえないので、もう他人に相談することは諦めている。
ネットで調べても原因不明。
売ってしまおうかとも思ったが、万年金欠の俺には新しいワイヤレスイヤフォンを買う金がない。
だから、仕方なく、このノイズ混じりの声にいつも付き合っている。お喋りな幽霊とでも思えば、特になんでもない。
ほら、今日も聞こえた。
「今日は月が綺麗ですね」
見上げると、確かに綺麗な満月だった。
俺は長らく疑問に感じていたことを口にした。
「お前は一体誰なんだ?」
いつもはたわいもないお喋りを垂れ流すのに、何故かそのときだけ、一瞬の間があった。
「もうすぐで中月の日ですよ。団子食べましょうね」
…やっぱりこいつ、俺の声聞こえてやがる。
左耳のノイズ混じりの声は相変わらず俺に、ラジオみたいな感覚で話を続けていた。
俺はその日常にすっかり慣れてしまって、ついにはそいつの存在に疑問を覚えることさえしなくなっていた。
ある日、ノイズ混じりの声は初めて機械的な言葉でこう言った。
「わたしはいずれ、いなくなる存在です」
俺は戸惑い、その言葉が妙に現実味を帯びて胸をざわつかせた。だからといって何か言うわけでもなく、食べていたカレーのスプーンを皿に戻した。
そんな俺に追い討ちをかけるようにノイズ混じりの声は言った。
「あともう少しです」
その言葉が、何かの終わりを告げているように思えた。
その日を境に、ノイズ混じりの声が途切れ途切れに聞こえるようになった。
ネットで調べても、怪しげな占い屋にいっても、何も解決はしなかった。
ただ、途切れ途切れの声はどことなく、嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
初めてノイズ混じりの声が笑った。
ふふっと笑う声が左耳のイヤホンから聞こえる。
俺はそれに、苛つきもしたし、悲しくもなった。
多分、これでももう、あの不思議なノイズ混じりの声は聞こえなくなるんだろう。
壊れた機械のように、ノイズ混じりの声が喋った。
「私たち、また会えたら、会えたら、会えたら、会えたら、いいね」
その言葉に俺は深くため息をついた。 鼻を掻いて、ぼそりと応えた。
「まぁ、そうかもな」
ノイズ混じりの声は嬉しそうにまた、ふふっと笑った。
そして、ジージーと音がした後、ノイズ混じりの声が言った。
「バイバイ」
それきり、俺のワイヤレスイヤフォンは正常に戻った。
あのノイズ混じりの声は、いったい誰だったのか。それは今でも分からない。でも確かに存在していたんだ。今も俺の中で、息づいている。
ふと、あいつの笑い声が聞こえた気がした。
ふふ。
どこかで、笑っていれば、それでいい。
朝日が差し込んで、ワイヤレスイヤフォンは陽気なヒップホップを奏でる。
それを聞きながら、俺は朝の支度を始めた。