55話 赤い華が咲いた夜
ドロテアの問いかけに、ヴィンスは直ぐに答えることはしなかった。
けれど、真っ直ぐな眼差しを向けたままのドロテアを見て、答えなければ引かないと感じたのか、ヴィンスは唇を震わせた。
「……俺もディアナもハリウェルも、幼少期から新月の日の夜は必ず部屋に籠もっていた。人間の姿になることが民に知れたら、不安を煽るかもしれないからだ。それは、国の安定をも揺るがすことになりかねない」
「はい」
「そう教えられてきたから、俺たちは月に一度、部屋の外に出られない夜があることに大して不満はなかった。……ただ」
目を伏せ気味にしているからだろうか。ヴィンスの睫毛が頬に影を作る。
その美しさに見惚れそうになりながら、ドロテアはしっかりと耳を傾けた。
「体は怠かったし、辛かったな。人化することを知る人間は数少なかったから、一人の時間は心細かった。……陽が登ったら必ず元の姿に戻るのかが不安で、眠れなかった日もある」
「……っ」
獣人に戻れなかったら、ずっと部屋から出られないのか。そんな不安に駆られるのは、何らおかしなことではないだろう。
(私……そこまで、考えが至っていなかったわ)
ヴィンスの話に、ドロテアは内心で猛省した。
人化することに対して軽く考えたつもりはなかったが、少なくともハリウェルを助けたときのことに関しては、自身にとっては大したことをしたつもりはないという認識だったから。
けれど、ハリウェルの立場からすればどうだっただろう。
不安で苦しくて仕方がなかったとき、もし誰かが傍にいてくれたら。自身が、ハリウェルの立場だったら。
「私、ハリウェル様のお立場で、八年前のことを考えられていませんでした。何故あの程度のことでそんなにって思ってしまっていて……最低です」
「人化したときの不安なんて、なった者にしか分からないのが普通だ。……告白までされて動揺していたんだから、なおさら。なのに、今ドロテアは相手の立場になってしっかりと考えているんだろう? ……良い子だな」
「ヴィンス様……」
ヴィンスがそっと伸ばした手が、ドロテアの緩いウェーブ状の髪の毛を優しく梳く。
それから、ヴィンスは悲しげに苦笑を漏らした。
「とはいえ、狼の獣人の俺にはハリウェルの気持ちは痛いほど分かった。……人化したときに傍で寄り添ってくれたドロテアに惚れたのもな」
「…………」
ドロテアが小さく頷くと、ヴィンスがゆっくりと体を起こす。
ドロテアが支えようとすると、ヴィンスはそんなドロテアの手を握り締めて「質問に答えないとな」と囁いた。
「王の権限でハリウェルを専属護衛騎士から外すことは必ずしも不可能じゃなかった。だが俺は、ドロテアに誇れる自分になれるよう騎士道を必死に歩んできたハリウェルの気持ちや、これまでの人生を……尊重してやりたかったのかもしれない」
他者の耳と尻尾を触るなというくらいには、ヴィンスは嫉妬深い性格だ。
だからきっと、ハリウェルがドロテアの護衛騎士でいるのを、側にいることを嫌だと思ったことだろう。
それでもヴィンスは、ハリウェルのこれまでの努力を知っているからこそ、自身が我慢する方を選んだ。
それを知ったドロテアは、苦しいくらいに胸がギュッと締め付けられた。
「ヴィンス様は、優し過ぎます……っ」
「……優しくなんてない。本当に優しい男なら今、こんなに醜く嫉妬したりしない」
「──えっ」
刹那、ヴィンスは掴んだドロテアの手を引くと、自身の胸元へと彼女を誘う。
片手はドロテアの華奢な背中を、もう片方は細い腰を引き寄せるように強く抱き締めれば、ドロテアは本日二度目の抱擁に喉をひゅっと鳴らした。
首筋に顔を埋められ、熱い吐息がドロテアを襲う。それだけでも一杯一杯だったというのに。
「ヴィ、ヴィンス様……っ、何を……んんっ」
ぬるりとした舌が這った感触を得たドロテアは、自身の口から漏れてしまった扇情的な声にも、言い知れぬ羞恥の情に駆られた。
「ヴィンスさま、やめ……っ」
静止の声は届かず、ヴィンスはドロテアの首筋に舌を這わせ続ける。
温度も、感触も、水音も、その全てがドロテアの羞恥心を煽るようで堪らず目をぎゅっと瞑ると、その時だった。
「っ……!」
一瞬舌を感じなくなったので安堵したのは束の間、首筋に感じたチクリとした痛みにドロテアは表情を歪めた。
「なっ、何ですか、今の……っ」
針を刺されたのとも違う、かと言って切り傷を負ったとことも違う痛み。
咄嗟の疑問の声に、ようやく首筋から顔を離したヴィンスは、余裕のない瞳でドロテアを見つめると、背中に回していた方の手で彼女の首筋をツゥ……と撫でた。
「ああ、綺麗についたな」
「つい、た……?」
「……ドロテアが俺のだという証だ」
「……!?」
(それってまさか、キスマーク……!?)
夜の営み、それに関する本を読んだことがあり、キスマークに対する知識があったドロテアは、ヴィンスの言い方と痛みによって確信を得た、のだけれど。
「なっ、なっ、なっ……!」
いくらヴィンスとは婚約者だとはいえ、未婚の自分にはまだ早いだろうと考えていたキスマークを突然つけられたドロテアは、分かりやすく狼狽してしまう。
(キスマークって、あのキスマークよね!? 本当に赤くなっているのかしら……って、いや、今はそこじゃなくて!)
考えが顔に出てしまっているドロテア。
そんな彼女に対して、ヴィンスは熱を帯びた眼差しのまま、吐息混じりの声で囁いた。
「ハリウェルを尊重してやりたいなんて言いながら──嫉妬と独占欲に駆られてこんなことをするくらい……お前が好きなんだ、ドロテア」
「……っ」
キスマークに対する興味関心を削がれてしまうくらいの囁きに、ドロテアは胸がいっぱいになる、というのに。
「ハリウェルには、何て答えたんだ」
「……気持ちには応えられないと言おうとしたのですが……まだ言葉で伝えられていなくて……」
「──それなら、俺のことは? 俺のことはどう思ってるんだ」
縋るような声で、そんなふうに言われたら、そんなの。
「私はヴィンス様が──」
けれど、ドロテアから次の言葉が出ることはなかった。
ハリウェルの最後の質問が頭に過ったことと、実家が没落することでこのままヴィンスの婚約者でいても良いのかと不安に思ったことで、上手く言葉が出てこなかったのだ。
「ヴィンス、さま、が……」
それでもなお、ドロテアは自分の気持ちを言葉にしようと試みたのだけれど、胸を渦巻く懸念のせいで言葉が吐き出されることはなかった。──そんなとき。
「えっ!? ヴィンス様……っ!?」
突然自身の胸元にボスンと顔を埋めたヴィンスの息が先程よりも確実に荒くなっていることにドロテアは気付いた。肩で息をしていて、状態が悪化しているのは明らかだ。
新月の夜にどれくらい身体が辛いかは毎回マチマチのようなので、おそらく今回はかなり重たい方なのだろう。
「ヴィンス様! 話はまた明日以降にして、今は一旦休んでください……!」
「…………っ」
その言葉を最後に、ドロテアはヴィンスを再びベッドに寝かせると、急いでハリウェルを看病したときと同じように準備を済ませる。
それからヴィンスが眠るまでは傍にいようと、またベッドに腰を下ろすと、絞ったばかりの手拭いを彼の額へと優しく置いた。
「ヴィンス様……お辛いですよね……もし眠れそうなら、私のことは気になさらずいつでも寝てくださいね」
そう声をかけると、シーツを這うように伸びてくるヴィンスの手。
「……っ、ドロ、テア」
「はい。ここに居ます。ずっと居ますからね」
ヴィンスの手とは反対に、水を扱っていたドロテアの手はひんやりと冷たい。
その手に握りしめられたことがよほど気持ち良かったのか、または安心したのか、スッと眠りについたヴィンスにドロテアは胸を撫で下ろした、のだけれど。
「……ちゃんと、考えないと」
ハリウェルの質問に、平民になった自分の身の振り方。
それらを悩みながら、ドロテアは空いている方の手で自身の首筋にある赤い華を愛おしそうに撫であげた。
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