プロローグ
「この国の王太子であるマーティン・ジョージ・スターリッジは、ここで宣言する。伯爵令嬢アステア・ユーリーとの婚約を破棄する!」
始まった。
そう心の中で呟き、早鐘を打つ心臓を鎮めようとする。
ブロンドの青い瞳のマーティン王太子は、婚約破棄を宣言し、私を睨んだ。その胸には、ストロベリーブロンドにピンクの瞳のベアリリス公爵令嬢を抱き寄せている。青いフロックコートのマーティンとフリル満点のピンクのドレスのベアリリスは、まさに童話の中の王子様とお姫様。ただ、童話の中の王子様とお姫様は、こんな怖い顔はしないと思う。
落ち着くのよ、私。
深呼吸を繰り返すが、気持ちと体を落ち着かせるのは、安易なことではない。何百回もこの日、この時を想定してきた。それでも悪役令嬢である私、アステアの断罪の場に、血の気が引きそうになるのは止められない。自分が着ている濃い紫のドレス。そこにあしらわれた繊細な刺繍の白いレースが、小刻みに震えているのも見えていた。膝はガクガクし、今にも座り込みそうだ。
そうなるのも仕方ない。ここは宮殿で開催されている舞踏会。大勢の貴族が周囲にいる。そのホールのど真ん中で、婚約者である王太子からの断罪が始まったのだ。悪役令嬢である私への。
悪役令嬢。
そう、乙女ゲームでお馴染みの、ヒロインの恋路を邪魔するヒール。その悪役令嬢にまさか転生するなんて、皮肉な話。
なぜなら。
まさに前世の私は父親が亡くなり、親族との骨肉の争いに巻き込まれていた。その中で私は「この悪女! 長女だからって、お父様に取り入ったのね!」と妹に蔑まれていたのだ。
地方議員だった父親は、相応の財産を築いていた。子供は少子化に逆行し、兄二人、私と妹と四人もいた。平等に遺産を分配してくれていればいいものを。最後の闘病生活を支えた私に父親は、財産の多くを遺してくれたから……。
兄弟姉妹で遺産を巡る争いが起きた。
まったく一昔前のサスペンス劇場並みの醜い争い。でもそれはドラマみたいだと笑っていられない事態になった。私は――遺産という大金に目が眩んだ兄妹により、害されたようだ。
車のブレーキがきかず、山道のカーブを曲がり切れず、崖からの転落死。
前日に「車を整備してやる」と言い、いじっていたのは一番上の兄。今日、弁護士同席の遺産について話し合うことを提案し、店を予約したのは妹。その店は、これまでの徒歩で行ける貸し会議室ではなく、隣町の懐石料理の店だった。次兄は「たまにはうまいものでも食べ、腹を割って話そう」と言っていたけれど……。
三人で、仕組んだのだろう。事故を。
本当に、それはもう映画のような展開だ。けれどそれでまさかスマホでプレイしていた乙女ゲームの世界に転生するなんて。我が身に起きたこととは、思えなかった。
そもそも乙女ゲームを私がやっていること自体が、異常事態。おそらく遺産相続の争いにげんなりし、現実逃避したかったのだろう。
『真実の愛をつかもう~異世界プリンセス~』という乙女ゲームは、海外のおとぎ話のような世界が舞台だった。つまりドレスを着たヒロインに扮し、王子様や騎士と恋に落ち、結ばれる……現代日本で生きている私とは真逆の世界が、ゲームの中にはあった。
兄や妹からの罵詈雑言を頭の中からシャットアウトするために、ゲームに没入する時間が必要だったけれど……。
やり込んでいたからかしら? その乙女ゲームの世界に転生するなんて。でも……。
どうしてかしらね。転生したのが悪役令嬢だったのは。前世の私が兄妹から“悪女”と言われていたからかしら。
それだけでは……ないわね。
私が転生した悪役令嬢アステアは、双子だった。そう、妹がいる。妹であるスーザンは、私とそっくりの、波打つようなプラチナブロンド、くりっとした瞳は綺麗な菖蒲色。桃色の唇はつややかで、肌は透き通る美しさ。共に現在十八歳だった。
スーザンの姉と言っても、誕生したのはほぼ同時。助産婦が最初に抱きあげたのが私だったから、私が長女と認定された。認定されたその時から、私は王太子の婚約者になるよう、育てられた。
つまり物心ついた時には、王太子の婚約者になるのに必要な教養やマナーを叩きこまれることになった。伯爵令嬢として必要な素養に加え、王室独特の慣習や外国語を学ぶ日々。その対価でアステアは、2歳年上の王太子の婚約者の座を得たのだが……。
スーザンは、私の血と涙と汗の労力を、見て見ぬふりをした。ただただ、先に生まれただけなのに、王太子の婚約者として育てられ、そして婚約者となった私をズルいと思った。妬んだ。妬み、そして家庭内いじめを始めた。王太子の婚約者だから目立つ傷はつけられない。だから言葉での執拗ないじめを繰り返した。
両親に何度も訴えたが、信じてもらえなかった。スーザンは外面もいいし、両親の前では完璧な伯爵令嬢を演じた。しかも使用人さえ、スーザンはコントロールしていた。「お母様に話して、あなたのお給金をアップしてもらうから。この部屋には誰も近づけないでね」と命じ、私へのいじめを、完全に両親にバレないようにした。
こんなあくどいところは、前世の兄妹そっくりで。境遇が似ていることからも、私はアステアに転生したのかしら。
そのアステアはいじめに耐えかね、睡眠不足が続き、王宮の庭園の噴水で、溺死しそうになった。十七歳の時のことだ。ふらふらと噴水のそばを歩いていて、恐らく石があったのだと思う。それに躓き、噴水にまさかの頭からドボン。一瞬、アステアの心の中に、あきらめの気持ちが浮かぶ。……だが、アステアの本能は“生”を選んだ。そして前世記憶を取り戻した。つまりは私の覚醒。同時に。私を、アステアを助けてくれたのが、第二王子のオーランド・ウィリアム・スターリッジだった。
覚醒により、前世の記憶を取り戻した。そしてアステアの十七年の人生が、ほぼすべて自分のためではなく、王太子の婚約者になるために費やされていたこと。スーザンのいじめに耐える日々であったと知った時。
ふざけるな。
そう思った。ゲームでは、悪役令嬢アステアの生い立ちは、詳しく語られていなかった。でもアステアが悪役令嬢になるには理由があったと、知ることができた。並々ならぬ努力とスーザンのいじめに耐え、マーティン王太子の婚約者になったのだ。いきなり登場したヒロインに婚約者の座を奪われたくないと思うのは、仕方ないのではないかしら?
ただ、行き過ぎた部分はあっただろう。スーザンを反面教師にしていたのに、随分とキツイ言葉をヒロインに投げかけていた。でもだからと言って。溺死しそうになり、でも“生”を渇望したのだ。命の重みを実感している。そんなアステアが、私が、ヒロインであるベアリリス・フリンにあんなことをするはずがないのに。
でもマーティンは、ゲームのシナリオ通りの言葉を口にした。