58話 伝えるから、少し待っていて
ヴィンスの鼻を甘噛みしてすぐに離れると、彼は今までに見たことがないくらいに瞠目していた。
まさか以前にドロテアにした求愛行動──鼻への甘噛みを、自身がされるだなんて思いもしなかったのだろう。
「……っ、ドロテア、お前な……っ」
鼻を隠すように手で顔を覆いながらも、僅かに覗く真っ赤な頬のヴィンス。
(か、可愛い……ヴィンス様、不意打ちに弱いのね)
そんなふわふわとした思考になりながらも、少し時間が経てばとんでもないことをしてしまったと思ったドロテアは、深く頭を下げた。
「と、突然申し訳ありません……! ほぼ無意識で……」
「……っ、謝らなくても良いが、いきなりはやめろ……頼むから」
「はい、かしこまりました」
──以前デートに行く間際、ヴィンスも急にしてきたのに。ドロテアはそう思ったけれど、それは口に出すことはなかった。
今はそれよりも、伝えなければいけないことがあったからである。
「あの、昨日の質問……ヴィンス様のことをどう思っているかについて口にするのは、少しだけ待っていただけませんでしょうか?」
ややしおらしく言うドロテアに、いつの間にやら普段の冷静な面持ちに戻ったヴィンスは、額辺りを押さえて息を吐いた。
「さっき求愛行動をしておいてか? 言うより凄い行動力だと思うが」
「そ、それは! そうかもしれませんが……! 言うのが恥ずかしいだけではなくてですね……! その、お伝えするのはハリウェル様に、きちんとお断りしてからが筋ではないかと……」
「さっき、あんなこ──」
「そ、それはもう聞きました……!」
必死なドロテアに、ヴィンスはクツクツと喉を鳴らしてから口を開いた。
「……ドロテアは俺が今何を言おうと、ハリウェルをしっかり振らないと俺に好きだとは言えないんだろう?」
こうもあけすけな物言いをされると反応に困るドロテアだが、間違っている箇所はないので頷くことにした。
「もう少しオブラートに包んでいただきたいですが、そういうことです……善は急げということで、今からお伝えしに行こうかと思うのですが、構いませんか?」
ハリウェルは今日一日休みにしてあるが、おそらく体調には問題ないだろう。
こういうことは長引かせる方が相手に期待をもたせる可能性もあるし、ヴィンスにもそろそろちゃんと思いを伝えたい。
しかし、肝心のヴィンスは考え事をしているのか、返答はなく。
「だめでしょうか……?」
無意識に眉尻を下げて問いかけると、ヴィンスはドロテアの頬にそっと手を伸ばした。
「……しょうがない、構わん。俺もそろそろドロテアの口からきちんと聞きたいからな。だが、今のような可愛い顔はするなよ。……せっかくハリウェルが諦めなければと思っていたとしても、決心が揺らぐかもしれない」
「……っ、許可をいただき、ありがとうございます」
(……か、かわ……っ、いや、今はそこではないわ、しっかりしなさい私……)
何度言われてもヴィンスから可愛いと言われるのは慣れない。なにより、胸がムズムズとして、体温が一度上昇するようなこの感覚に嬉しさを覚えるのだから困ったものだ。
そうした思いを抱きながらも、ドロテアはもう一度自身にしっかりするよう言い聞かせる。凛とした眼差しで、ヴィンスを見上げた。
「もう少しだけ、待っていてください」
◇◇◇
ドロテアが部屋を出た少し後、ヴィンスは一人残された書庫の奥の部屋に佇んでいた。本を読むわけでもなく、ただ椅子に座って腕を組んだ状態で。
そんなヴィンスの頭の中にあるのはロレンヌからの手紙のことやドロテアの美しい笑顔、甘噛されたときの光景と、もう一つあった。
「ハリウェルの奴をどうするか」
このままハリウェルを専属護衛騎士にすることはもちろん可能だ。ヴィンスがその任を解かなければ良いだけの話なのだから。
ドロテアは振った側として気まずい部分もあるだろうが、ハリウェルが居てくれる有り難さを以前話していたことと、彼女の公私を分ける性格から、おそらく大きな問題はないだろう。
ハリウェルは振られた側としてドロテアとは比べ物にならないくらいに気まずいだろうが、そこはハリウェルの性格上、振られたらそれなりに諦めがつくはずだし、仕事に手を抜くこともないだろう。
(……あいつも狼の獣人だから、そう簡単にドロテアへの思いを無には出来ないだろうが……)
とはいえ、狼の習性があったとしても本人が諦めようと思えばその思いは日に日に薄れていく。
きちんと振られたことを自覚し、ドロテアを煩わせないなら、この国で最強の剣の腕前を持つハリウェルが専属護衛のままの方が彼女の安全は守られるというもの。
(ということは分かっているんだがな……)
今だって、ドロテアがハリウェルに告白をしに行っているのだと思うと、嫉妬にかられてしまう。
ヴィンスはくしゃりと前髪を掻き上げた。
「ドロテア……」
それでも、いつかは断りを入れるのなら、早いほうが良いのは間違いない。ヴィンスはそう自身に言い聞かせて、己の鼻にそっと触れる。
言葉はなかったものの、甘噛みで思いを伝えてくれたドロテアを思い出すと無意識に頬が綻んだ、そんなとき。
「ヴィンス! 大変です!」
「……! 何事だ、ラビン。というか、どうしてここにいることが分かった」
勢い良く扉を開けて入室して来たラビンに、ヴィンスは怪訝そうな顔を向けた。ヴィンスと呼んでいる辺り相当慌てていることだけは理解できたのだけれど。
「ドロテア様がヴィンスの手を引いて執務室を出て行くなんて珍しいですから、そりゃあ貴方たちの行き先が私に伝わってくるくらいには城内では騒ぎになっているわけですよ!」
「は?」
「因みに古参のシェフは『ドロテア様を溺愛する陛下は手を握られてさぞ喜んでいるはず!』と今日は異国のお祝いの料理であるお赤飯を作ると──」
「シェフは俺を五歳児だとでも思っているのか。あと赤飯はやめろ」
確かに古参のシェフはヴィンスが産まれる前から城に仕えていて、息子……どころか孫を見るような感覚があるのだろうが。今はさておき。
「……で、用件は何だ」
「ハッ! そうでした……! 実は先程──」
それからラビンが告げたとある出来事に、ヴィンスはやれやれと言った様子で立ち上がった。




