96話 ヴィンスが抱えるもの
あれは約十六年前、ヴィンスがまだ九歳の頃だった。
その日は、夜でも汗ばむような暑さだった。
廊下の窓の外に大きな満月が見える中、ヴィンスは王城のとある部屋の前でデズモンドと共にその時を待っていた。
『失礼いたします! ついにお生まれになりました……!』
そして、その瞬間はすぐに訪れた。
目的の部屋から出てきたアガーシャの侍女の一人が、出産の報告をしてくれたのだ。
『……本当? お母様……!!』
母であるアガーシャの出産報告を今か今かと待っていたヴィンスとデズモンドは、急いで入室した。
すると、そこにはベッドで横になるアガーシャと、数名の医者と侍女たち、その近くには小さなベッドがあり、黒髪の赤ちゃんが眠っていた。
『陛下、殿下。姫君のご誕生、誠におめでとうございます。王妃陛下の体調も良好です。私どもがいては王妃陛下はお休みできないでしょうから、私たちは一旦失礼いたします。少しでも異常を感じましたら、すぐにお呼びつけください』
医者の一人はそう言うと、他の医者も引き連れて部屋から出ていった。
アガーシャから少し下がっていなさいと言われた侍女たちも、医者たちと同様に部屋から出ていく。
家族しかいなくなった瞬間、ヴィンスはアガーシャに駆け寄った。
『お母様、もうお体は痛くありませんか!? 大丈夫ですか!? 出産とは大変痛いものなのでしょう?』
『ええ。今はなんとか。心配をかけましたね。……貴方も』
アガーシャは、ヴィンスの後ろに立っているデズモンドに視線を寄せた。
『……ありがとう、アガーシャ。しばらくはゆっくり休め』
デズモンドはヴィンスの隣に来ると、アガーシャの手をぎゅっと握った。強面の顔が、少しだけ優しく見える。
アガーシャも、それに応えるように穏やかに笑っている。
堂々とした、威厳のある両親を多く見てきたヴィンスは、二人のそんな姿が嬉しかった。
『ありがとうございます。姫の名前は、以前から考えていたディアナにしようかと思うのですが、よろしいですか?』
『もちろんだ』
『お母様! お父様! 僕、ディアナに触ってみたいです! 優しくなら良いですか……?』
触ってみたくて堪らないと、ヴィンスは体をウズウズさせる。
そんなヴィンスの様子に、アガーシャとデズモンドは目を合わせて微笑み、コクリと頷いた。
『ヴィンス、ディアナの手に自分の手を近付けてみなさい。きっと握り返してくれるわ』
『はい!』
ヴィンスはディアナのベッドの近くまで行く。
数回深呼吸をしてから、小さな手にそっと自身の手を近付けた。
『わ、わぁっ! ディアナが僕の指をギュッて……! ギュッて握ってくれましたよ、お母様、お父様!』
アガーシャとデズモンドは、薄っすらと目を細め、幸せそうに笑い声を漏らす。
ああ、両親が笑っている。生まれたばかりのディアナが僕の手を握り返してくれた。今日は、なんていい日なんだろう。
ヴィンスはその日、幸せの絶頂にあったというのに。
◇◇◇
「ディアナが生まれたことに感動した俺はその瞬間、初めて狼の姿になった」
「…………!」
「俺が狼化した際の両親の絶望したような目を、俺は未だに忘れられない」
「……っ、その日から、ご両親との間に溝が……?」
ヴィンスはコクリと頷いた。
「その日、獣人の姿に戻った俺は、すぐに両親に自室に閉じ込められた。外から鍵をかけられ、外から姿が見えないように、昼間でもカーテンを閉めるよう指示され、絶対に部屋から出るなと命じられた」
「な……っ」
「食事や娯楽の本などは両親のどちらかが届けてくれたが、そのたびに、狼の姿になる条件が把握できるまでは部屋を出るなと言われるだけだった。……そうして当時、俺は三ヶ月もの間、両親に軟禁されたんだ」
あの三ヶ月は、少年だったヴィンスの心を深く抉った。
たまに会いに来てくれる両親以外と世界を隔離され、その両親でさえずっと傍にいてくれるわけでもない。
会いにくるたびに表情は暗く、自分のせいで両親にそんな顔をさせているのかと思うと、ヴィンスは辛くて堪らなかった。
「そ、んな……」
「当時九歳とはいえ、王族教育を受けていた身だ。新月の時に人間の姿になることを国民に隠しているように、おそらく両親は、俺の狼の姿を他の者に隠したかったんだろうと分かっていた。……民に不安を与えないことは、国を統べる者にとって大切なことだ」
「けれど、何も三ヶ月もの間、閉じ込めなくても……! 当時の両陛下は、既に初代国王陛下の手記の内容をご存じだったのでは……?」
ドロテアの問いかけに、ヴィンスはその通りだと答えた。
「確かに、初代国王の手記には狼化の条件は書いてあった。しかし、それと俺の狼化の条件が全く同じだとは限らないと考えた両親は、俺を三ヶ月軟禁したそうだ」
現にヴィンスは三ヶ月の間、満月の夜、更に悲しみの感情が膨れ上がった瞬間に、狼化した。
アガーシャとデズモンドもそれは確認していたので、ヴィンスの軟禁は解かれたのだ。
「その後、手記が正しいことが証明されると、両親は俺に、普段からあまり感情を昂らせないよう意識しなさいと告げた。念の為の対策だったのだろう。それは理解できた。……いや、両親はこの国の王と王妃として、俺が狼化することを隠そうとした事自体も、理解できたんだ。突然軟禁されて猛烈に悲しくもなったこともあったが、それも仕方がないことだったと思っている」
「…………」
ヴィンスは、目に悲しみの色を浮かべる。
そして、今にも消えそうな声で、こう言った。
「……ただ狼化に対して困惑していた当時の俺は、両親にもう少しだけ、寄り添ってほしかった。一言、大丈夫だと、息子としての俺に、声を掛けてほしかった。愛されていると、思いたかったんだ……」
「ヴィンス様……」
「……そのことがずっと胸につっかえていた俺は、少しずつ両親を避けるようになった。両親も段々と話しかけてこなくなり、今の関係に至る。……と、経緯はこんなところだ」
ヴィンスは話を終えると、ドロテアを見やる。
彼女の、まるで泣きそうな表情を目にし、ヴィンスは胸が傷んだ。
「……そんな顔をさせて済まない。だが、ドロテアが悲しむ必要はない。……両親は別に何も間違ってはいないし、ただ俺が息子として、両親に過剰な希望を抱いただけの話だ。……今回の滞在の理由も、手紙には仕事の話があるためと書かれていた。両親は俺のことを息子としてではなく、王位を継承した者としてしか見ていないんだろう」
事の経緯をこれまでドロテアに話さなかったのも、ヴィンスが自身の感情に恥ずかしさを覚えていたからだ。
両親に息子としての対応を期待し、更にそれが叶わなかったからといって避けるなど、国を背負う者の器ではないと分かっていたから。
「ヴィンス様の感情は、なんらおかしくありません」
だというのに、ドロテアは力強くそう口にした。
下唇をキュッと噛み締むことで涙をこらえ、ヴィンスの手を力強く握り締めながら。
「子が親に対して、寄り添って欲しいと、大丈夫だと声を掛けてほしいと望むことの、何がいけないんですか……っ、親に対して希望を抱いて、何が悪いんですか……! 王族だって、親に愛を求める権利はあります……!」
「ドロテア……」
ドロテアの言葉に、心が救われていく。
彼女だけは、どんな時でも味方でいてくれる。
それがどれだけ支えになっているか、ヴィンスでも計り知れない。
「お辛いことなのに、話してくださってありがとうございます、ヴィンス様……」
「…………ああ」
ドロテアは一旦立ち上がると、ヴィンスの正面に移動し、彼を抱き締める。
ヴィンスはその小さな体を、縋るようにして抱き締め返した。




