116話 デズモンドと幼い王太子
──それは、チラチラと雪が降る日のことだった。
『レビオル』でクヌキの木から蜜が採れることが発見されたばかりだった。
自然でもほんのりと甘い蜜は、煮詰めれば砂糖と匹敵するほどに甘くなる。栄養価や美容効果も高く、たちまち獣人国で人気になった。
「その噂を聞きつけた他国の商人たちがこぞってクヌキの蜜を扱いたいと言い出してな。この国の特産物の目玉になると考えた私は、一度現物を見るために『レビオル』に訪れ、数名の部下たちとともに森に入った」
当時、クヌキの蜜は主に『アスナータ』との堺にある森にあるクヌキの木から採蜜されていた。
クヌキの木は、いくつかの場所にまとまって生えているため、皆がバラバラになって散策した。
しかしその時、デズモンドの前に一人の少年が現れたのだ。
「それが、『アスナータ』の王太子……」
「そうだヴィンス。獣人である私の姿に驚き、更にこの場所がレザナードの領土だと伝えると、彼──ロス王太子は慌てふためいていた」
「……何故、王太子ともあろうお方が、森にお一人で……?」
なんせ、王太子ともあれば、城内であってもあまり一人になる機会はないだろうに。
ドロテアの問いかけに、デズモンドは答えた。
「連日の厳しい王太子教育で城に閉じこもってばかりだった彼は、たまには自由になりたかったらしい。そして、初めて訪れたの森の散策に気持ちが高揚し、自然に魅了され、いつの間にか森の奥深くに入り、国境を越えてしまっていたようだ」
森の中に入ってしまえば、慣れた者でも迷うことがある。
初めて森に足を踏み入れた八歳の少年がどうかなんて、言わずもがなだろう。『アスナータ』の方向を教えたところで、一人で帰れるはずがない。
「何の理由もなく、他国の領土に足を踏み入れることは処罰の対象だ。……しかし、彼はまだ八歳で、領土に侵入してしまったのは偶然で悪意がないことは明白。だから私は、『アスナータ』まで送ってやると言って、王太子の手を取った」
その道中、天候が荒れて吹雪が吹き荒れても、ロスは決して弱音を吐くことはなかった。
ただ、その表情はとても暗かった。おそらく、勉強をサボった上、一人で城から逃げ出したことがバレれば、父親である『アスナータ』国王に激怒されることを恐れたのだろう。
『アスナータ』国王は国や民、家族などをとても大切に思う善良な王であったが、怒り始めると手が付けられないタイプであることをデズモンドは知っていたのだ。
「それからしばらく歩き私たちが両国の国境間際に到着すると、王太子の名前を呼ぶ声が近付いてきた。間違いなく護衛たちの声だと王太子は言っていた。だから、王太子を護衛たちのもとに連れていき、こうなった経緯を説明しようと思ったのだが……」
ロスの暗い表情を思い出し、デズモンドは足を止めた。
「もしも、隣国の国王である私がロス王太子を保護し、領土を侵した上で迷子になっていたところを救ったと『アスナータ』国王に伝われば……王太子としての責務から逃げ出した挙げ句、隣国の国王に迷惑をかけたとして王太子の罰が重たくなると考えた」
王太子の行動は、最悪の場合国際問題に発展していたかもしれない。将来王になる立場として、あまりにその行動は浅はかなのは間違いなかった。
多くの人に心配をかけ、王族という立場を正しく理解していないロスが、厳しい罰を受けるのも致し方がないことなのだろう。
「しかし、彼はまだ幼い。私は、彼を一人で護衛たちのもとまで行かせることに決めた。その代わり、彼に約束させたんだ」
『領土を侵したこと、私にここまで連れてきてもらったことは言わなくて良い。……その代わり、心配をかけた者たちには心から謝罪するんだ』
デズモンドは腰を折り、幼い少年の両手をぎゅっと握りしながらそう告げた。
そして、ごめんなさいと言いながら、わんわん泣いているロスと離れ、その場をあとにした。
「だというのに、何故『アスナータ』はそのような誤解を……」
ドロテアの疑問に答えたのは、ヴィンスだった。
「おそらく、父上が王太子の手を握り、彼が泣いているところを護衛に見られてしまっていたんだろう。そこで、獣人が王太子を誘拐しようとしていたと誤解された」
「なるほど……。更に吹雪のために陛下の顔までははっきりと見えず、獣人というところまでしか分からなかった、と……」
現在、狼の獣人は王族の血を継いだ者しかいないが、狼の獣人はよく見なければ犬や狐とも区別が付きづらいため、まさか王族だとは思わなかったのだろう。
「けれど、王太子が誤解であることを説明してくだされば、このようなことにはならなかったはず……」
ドロテアがそう呟くと、デズモンドが悲しげに表情を曇らせた。
「その通りだ。誤解をそのままにすれば自分が被害者側になれると思ったのか、もしくは一旦は否定したものの、噂が広まってしまい、最終的に認めてしまったか……」
「……それで、父上はどうされたいのですか? 理由はどうあれ、こちらの善意を悪意で返されたのです。『アスナータ』にクヌキの木の情報を教える必要は、俺はやはりないと思いますが」
「…………」
訪れる静寂。それを破ったのは、ベッドに横になって話を聞いていたアガーシャだった。
「貴方、『アスナータ』の人々を救って差し上げて。どんな理由があれ、尊い命が奪われるのは悲しいわ」
「アガーシャ……」
「それに、貴方はロス王太子殿下のことを、信じたいのでしょう?」
──そう、デズモンドは信じたかったのだ。あの日、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた少年のことを。
どうやらアガーシャには、デズモンドの気持ちなど見通しだったらしい。
デズモンドは「敵わんな……」と言って、ヴィンスに向き直った。
「『アスナータ』が我々を嫌う理由が間違いであることが分かった今、私は誤解を解き、クヌキの木の情報も与えたいと思っている」
まったくもうと言わんばかりに、ヴィンスは優しげな溜め息を落とした。そして、窓の外をちらりと見る。
「分かりました。吹雪も収まってきましたし、早急に『アスナータ』に遣いの者を送り、謁見を申請します。民たちの原因不明の体調不良について話があると言えば、さすがに無碍にはしないでしょう」
「頼む。騎士たちを引き連れては行けばより警戒されるだろうから、『アスナータ』には私一人で向う」
デズモンドは、『アスナータ』にあらぬ誤解を生ませてしまった責任の一端が自身の行動にもあると感じていた。
そのため、自分一人でけじめを付けに行くつもりだったのだけれど。
「何を言っているんですか。俺もともに行きます」
「ヴィンス……」
「父上はやや口下手ですし、この国の王は俺ですから」
「……すまない。頼りにしている」
逞しくなった息子の肩に、デズモンドはポンを手を置いた。
それからすぐに早馬を飛ばし、数時間後には『アスナータ』から謁見の許可の返答が届いた。
ベットから起き上がれないアガーシャと、そんなアガーシャの傍にいるディアナの代わりに、正装に袖を通したヴィンスとデズモンドの見送りに玄関にやってきたドロテアは、二人に向かって深く頭を下げる。
「……どうか、お気をつけて」
「ドロテア、顔を上げろ」
ヴィンスの命に従い、ドロテアは顔を上げる。
獣人を嫌っている『アスナータ』に向う婚約者が心配で堪らなかったけれど、ドロテアは凛とした眼差しで彼を見つめ返した。
「ドロテア、俺たちが戻るまでの間この屋敷のこと……たちのことを頼む。任せたぞ」
「承りました。……ヴィンス様、行ってらっしゃいませ」
再び深く頭を下げれば徐々に小さくなっていくヴィンスとデズモンドの足音。
無事に戻ってきてくれますようにと、ドロテアは心から願った。