第5話 呼ばれし森〈後編
朽ちた社殿の隅、土の上からわずかに角を覗かせていた
“それ”を見つけたのは、陽が傾き始めた頃だった。
引き寄せられるように手を伸ばす。
触れた瞬間、冷たさが指先から這い上がる。
──黒い手帳。
革のような質感。乾いた表面。
まるで誰かが長年使っていたかのような風格があった。
けれど、埃を払うと、まるで新品のような艶を見せた。
その瞬間、空気が、歪んだ。
──ぴしり。
音ではない、感覚の亀裂。
世界のどこかが割れたような、そんな感覚だった。
見上げた空は静かなはずだった。なのに──揺れていた。
風が吹いていないのに、木の梢がわずかに震えている。
音のない“ざわめき”が森全体に満ちていく。
(これ……わたしのノートじゃない)
思った瞬間、ザックの中を再び確認した。
やはり、自分が持ってきていたはずの手帳はどこにもなかった。
代わりに、今ここにあるこれは──“それ”に似ている。
だが違う。もっと古く、もっと禍々しい存在感がある。
(持ち帰っては……いけない?)
脳裏に微かな警鐘が鳴る。
それでも、手は動いていた。
何かに操られるように、梓はその黒い手帳を
抱きしめるようにして鞄へ入れた。
瞬間。
──ずしん、と地鳴りのような音が、どこからともなく聞こえた気がした。
森が……呻いている?
梓は本能的に「逃げなければ」と感じた。
振り返らず、石段を駆け下りる。
視界の端に、社殿の前──誰もいなかったはずの場所に
黒い影が“佇んでいた”気がしたが、それを見る勇気はなかった。
走る。息を切らし、森を抜ける。
山のふもとの自転車まで戻る頃には、手足の感覚が薄れていた。
そして──自宅。
ベッドに倒れ込んだ梓は、鞄からあの手帳を取り出す。
恐る恐る表紙を撫でる。
なぜか、持ってきたはずの自分の手帳の記憶が遠く感じる。
まるで、最初から“これ”を持ってきたかのように。
(違う……わたしのは……もっと、安っぽい手帳だった)
だが、思い出せない。
手帳の金具に、指がかかる。
──開けてはいけない。
心のどこかでそう叫ぶ自分を無視するように
指はゆっくりと動く。
けれどその刹那、部屋の空気が重く沈んだ。
(まだ、早い)
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
梓は手を止め、静かにそれを机の上に置いた。
空が遠く、軋む音を立てている──気がした。
(→次話へつづく)