84話 狼に変わる理由
「……! つまり、ヴィンス様の中で、驚きや怒り、喜びなどの様々な感情が大きく動くことが、狼の姿に変わる引き金になる。更に、それは満月の夜にのみ関係する、という解釈であっていますか?」
「ああ、そうだ。理解が早くて助かる。だから、満月の夜は特に冷静でいられるように気を付けていたんだがな……」
ヴィンスはそこまで言うと、一旦口を噤み、ドロテアの唇に向かって手を伸ばす。
そして、少し口紅が取れた、柔らかなそこを弄ぶように触れた。
突然のことに、ドロテアは口をきゅっと横に結んで動揺を露わにした。
「〜〜!?」
「建国祭の時も、ドロテアの妹がお前のことを悪く言うから、怒りでどうにかなりそうだった。だが、どうにか抑えられたんだがな。……今日は、抑えが効かなかった。好きな女に愛を告げられて、俺になら何をされても嫌じゃないなんて言われたら」
ヴィンスから熱っぽい視線を向けられたドロテアは、彼から目を離せなくなる。
「……っ、ヴィン、ス……さ、ま……」
サフィール王国の建国祭が行われた時、ヴィンスはシェリーに対して静かに怒っていた。自分が獣だと言われたことよりも、ドロテアが貶されることに対してだ。
どうやらヴィンス曰く、あの時も感情が昂り、狼化しそうだったという。
そして今日、ヴィンスは抑えが効かなかったといい、彼は狼に姿を変えた。
ドロテアがヴィンスに愛を伝え、ヴィンスに身を委ねたことは、それほど彼の感情を動かしたのか。
(建国祭の時も、今日も、ヴィンス様の感情を大きく揺らしたのは、私……)
唇から頬に手を滑らせたヴィンスに対して、ドロテアは小さく口を開いた。
「自分で言うのもなんですが、ヴィンス様って、とても私のことが好きなんです……ね……」
「……失礼な奴だな。今まで分かっていなかったのか?」
「い、いえ! 愛していただいているのは、十分に分かっていたのですが、その、改めてといいますか……」
わたわたと慌てるドロテアに、ヴィンスは楽しそうに薄っすらと目を細めた。
「……ふっ、そんなに焦るな。怒っていない」
「え」
「だが、少し悲しかったから……慰めてくれ」
ヴィンスはそう言うと、ドロテアに少しずつ顔を近付ける。
(キ、キスされる……!)
恥ずかしさはありながらも、ドロテアは彼を受け入れんとギュッと目を閉じた、のだけれど。
「えっ」
体温よりもほんの少し低い温度の柔らかいそれを感じたのは、唇ではなく額だった。
ドロテアは目を開き、パチパチ瞬かせる。
「口にしようかと思ったが、やめておく。また狼になるかもしれないからな」
「……っ、誂うのは、おやめください……!」
「……ふ、怒ったドロテアも可愛いが、とりあえず狼化の話に戻すか」
心揺さぶられ、ペースが乱される。
けれど、それが好きな相手──ヴィンスだと、全然嫌ではなくて……むしろ、愛おしい時間だ。
ドロテアそんなことを思いながら、ヴィンスの言葉に耳を傾けた。
「満月の夜に感情が昂ぶると狼に変わる──この現象は、狼の獣人の中でもごくごく稀に起こるらしい。少なくとも、今は俺だけだ」
「というと、過去にはヴィンス様以外にもいらっしゃったのですか?」
ヴィンスはコクリと頷いてから立ち上がると、部屋の隅にある棚へと向かう。
そこから鍵を取り出すと、その近くにあるアンティーク調の金庫と思わしきものに鍵を入れ、中身を取り出した。
「それは……?」
ヴィンスが持っているのは、形状からして日記帳だろうか。カバーの皮の痛み具合からして、かなり古いものに見える。
ヴィンスは、再びドロテアの隣に戻ると、それをドロテアへと手渡した。
「これは獣人国、初代国王の手記だ。ここに、自らは狼化する獣人だったと記されている。読んでみろ」
「……! 私が中を見てもよろしいんですか?」
「ああ。この手記は獣人国の王が受け継ぐことになっていてな。王とその配偶者だけのが閲覧する権利を持っている」
「そ、そんなに貴重なものなのですか?」
王族だけが閲覧することができる書物や、先代の王から次代の王へと受け継がれる手記のようなものがあることは、獣人国のみならず、他国でも存在することをドロテアは知っている。
そんな貴重なものを手に取るだけでなく、閲覧までできるなんて知的好奇心が強いドロテアには、まさに奇跡と呼べる瞬間……なのだけれど。
「……って、待ってください、私はまだ妻ではありません……! 流石に婚約者の立場でこれを見てしまうのはさすがに……」
「あと数ヶ月もすればドロテアは俺の妻になる。遅かれ早かれこれを見ることになるんだから、何ら問題はない。俺が許可する。それに……」
ヴィンスはそこまで言うと、挑発的な目をドロテアに向けた。
「こんなに貴重なものが目の前にあって、ドロテアが我慢できるとは到底俺には思えないんだがなぁ……。どうだ?ドロテア」
「…………っ」
断るべきだという理性と、もうこの際見てしまおうという本能。
その両者がドロテアの中で戦いはしたものの、ドロテアの好奇心は自らが思うよりも強かったらしい。
いとも簡単に、本当に軍配が上がった。
「で、では、お言葉に甘えて……」
「……ククッ、だと思った」
それからドロテアは、丁寧に手帳を開き、真剣に読み始めた。
冒頭は、死ぬ前に伝えたいことがある、だった。
(確かに、獣人国の初代国王も、狼化する体質だったと書いてあるわね……)
しかし問題は、初代国王の時代は今よりも狼の獣人が多かったというのに、この現象が起こった者は初代国王の他にはいなかったということだった。
周りに気味悪がられるかもしれないと思い、初代国王は、このことを家族以外の誰にも打ち明けられなかったようだ。
(新月の日には、多くの狼の獣人が人化したと書いてある。……確かに、ヴィンス様だけでなく、ハリウェル様もディアナ様も、人化していたわ……)
それから初代国王は、自らにのみ起こった狼化という現象の原因を何年もかけて探ったとある。
そしてやっと、満月の夜という条件と、感情が高ぶるという条件が重ね合った時にのみ、狼化することが分かったのだと。狼化は、夜明けを待たずとも比較的直ぐに解けることも。
更に、初代国王はとある仮説を立てていた。
(狼化する因子が私の血に流れているのなら、もしかしたら子孫にも狼化の体質を持った者が現れるかもしれない……か)
そのため、この手記を未来の子孫たちのために残しておく。もしも、自分と同じように狼化する子孫が現れたら、これを読ませてあげてほしい。
──そう、手記の最後は締め括られていた。
(……これは、自分の体質に一人悩み、苦しんだ初代国王が、子孫たちにはせめて情報を残したいと思って記したものなのね……。って、あら?)
よくよく見ると、最後だと思われるページの次のページが破れているような痕跡が見える。
「ヴィンス様、こちらは初めから破れていたのですか?」
「俺が両親から受け取った時には既にそうだった。古いものだから、破れてしまったんだろう」
「……そう、ですよね」
古い割に手帳の状態は非常に良い。それなのに、このページだけ破れていることにドロテアは違和感を持った。
しかし、今はそれを調べる術がない。
ドロテアは疑問を頭の端に追いやると、手帳をパタンと閉じる。そして、別の疑問を口にした。
「この手記は本来、初代国王の子孫に当たる、王族の方々に残されたものですよね? けれど、王とその配偶者しか閲覧できないということは、ディアナ様やハリウェル様は、この手記を読んでいらっしゃらないということですか?」
「そうだ。今だと、俺とドロテア、先代の国王夫妻しかこの手記の内容は知らない。昔は、王族の全員が読んでいたらしいんだがな──」
ヴィンス曰く、先代の王が伝え聞いた話では、初代国王以来、狼化する獣人はヴィンス以外にはいなかったようだ。
そのため、ヴィンスが生まれるよりもかなり前──四代前の国王の頃に、もう狼化する獣人は生まれないだろうと考えられ、この手記を王族全員に読ませるという必要はないという判断したらしい。その時、王とその配偶者のみがこの手記を閲覧できるという決まりに変わったという。
というのも、この手記に書かれている狼化は、人化と同様、民を不安にさせる恐れがあるからだ。
新月の日には力の弱い人間となり、満月の日に感情が昂ぶると言葉も話せない獣になるだなんて、もしも他国に知れ渡ったら大問題である。
だから、できる限り狼化という現象を広めない方が良い、という結論に至ったそうだ。
ヴィンスの説明に、ドロテアは「そういうことでしたか……」と納得の表情を見せた。
「手記を読んでいない者……ディアナやハリウェル、もちろんラビンにも、俺が狼化することは伝えていない。四代前の国王の意志もあるし、言ったところでどうにかなるわけじゃないからな。……知っているのは両親と、ドロテアだけだ」
「諸々と理解しました。話してくださってありがとうございます、ヴィンス様」
ドロテアがそう言って頭を下げると、ヴィンスは彼女の頭を優しく撫でながら口を開いた。
「……さすがのドロテアでも、狼の姿には怖がると思ったんだがな。まさかあんなに全身を弄られるとは」
「弄るという表現はいかがかと……! けれど、申し訳ありません……。私ったら、狼ヴィンス様のあまりの可愛らしさに何度も何度も暴走してしまいました……」
あの時は、まさか狼化がディアナやハリウェル、ラビンにも言えないような秘密だなんて思わなかったのだ。
いや、厳密に言うと、あまりの可愛らしさに、そういう頭が働かなかったというべきか。
「構わん。……むしろ、救われた」
「え?」
一瞬だけ、ヴィンスの顔が憂いているように見えた。
だが、直ぐにいつもの余裕げな表情に戻っていたので、気の所為だったのだろう。
ドロテアがそう自問自答した時、彼女はとあることを思い出した。
「突然で恐縮なのですが、一つお願いがあります」
「なんだ? 言ってみろ」
「婚約パーティーも終わったことですし、そろそろヴィンス様のご両親に挨拶をさせていただきたいなと思いまして……」
実は以前から、ドロテアは何度かヴィンスの両親に挨拶をするタイミングを伺っていた。
本来ならば王城で世話になると決まった時には挨拶をするべきだろう。
しかし、突然の求婚でドロテアの覚悟が決まっていなかったことやサフィール王国の建国祭への参加、ハリウェルの帰還に、婚約パーティーの準備などがあったため、中々言い出せなかったのだ。
それに、ヴィンスから両親のお話をほとんど聞いたことがなかったため、無意識に話題にしづらかった。
(けれど、こういうご挨拶はしっかりしないと! ご両親にあまり悪印象は与えたくないし……。それに何より、私がヴィンス様のご両親に会ってみたい)
そんな思いから、ヴィンスの両親への挨拶を志願したドロテアだった、のだけれど。
「…………。ああ、そろそろ挨拶をしないとな」
「ヴィンス様……?」
その会話を最後に、ドロテはヴィンスにそろそろ休むよう言われ、部屋に戻った。
ヴィンスの憂いを帯びた表情や声を忘れられなかったドロテアはその日、あまり眠ることができなかった。




