北辰一刀流・伊東道場
文久元年(1861年)年の暮れ
北風吹きすさぶ江戸は深川佐賀町のあぜ道。
そこをひた走る若者が二人。
北辰一刀流、玄武館門下生、加納道之助と、藤堂平助である。二人は武者修行のため、近隣の道場に対外試合を仕掛けていた。
――遡ること九年前、明治維新より遠い時分。
と篠原は語る。加納と藤堂は、ある場所に向かっていたんだそうだ。
「おい加納!本当にこっちか」
と、ひょろりとした色の白い藤堂が息を切らしながら言う。
「間違いねえ、中川町に入って道なりに、次の角を曲がれ」
と加納が答える。太い眉毛、眼光は鋭く、色黒の肌に、季節外れの汗がしたたった。
――二人は、江戸の名のある剣術道場を訪ねては、この当時、対外試合を申し込んでいたんだ。
「着いた!ここが伊東道場だ!」
二人がたどり着いた先には、古めかしい屋敷がぽつんと一軒建っていた。
大きな門扉の横には、「北辰一刀流剣術道場 伊東道場」と看板が掲げられている。
北辰一刀流伊東道場。そこでは道場主の伊東大蔵、その弟である三木荒次郎らが切り盛りして、北辰一刀流を学びに、多くの門下生たちが稽古に通っていた。
――先生は、元々、伊東道場の門下生だったんだが、先代に気に入られ、先代の娘であるウメさんと結婚し、婿養子となり、道場を継いだんだ。
――先生、というのは、伊東甲子太郎のこと、でよろしいんですよね?
――ああ。このころはまだ、伊東大蔵と名乗られていた。
「誰だお前らは!!!!!!」
伊東大蔵の実弟、三木荒次郎は、門扉の前に現れた二人の訪問者に対し、声を荒げた。
というのも、加納と藤堂は、到着するやいなや、ふんどし一丁になって仁王立ちしていたのだ。
上背のある、巨躯の三木が、ノシノシと詰め寄る。
「ここって北辰一刀流の伊東道場ですよね?」
「あ、もしかしてうちの道場の入門希望者?」
伊東道場古参の門下生である中西昇が、さわやかな笑顔で、三木の横から声をかけた。
「聞いたか加納!?俺たちが入門だってよ!」
「聞こえたぜ平助!舐められたもんだな、俺たちゃあ対外試合に来たってえのに!」
「対外試合だって?」
白い剣道着を着た風格のある男が、興味ありげに、道場の一番奥から、よく響く声で言った。
やつが伊東か。
「おうよ!って、あ、挨拶が遅れたな。俺は玄武館の門下生、加納道之助!」
「同じく藤堂平助!」
加納、藤堂の挨拶に、住み込みの門弟、内海次郎がふき出した。
「ばっか、笑わせんなおめぇら、玄武館って、同じ北辰一刀流じゃないかよハハハ」
つづいて伊東の実弟である三木は、貫禄のある声で言う。
「なぜ試合を挑む?他流派ならまだしも、同じ北辰一刀流と勝負がしたければ、玄武の道場にいくらでもおるだろう」
「俺たちは、強いやつと戦いたいんだよ。流派とか関係ねえ、強いやつと戦ってもっともっと強くなりたい!それだけだ!」
「馬鹿か」
「単細胞だね」
「暑苦しい」
三木・中西・内海と、伊東の高弟たちは矢継ぎ早に揶揄した。
「しゃらくせえ!とにかく、道場主の伊東大蔵先生を呼んでくれ!」
「ふざけるな馬鹿者!」
わーわー騒ぐ加納と、それに対する三木らのところへ、白の胴着の男が奥から近づいてくる。
「伊東大蔵は私ですが」
「兄上!」
一番奥にいた白い胴着の男がやはり伊東大蔵、その人であった。
諫言する弟の言葉を無視して、伊東は加納に声をかける。
「加納君と言ったかな?試合なら、私が喜んで受けよう」
――この時のことを加納に聞いたが、先生の第一印象は空みたいな人、だったらしい。
――空、ですか?
――どこまでも広く、何でも受け入れてくれそうな空。だが、いつ天候が崩れるかもわからない。本心が全く読めない、不思議な存在感だったそうだ。
――なるほど。
「お待ちください兄上!わざわざお相手する必要もありますまい。おい」
三木の言葉に応じて、門弟の一人が、はい!と返事をして、一礼したところ、加納は、いきなり不意打ちの突撃をして、相手の木刀を弾き、門弟の首元に自分の木刀の剣先を当てていた。
「!!!」
一同は騒然とした。
「無礼だろう!」と三木が憤るも、藤堂はケラケラ笑って言った。
「端から無礼は承知」
加納に先制攻撃を許した門弟が、落とされた木刀を拾って打ち込むが、十合も打ち合う前に、加納に正面から負けてしまった。
門下生は参りましたと頭を下げた。
「あんたたち皆この程度なら、伊東道場も大したことないのかもな」
言わせておけば!と木刀を掴む内海次郎に対し、三木は「下がれ」と命令した。
「多聞」
伊東の言葉に藤堂が首をかしげた。
「あの男、多聞って言うの?」
「ああ、僕の弟でね。今は三木荒次郎と名乗っているが、親しい者は変わらず多聞と呼んでいる」
傍から見ても勝負は明らかであった。大柄な多聞に対して、体格はいいが身長のやや低い加納では、すでに体格差で劣っている。
その上、多聞は伊東大蔵、高弟・中西昇に次いで三番目の実力者。北辰一刀流だけではなく、一時期、撃剣館にて、神道無念流も学んでいる。
力任せに見せて、実は繊細な技を使う弟相手に、あの子は通用するのだろうか。
伊東が期待したのもつかの間、数振り交えただけで、加納は木刀を弾かれ、そこからは多聞による、拳による猛追が始まった。顔を守ろうと腕をがっちり固める加納へ、何発も胴体へ正拳をくらわしていく。
勝負あったな。
「お前なんぞ、刀を使うまでもない。とっとと失せろ」
捨て台詞を吐いて、背中を向けた多聞に対し、加納は木刀で後ろから殴りかかった。
ボコッ!!!
不意打ちで立ちくらんだ多聞に、加納が復讐とばかりに何発も木刀で殴打する。
なんて卑怯な!と怒った二十余りいる門下生が、続々と加納を取り押さえ、袋叩きに。
「がはっ、はぁ、まだ、だ」
「なんだって」
伊東は素直に驚いた。
先ほどの多聞に、そして門下生によって完全にうちのめされたはずの加納が、執念で立ち上がったのだ。
「馬鹿な。俺は手を抜いてないぞ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、まだ、やれんぞ」
「根性だけは認めてやる。だがどんなに足掻いても差は明らかだ」
多聞は加納の胸倉をつかんで、大人しく寝ていろと諭す。
が。
加納は頭突きをかまして、多聞が思わず手を離してしまう。
貴様!!と再び袋叩きする門下生たち。
前から門下生が殴っても倒れずに進み、後ろから抑え込んでも進み、伊東のもとへ近づいていく。
「こいつら、はぁ、はぁ、はぁ、話になんねぇ、はぁ、はぁ、なんねぇからよ、はぁ、はぁ、やろうぜ先生」
「いい加減負けを認めろ!」
頭突きのせいで鼻血が止まらない多聞が怒鳴った。
「負けてねえ!はぁ、はぁ、相手が参ったって言うまで俺の戦いは終わらねえ!!!」
「すばらしい」
伊東大蔵の心の声が、思わずこぼれた。