49話 ぺろっと、ドキッと、からの
一度離されたはずの自身の左手が、再びヴィンスに捕らえられる。
俺が治療をするってどういう意味なのだろう。ドロテアのそんな疑問を余所に、彼女の怪我をした方の手は、ヴィンスの口元へと誘われていた。
「ヴィンス様、あの──」
一体何をするのですか、と続くはずだったドロテアの言葉が紡がれることはなかった。
というのも、目の前の光景に、人差し指に感じる独特の柔らかさに、ドロテアの思考の全ては羞恥で満たされてしまったから。
「えっ!? ちょ、えっ、あのっ、何で舐め……っ!?」
薄っすらと切り傷がついたドロテアの人差し指の腹に這うのは、ヴィンスの口からちらりと覗く赤い舌だ。その舌が触れる度に、ひんやりと冷たく、けれどじんわりと温かい変な感覚がドロテアの指を襲う。
(ま、まままま待って……! ヴィンス様の舌の感触が……! それに、おっ、音がぁ……!)
厭らしくゆるりと這う舌からは、ピチャピチャという水音が僅かに漏れる。
ヴィンスの行動の意味が分からないし、分かったとしても恥ずかしいことには変わりがないので、ドロテアは彼の舌から逃げようと手を引くのだけれど。
「こら、逃げるな。もう少し」
「〜〜っ!?」
ヴィンスの力に叶うはずはなく、逃げるどころかより強い力で捕らわれてしまえば、ドロテアに為すすべはなかった。
「……っ、ヴィンス様ぁ……っ、まって、や……っ」
それから、どれくらいの時間、舐められていたのだろう。
おそらく一、二分程度なのだが、自身の指からヴィンスの舌が離れた頃には、ドロテアの身体は力が入らないくらいにクタクタになっていた。
(……もう、だめ……)
ドロテアは唇を半開きにして、無意識に恍惚とした表情を浮かべている。
そんな彼女の手から自身の手を離したヴィンスは、おもむろに口を開いた。
「ドロテア、傷口を見てみろ」
「え……?」
まだぼんやりとしている中で、ドロテアはヴィンスに言われたとおり自身の人差し指を見ると。
「あ、れ……? 傷がない……?」
ポツリと呟いたドロテアに、ヴィンスはコクリと頷いた。
「……獣人は肉体能力が高いだけではなく、治癒能力にも優れていることは知っているだろう?」
「は、はい」
「これはあまり知られていないんだが、実は獣人の唾液には他者の治癒力を高める効果があると言われていてな。まあ、微々たるものだから、小さな掠り傷や薄い痣程度にしか効果はないんだが」
「……そうなのですね! 初めて知りました……! 獣人の皆さんにはいつも驚かされ──って、そうじゃない!」
あわや知らなかった知識を得たことに感動しそうになったドロテアだったが、はたと我に返った。
「そうならそうと、先にそれを教えてくださっても良いじゃないですか……! 治療してくださったことは有り難いですが、い、いきなり舐められて、びっくりしたんですよ……っ!?」
顔を真っ赤にしながらドロテアが小さな反抗を見せれば、ヴィンスは目をパチパチと数回瞬かせてから、ふっと笑みを零す。
そして、ドロテアの左手の人差し指にちらりと視線を寄越してから、ヴィンスは少し前屈みになってドロテアの耳元に顔を寄せた。
「……へぇ。本当に驚いただけか?」
「…………!!」
「ちょっと気持ち良さそうな顔してたくせに」
「…………っ!?」
そんなヴィンスの言葉に、ドロテアはぎくりと肩を揺らす。
続いて自身の左手を右手で隠すように覆うと、俯いてブンブンと首を横に振ったのだった。
◇◇◇
次の日の午後。
ドロテアはフウゼン染めについての報告書を完成させると、ヴィンスに提出するため執務室へと足を進めていた。
正式な婚約者になってからはドレスで過ごすことが多かったドロテアだが、今日は久しぶりに一日中ヴィンスたちの書類仕事を手伝える算段がついていたので、お仕着せに袖を通してあった。
「やっぱりこの服を着ると落ち着くわね」
ヴィンスから贈られたドレスは全て可愛いし、何よりドロテアを着飾らせるときのナッツの笑顔と言ったらとんでもなく可愛いのだが、やはり慣れには勝てない。
今はまだしも、ヴィンスの妻ともなればお仕着せを着ることなんて無くなるだろうから、今のうちからもっとドレスに慣れなければ……と思いつつ、ドロテアは軽やかな足取りで執務室の前まで行くと、ノックをして扉を開いた。
「失礼致します。ヴィンス様、フウゼン染めについての──」
「「「ドロテア様が来たァァァ!!!!」」」
「……!?」
執務室に一歩足を踏み入れた瞬間だった。机に突っ伏せていたと思われる文官たちは、ドロテアの声を聞いて一斉に顔を上げて、歓喜の声を上げる。
そんな中でも「ありがたや~ありがたや~!」と人一倍叫んでいるのはラビンだ。そんなラビンにつられるようにその他の文官たちは目を輝かせた。
「ドロテア様!! 良く来てくれました!! もうこの際遠回しな言い方はしません……手伝ってください!!!! お願いします!!」
「「「お願いします!!!!」」」
「は、はい! もちろんです……!」
今朝、各地から城に大量の書類が届いたとは聞いていたので、文官たちは疲弊しているのではないかと思っていたドロテアだったが、ラビンたちの様子からして想像していたよりも大変そうだ。
「ヴィンス様、私もお仕事に加わっても宜しいですか?」
「もちろんだ。……というか頼む」
ドロテアはヴィンスにフウゼン染めに関する報告書を提出すると、早速彼の隣の机に腰を下ろして筆を動かした。
「さて、これでようやく終わりだな」
机に残った最後の書類にヴィンスが国璽を押してそう言えば、ラビンを始めとする文官たちは口々に「終わった〜」と安堵の表情を浮かべた。
月に数回目まぐるしい程に忙しくなることがあるのだが、まだ月が登りきっていないこんな時間に終われるなんて夢のようである。
これもひとえにドロテアのおかげだ……と、文官たちはドロテアに「神だ」「救世主だ」なんて感謝の言葉を述べていった。
「いえ、私はただのじ……ヴィンス様の婚約者ですから、これくらいは出来ないと」
「また侍女って言おうとしたな、ドロテア」
「うっ……今のは、セーフ、です」
「ククッ……そういうことにしておいてやろう」
お仕着せを着ていることもあって、ついつい侍女だからと言ってしまいそうになる。
(私はヴィンス様の婚約者……婚約者……婚約者……ふふ、婚約者、なのよね)
甘美なその言葉を脳内で反芻して少しだけ浮足立つドロテアの一方で、「あっ」と声を出したのはラビンだった。
「陛下、そういえば書類に紛れていたのですが──」
「……? 俺宛の手紙?」
どうやら仕事の書類にヴィンス個人に宛てた手紙が紛れていたらしい。
ラビンは真っ白の封筒をヴィンスに手渡すと、ヴィンスは宛名を確認して、目を見開いた。
「ヴィンス様……?」
そんな様子を視界に収めたドロテアは、何かあったのかと疑問に思うのだが。
(……いくら婚約者とはいえ、あまり詮索してはだめよね)
そう考えたドロテアは、皆にお茶でも入れようかと立ち上がる。しかし、その瞬間だった。
「ドロテア、少し話があるんだが良いか?」
「は、い。もちろんです」
封の開いた封筒を手にしたまま立ち上がったヴィンスの問いかけに頷くと、ドロテアは素早く手を取られ、彼と共に執務室を後にした。
そして、到着したヴィンスの部屋。
異性であり、婚約者であり、好きな相手であるヴィンスの部屋で二人きりの状態にドロテアは緊張の面持ちを浮かべる。
けれど直後、言いづらそうに口を開いたヴィンスの言葉に、「えっ」と声を漏らした。
「……ドロテア、お前の家族たちへの罰が確定した。ドロテアの生家、ランビリス子爵家は爵位を剥奪され、平民に下ることになった」
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