25話 星月祭りの言い伝え?
その後ドロテアは、ヴィンスに抱き寄せられたまま、自身の部屋の前に送ってもらっていた。
ヴィンスからもう一度祭りに向かう案が出たのだが、ドロテアとしては今の精神状態で祭りを楽しめる気がしなかったからである。
僅かな月明かりが廊下の窓から差す中、ようやく地に足が着いたドロテアは顔だけでなく耳まで真っ赤にして俯く。
ヴィンスはそんな彼女の頭をよしよしと撫でながら口を開いた。
「ああ、そういえば、明日から妃室に移るんだろう? 準備は出来ているか?」
「……は、はい。問題ありません。明日からよろしくお願いいたします、ヴィンス様」
「ああ、こちらこそ」
というのも、現在ドロテアが暮らしている部屋は、最上級の客室なのである。
日当たりは良好で部屋は広く、家具や調度品も一流なものばかりなのだが、今後正式に婚約者となり、後に妻となった際には、ヴィンスの部屋と繋がっている妃室に移らなければならなかった。
……ということで、妻になるのは時間の問題だからと、ヴィンスは妃室の準備をさせていたのだけれど。
求婚された当初は、鍵がついているとはいえ、続き部屋に抵抗があったドロテアはそれを拒否していた。
しかし、ヴィンスと共に過ごすうちに、別に構わないのでは……? とドロテアは思うようになったのだ。
「ですがヴィンス様、私達はまだ正式な婚約者ですらありませんから、緊急事態じゃない限りは、互いの部屋に入らないと約束してくださいね……!」
「分かった分かった。どうせ半年経ったらすぐに入籍して夫婦になる。そうしたらあの鍵は取るからな。……覚悟しておけよ」
「……っ、分かって、おります」
覚悟の意味が理解出来てしまうことに関して、ドロテアは無知でありたかった、なんて思ってしまう。
(だってつまり、そういうこと、でしょう?)
夫婦になれば殆どの人が通る道とはいえ、ドロテアは未だに熱が燻っているからか、つい想像してしまう。
ブンブンと頭を振って煩悩を吹き飛ばせば、開いた窓から聞こえてくる「ラビン、本当にもう帰るの?」という声に振り向いた。
「今の声、ディアナ様でしょうか?」
「ああ、どうやらもうラビンと城に戻って来たみたいだな。ディアナは不服そうだが。……あのヘタレめ」
「過保護と言ってあげませんか……?」
事前にヴィンスから、ラビンの思いについて聞き及んでいたドロテアからは乾いた笑いが漏れてしまう。
二人は両思いだが、その恋が実るのはまだまだ先になりそうだ。
ふう、と一息ついたヴィンスは、未だドロテアの頭に乗せていた手を彼女の柔らかな頬へするりと滑らせた。
「とにかく今日は色々と疲れたろ。もう休め」
「はい。ありがとうございま……あっ」
「?」
そこでドロテアは先程ディアナの声を聞いたことで、ふと思い出した。
──『星月祭りの日の言い伝えってご存知ですか……?』
(そういえばディアナ様、お茶会のときに教えてくださったわね……)
その時は新たな知識が増えて嬉しい、としか思っていなかったのだが、今のドロテアの心境はそうではなかった。
「あの、ヴィンス様も今日はもうお休みになりますか?」
「……そうだな。ドロテアのおかげで急ぎの仕事もないし、今日は休む」
「そ、そう、です、か…………」
「……? 何だ? どうした?」
いつもの恥ずかしがっているのとはまた少し違う、何やらもじもじとしたドロテアにヴィンスは不思議そうな表情を見せた。
家族のことで落ち込んでいるわけでも、高所の恐怖が尾を引いているわけでもないその様子に、じいっとドロテアの表情を見つめると、その時だった。
「ヴィンス様……失礼いたします……!」
「……!」
ドロテアの両手がヴィンスへと伸びると、その手は彼のワイシャツの襟をグイと掴んで引き寄せた。
突然のことでヴィンスはバランスを崩すと、腰を曲げるような姿勢になり、まるで先程塔の上にいたときのような顔の距離に目を見開く。
すると、ドロテアの美しいコバルトブルーの瞳に羞恥の色が混ざっているのを一瞬視界に捉えたと思ったら、それはすぐに訪れた。
「………………。は」
ヴィンスから少し間抜けで、それでいて困惑に満ちた声が漏れる。
一瞬だけ、柔らかくて人肌の体温のそれが触れた、自身の黒い耳を確認するように触れば、同時にドロテアは自身の唇を手で隠すようにしながら口を開いた。
「突然、失礼いたしました……! けれどその、せっかくですし……」
「ドロテア……お前……」
突然耳にキスをされたヴィンスは、予想外のことで一瞬頬が赤く染まるが、直ぐ様いつもの涼しい表情へ──否、いつもよりも熱を帯びた、それこそ獣というに相応しい表情をちらつかせた。
そのまま一歩ずつ距離を詰めるようにドロテアに近づいていくと、ドロテアも本能的にまずい、と感じ取ったのか後退りをする。
けれど、背中にひんやりとした壁が当たり、目の前にはヴィンス、左右には彼の腕がある状態で、逃げ道などあるはずもなかった。
「あ、あの、ヴィンス様?」
「ドロテア、お前本当に意味を分かってやってるんだな?」
「は、はい。そうだと思いますが。ディアナ様が、ラビン様に聞いたと仰っていましたし。星月祭りの日の言い伝えのこと、ですよね?」
「何? 言い伝え? ラビンだと?」
言い伝えという言葉とラビンの名前に、ヴィンスのこめかみと耳と尻尾が同時にピクンと揺れる。
(えっ、何か問題が……?)
そのままの姿勢で何やら考え始めたヴィンス。
ドロテアはどうしたのだろうとヴィンスを見つめていると、彼から何とも重たい溜め息が漏れたのだった。
「因みに聞こう。ラビン──いや、ディアナは何と?」
「星月祭りの日に大切な人の耳にキスをすると、その人が少しだけ幸せになれる、言い伝えがあると」
「……ハァ。なるほど。そうか、そういうことか」
「えっ? もしかして違うのですか? 私の聞き間違えでしょうか?」
「いや、そうじゃない。ラビンはディアナに間違ったことを敢えて教えてたんだろう。確かに星月祭りの日に耳にキスをすると、という話はあるが、そもそも言い伝えという感じでもないしな。……まあ、天使だの女神だのと思っている相手に、あまりこれは言えないだろうが」
「…………つまり……? どういうことでしょう?」
──清らかと思っている相手にこそ言えないということは、もしかして少し不埒なものなのでは?
そんな考えが頭に過ぎったドロテアだったが、ヴィンスに壁際に追い込まれた状況では、それほど頭が早く回らなかったため答えには辿り着かなかった。
ただ、知的好奇心の塊のドロテアはその答えを気にならないはずはなく。
「知りたいよなぁ、ドロテアなら」
ヴィンスはドロテアを射止めるような鋭い目で見下ろすと、肘を曲げてぐぐと顔を近付ける。
ドロテアの体がぴくっと動いたことにヴィンスはクツクツと喉を震わせつつ、鼻先が当たりそうな距離にまで詰めると、ニッと笑ってから彼女の耳に唇を寄せた。
「本当の意味を教えてやろう。星月祭りの日、愛する人の耳にキスをするのは──」
そのとき、耳に艶めかしい温もりを感じたドロテアの鼓膜が小さく震える。ヴィンスの唇から聞こえた、ちゅ、というリップ音によって。
「『今日は一緒のベッドで眠りましょう』という意味だ」
「〜〜っ!?」
瞬時に理解したドロテアは、ボンッと爆発しそうなほどに全身が羞恥に染まる。
そんな中、ヴィンスは未だにドロテアの耳に唇を寄せたまま、追い打ちをかけたのだった。
「つまりお前から誘ったんだぞ、ドロテア。……ベッド、連れて行ってやろうか? 付いてくるなら好きなだけ耳と尾を触ると良い。……まあ、その代わり俺も触るがな」
「……っ!! 全ては私の確認不足による不徳の致すところですのでご容赦くださいおやすみなさいませ!!」
ぴゅーん。そんな効果音が着きそうなほどの勢いで、一度しゃがんでヴィンスの拘束から逃げ出したドロテアは自室に入って行った。
そんな中、バタンと閉められた扉を視界に収めながら、ヴィンスはぽつりと呟く。
「──ドロテアは、俺の理性を殺す気か。……にしてもラビンの奴、明日会ったら絶対に倒れるまで仕事を回してやる」
その時、くしゅっと、ラビンがくしゃみをしたのはまた別の話である。
◇◇◇
一方その頃、サフィール王国のランビリス邸では。
「な、何よこの手紙……っ!!」
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