第19話 逸失の記録4【後編】
薄曇りの空に重く垂れ込める灰色の雲。
千葉大学附属法医学教育研究センター。
その地下に位置する解剖室には
朝から重苦しい空気が漂っていた。
「じゃあ始めるわよ、三谷さん」
青白い蛍光灯の下で
女医・白石美琴は
助手の三谷と共に
司法解剖の準備を整えていた。
白石はまだ三十代前半という若さながら
数々の難事件に関わってきた
経験豊富な法医学医だ。
彼女の表情には
冷徹なプロフェッショナルとしての
静かな緊張感が漂っていた。
鋼の無機質な解剖台には、
昨晩遺体として運び込まれた
一体の男性が静かに横たわっている。
彼の身元は、千葉県船橋市の白幡神社
通称“達磨神社”で失踪後
翌朝発見されたという青年
──永井 佑真だった。
だがその遺体は、ただの変死体ではなかった。
顔が、まるごと削がれていたのだ。
皮膚という皮膚が根こそぎ失われ、
露出した顔面の筋肉と骨が赤黒く露出している。
引き裂くというよりは、精密な器具で
慎重に削ぎ取られたような
異様なほど整った断面。
誰が、何のために──。
「……やっぱり、ひどいわね」
白石が低く呟くと、三谷が無言で頷いた。
「顔だけじゃない。見て、首のこの傷。
まるで爪か何かで引っかいたような…。
しかもこの腹部の痣
どう考えても自然にできるものじゃない」
腹部には黒い痣が幾重にも重なっていた。
それは単なる内出血というより、まるで
何か異質なものが内側から肌を焼いたような
──そんな違和感すらあった。
「死後に刻まれたのか
それとも……生きたまま?」
三谷が声を潜めた。
白石は一瞬黙り込み、顔をしかめる。
「生前の可能性が高いわ。
筋繊維の収縮反応が見られる。
少なくとも……彼は痛みを感じていたはず」
言葉を飲み込むようにして、白石は手元のメスを置いた。
「気味が悪い……これは、ただの事件じゃないわ」
重い沈黙が解剖室を包み込む。
その沈黙は、遺体に触れていた彼女たちの手が
止まったことよりも、むしろこの遺体の背後にある
“何か”が、言葉にするのを拒むような
異質さを孕んでいたからだ。
数時間前、彼が
“行方不明”になった現場
白幡神社では
深夜に三人の若い男性が肝試しをしていたという。
「おい、マジでここ来んのかよ。
噂じゃ首ない女が出るとか言ってたぞ」
そう言いながら笑っていたのは
グループの中で一番陽気な性格の
佐川 俊平だった。
「ビビってんの? 佑真、京介
俺がちゃんと動画撮ってやっからさ」
スマホを掲げる佐川。
彼と共にいたのが、失踪した永井 佑真、
そしてもう一人の友人、林 京介。
三人は同じ高校の同級生で
大学進学後も付き合いが続いていた。
鳥居をくぐり、薄暗い参道を進む。
小さな社務所を通り過ぎ、その奥にある御社の前で
空気が急に冷たくなるのを全員が感じていた。
「なあ……なんか変じゃね?」
京介が首をかしげた瞬間だった。
「……おわ、佑真……?」
佑真の様子が明らかにおかしい。
顔面蒼白で虚ろな目
口元をひくひくと震わせながら
何かを呟いていた。
「──黒、かみ……な……ま……ないで……」
「な、何言ってんだよ、冗談やめろって!」
俊平が肩を掴もうとするも
佑真はふらりと身を引き
闇の中へと一人で歩き出してしまった。
「おい! 佑真、待てって! そっちは山の方だぞ!」
叫ぶ京介。
俊平と二人で懐中電灯を
振りかざしながら駆け出したが
彼の姿はすでに闇に溶けていた。
焦った二人はすぐに110番通報を行い
警官が現場へと駆けつけるも
捜索は空振りに終わる。
だが──
夜が明けきる直前
参道脇の草地の中で
近隣住民によって発見されたのは
顔を失った佑真の遺体だった。
悲鳴が上がる。
そして現場に駆けつけた警官の一人が
吐き気を堪えるように顔を背けながら呟いた。
「まるで……何かを捧げたみたいだな……」
司法解剖を終えた白石は
遺体の記録をまとめ終えると
しばらく目を閉じたまま立ち尽くしていた。
「まさか、また──なの?」
彼女の頭には、今、世間を騒がせている
未解決事件の記憶がよぎっていた。
それも“顔を削がれた遺体”という
まったく同様の異常な手口。
連日のテレビニュースやネットでの
情報くらいしか事件の事を知らない。
事件に関する記者会見もリアルタイムで
視聴したが、知識量は一般人のそれと変わらない。
事件の被害者は全て今回の遺体と同じく
”顔を剥がれている”。
首の引っ搔き傷、
皮膚の表面に浮かんでいる痣も同じ。
警察も全力で捜査しているが
肝心の容疑者も証拠も見つからず
まるで空気に溶けたように
全てが霧散している。
今回も、そうなのか?
いや、そうはさせない──
医師としての意地ゆえか
白石は震える指で
自らを戒めるように拳を握りしめた。
しかし、何もかもが曖昧で
何かが見えない闇に潜んでいる感覚は
拭い去ることができなかった。
彼女の中に、言い知れぬ恐怖と
不安がじわじわと広がっていく。
「これは、人の仕業じゃない……」
その小さな呟きは、
静まり返った解剖室の壁に
むなしく反響するばかりだった……。
(→ 次話に続く)