1話『灯火に導かれ』
優しい風が、穏やかに眠る少年の頬を撫でた。 吹きゆく風は彼の白金髪をそっと揺らし、やがて木の葉をそよいで音を奏でる。
木々の音色が静かに響く中、彼は目を覚ました。 揺れる木の葉と過ぎゆく風に、穏やかに起こされた彼の目覚めは良好なもの。
「んん――くぁ……」
大きな欠伸をこぼし、晴れ渡った空にも似た深い青――紺碧の瞳に涙を浮かべる。
背を伸ばして胸を反らせば、白金髪が動きに合わせて緩く反り返る。 白金髪はそのまま柔く逆立つと、方々へと自由になびいた。
癖の強い白金髪は、どこか獅子の鬣を彷彿とさせる。
身体を解し、少しずつ意識を醒ましていく。
「――ここは……?」
目覚めるとそこは夜の森。 大きな木々に囲まれ、鬱蒼とした森の中。
夜空を覆わんばかりに伸び茂った木々の隙間からは月明かりが降り注ぎ、優しい光が寝起きの瞳を丁寧に慣らしてくれている。
どうやら雲の無い月夜らしく、欠けた円を描いた月の光が木々の隙間から射し込み、そのお陰で夜の森にしては少々明るい。
ふわりと吹きゆく風、心地よく耳に届く木の葉の囁き、優しく差し込む月の光……。
これ以上なく爽やかに目覚めた彼は、寝ぼけることなく覚醒するが……その顔色には、焦燥と困惑の色が濃く浮かんでいた。
しかし、それもその筈。 何故なら彼には――
「なんだって、こんなところで寝てたんだ……?」
――今この状況に至るまでの記憶が、まるでなかったのだから。
夢でも見てるのかと考えるが……ハッキリ醒めた意識が、そんなことはないと斬り伏せる。
「どこかの森……いや、もしかしたら山だったりするのかな……」
数分ほど唸ってはあれやこれやと考えるも答えは出ず、考えは纏まらない。
「やっぱ、助けを呼ぶのが一番だよな……けど、こんな状態でどうやって――」
額に冷や汗を浮かべ、ソワソワと落ち着きなくその場を右往左往し、ブツブツと一人ぼやく。 その忙しなさから、酷く狼狽しているのが伺える。
そんなことを繰り返していく内に少し落ち着いたのか、ここで打開策を閃いた。
「そうだ! 携帯だ! 携帯があるじゃないか!」
僅かに見えた光明に、微かに摑んだ希望に、強張っていた顔が緩んだ。 現代人ならば真っ先に頼るだろう代物を思い出した彼の声色は明るい。
早速取り出すべく身体をまさぐったところで、彼はやっと自身の現状に気が付いた。
「……なんで僕、こんなにボロボロなんだ?」
着ている服――ブレザー制服をみてみれば、至る箇所が破れて裂けて穴だらけで……それは酷い有り様だった。 特に左側は破損が酷く、左袖に至っては肩口から先がなくなっている。
いったい、何が起きたらこんなことになるというのか……。
そして何よりも不思議なのは、服に対して身体のどこにも怪我や傷跡がないこと。
「坂や崖なんかから転がり落ちて頭でも打った――んだったら、どっかに傷があるはずだよな……」
念のために身体のあちこちを両手で触ってみるが……やはり特に傷もなければ、痛みもない。
怪我もなく、傷もなく――なのに服はボロボロで、見知らぬ森で気を失っていた。
なにがどうなったら、こんな状況になるというのか……。
「……まずは助けを呼ぼう」
両腕を組んで数秒唸るも……結局わからず、思考を一度打ち切った。
わからないなら仕方ない。 今はそれより、助けを呼ぶべきだ。 この判断は間違ってはいないだろうし、なんなら冷静に行動できていると言える。
だが皮肉にも、この行動が彼をさらなる困惑へと誘っていく。
「あれ、僕の携帯ってこんなだったっけ……?」
恐らくは自身のモノだろう携帯を取り出すが……何故か見覚えがなかった。
自分のポケットに入っていたのだから、自分ので間違いない筈。 なのに何故だかその携帯には見覚えも無く、何なら今まで扱っていた記憶もない。
状況的に考えて自分のモノだろう。 携帯なんて、ほぼ毎日使っていたはずだ。 ならば記憶にないなどありえないというのに……。
そこまで考えたところで、この違和感そのものを覆すような疑問が頭を過ぎった。
「――というか……僕、携帯なんて持ってたっけ……?」
もし持っていなかったのであれば、この携帯はいったい誰のものだというのか。
仮に自身のでなかったとして、何故誰かの携帯を自身が持っているのか。
「……いや、さすがに僕のだよな」
そこまで考えて、疑念を振り払った。 こんなところで眠っていた自分のポケットに、他の誰かの携帯が入っているわけがない。
しかし、そうだとしたら別の疑問が残る。
「でも、だったらなんで僕はこの携帯に見覚えが――いや、そもそも記憶にさえないんだ……?」
気のせいや錯覚などでは到底切り捨てられない違和感は、恐怖にも近い疑念を心に植えつけた。
「っ――な、なんだ……風か」
言い表せない引っ掛かりに気持ち悪さを覚え、ゾクリと背筋が震えた時――タイミング良く、微かな風が通り過ぎた。
通り道にある草花を揺らし、さわりとした音色を奏でる。
平時であれば気にならないような音だが……それにさえ、肩を跳ねさせて大袈裟に反応してしまう。
たった一つの違和感から芽生えた疑問が混乱を誘い、この異常な事態が不安を煽っていた。
「お、おかしいな……何でつかないんだ?」
早く助けを呼びたい……せめて誰かと話したい。 文字通りに縋り付く一心で携帯に触れるが、しかし虚しくも反応がない。
「う、うそだろ……」
電源を入れようとしても、何度画面に触っても、焦りに任せて振ってみても……うんともすんとも言わない。 動く気配など、全くなかった。
気が付けば夜の森の中で遭難し、頼りの携帯は使えない。 当ても頼りも救いもない、紛うことなく絶体絶命の状況下。
残されていた微かな希望が潰え、両膝を落として項垂れる。 ついに気力を失くし、もう身体に力が入らなかった。
「せめて、時間だけでもわかれば――……ん?」
絶望に浸り、無気力に伏したままぼやいた時……またしても、大きな違和感が引っ掛かった。
「……今日って、何月の何日だっけ……?」
今日の日付が思い出せないだなんて、そんなこと早々あろうはずがない。 よしんば珍しくなかったとしても、大抵はせめて何月だったかは覚えているモノだろう。
「そもそも、今年って何年だっけ……?」
だというのに何月だったのかはおろか、年数さえ思い出せない。 先の携帯に服の件といい、日付といい……何故ここまで記憶が定かではないのか。
記憶の途切れ先を手繰り寄せて……しかし、何も掴めない。
引っ張り寄せたモノはといえば、背筋がゾクリと震えるような……得体の知れない気持ち悪さだけだった。
「……こんなとこで気絶してたんだ、少しくらい記憶が曖昧になってたって不思議じゃない……うん、不思議じゃないよな」
現状確認さえままならないというのに、この上記憶があやふやだなんて冗談ではない。 強引に自分を納得させて、一度思考を打ち切った。
どこまで記憶が曖昧なのかを自覚したら……正気を保てる自信がなかった。
「――い、今のは……?」
少しずつ精神がすり減っていく中――不意に、脇の茂みが動いた。
ガサガサという音を立て、背の高い草むらが揺れる。 まるで何かが潜んでいるかのような動きと音は、この状況下も相俟って恐怖を一層搔き立てる。
ゴクリと息を飲んだ少年は、手元に落ちていた枝を拾い上げた。
武器になんてとてもなりそうにない……せいぜい松葉杖程度の頼りない枝を、しっかと握って茂みを睨む。
じっとりとした嫌な汗が背を伝う、張り詰めた空気の中――突然、強い風が吹き抜けていった。
思わず顔を覆う程の風を受け、白金髪が乱暴に流されたとき……彼の瞳にあるものが映る。
「――光の球……?」
それは、淡く光る小さな球だった。 例えるところのホタルにも似たその光は、儚さを感じさせる仄かな輝きを放ち……宙空を流れゆく。
「ホタルの群れか……?」
どうやら先程の風に流されているようだったそれは、よくよく周囲を見てみれば幾つも飛んでいる。
風と共に運ばれゆく淡い光は、森の奥を淡く幻想的に灯して彩る。 余りに夢のような光景は、先程までの緊張を忘れさせるほどに神秘的だった。
「いつの間にこんなに……どこから来たんだ……?」
風が吹いてきた方向――背後を振り向いてみるが、特にめぼしいものは見当たらない。
強いて気になるところを挙げるなら――
「あっちは妙に暗いな……」
――こちら側に比べ、妙に暗く思えるところだろう。
彼が立っている場所を境目に、はっきりと明暗がわかれていた。 あの幾つも飛んでいる光による差なのか。
考えられることは様々あるし、懸念も疑問も一切尽きないが……今の彼には、考える余裕などなかった。
「……じっとしてたって仕方ないか」
どうせわからない場所を歩くなら、暗い道より明るい道へ……。
誘蛾灯にたかる羽虫のようだが……状況が状況なので仕方がない。
手にした枝を支えに覚束ない足取りで、淡い光りに彩られた道を進んでいくのだった……。
◆
「――なんだこれ、光る……湖……?」
淡い光に誘われるがままに歩き始め、さして時間も経たぬ頃……遂に、木々ばかりだった景色に変化が訪れる。
彷徨って、途方に暮れて、揺蕩う光を追い縋って……そうして辿り着いた場所は――不思議な輝きを放つ、湖だった。
銀色の輝きを静かな水面から放ち、その周りを幾つもの淡い光の球がふわふわと浮かんでいる。
湖面の周辺には、そよぐ風に合わせてヒラヒラと花びらを散らす白い花がチラホラと咲いており……湖と浮かぶ光と合わさって、儚くも美しくこの景色を彩る。
現実とは思えない、空想的な光景が広がっていた。
余りの光景に呆然としていると……湖の近くで、一つの影が動いたのが見えた。
「あれって、人影なんじゃ……!」
目を凝らしてよく見れば――それは、確かに人影だった。
地獄に仏とは正にこのことだと、彼は心から思った。 安堵と希望で心が満たされ、疲れが一気に吹き飛ぶ。
「おーい! そこの人ー! すいませーん!」
必死に走って、精一杯に声を張り上げて、人影に助けを求める。
もしかしたら、同じく遭難者なのかもしれないが……それでも孤独から脱出できるだけ、ありがたいと思った。
「助けてください! 僕、ここで遭難したんです!」
とにかく人と話したい。 もう恐怖でいっぱいいっぱいだった彼は、人影目掛けて駆け出した。
枝を旗代わりにぶんぶん振って、なりふり構わず助けを乞う。
滑稽さが滲み出る程に必死なその姿は、錯乱した暴漢か……あるいは人に害を為すタイプの妖精の類にでも見えそうだ。
叫んで駆け寄る内、人影がびくりと跳ねて少年の方を振り向いた。 悲痛な声が届いたらしい。
戸惑い、怯えているようにも見えるが……いきなり背後から大きな声で呼びかけられたのだから、無理もない――こんな夜の森の中ならば、なおさらだ。
人影との距離が縮まり、振り向いたことで……朧気にしかみえなかった姿がはっきりとしてきた。
みればその人影の正体は、少年と年が近く見える少女だった。 彼女は右手に変わった形状の杖を持っており、見ればその杖は先端が淡い青色の光を放っている。
湖の輝きと光球による逆光、そして手にしている杖の光のお陰で、辛うじて少女の出で立ちが見えてきた。
まず初めに眼を引くのは、黒のキャスケット帽。 白い蝶の刺繡が特徴的な帽子は、一本の三つ編みに束ねられた青みを帯びた黒――濡れ羽色の長髪と、よく合っている。
カーディガンにも似た黒い上着を肩に掛けるようにして羽織り、その下には胸元に紐状の赤いネクタイを結んだ白いブラウス。
履いているものは、裾に黄色いチェック模様が入った黒のプリーツスカート。 両脚には膝下までを包む、これまた黒の二―ソックス。
両脚にはそれぞれ黒い独特の形状をしたホルスターを取り付け、そこに白と黒の本を一冊ずつ差し込んでいる。
足には茶色いブーツと――例えるところの、女子校生のような装いだった。
「――い、いや、もうあの人しか希望はないんだ! これ以上一人でいるのは嫌だし……それに、一人より二人のが助かる確率は上がるはずだ、うん!」
正直、見た感じではとても頼りになるとは思えないが……今は選り好みしている場合ではない。 助けを求めておきながらとてつもなく不安に思うも、それを飲み下してでも縋りつく。
今の彼にとって、少女は残された希望そのものなのだから。
半ば自分勝手な葛藤を終えて彼女の方を見ると、こちらを何度も指さして何かを叫んでいた。
やっと顔がある程度見える位置まで近づいたからわかるが、その表情は真剣な――鬼気迫る表情。
こちらを警戒しているのかと思ったが、どうやら指しているのは自身より後ろ……背後のようだった。
「後ろになにか――うおおおっ!!?」
声の届かぬ訴えを受けて、振り向いた瞬間――何かが跳びかかって来た。 余りに唐突な襲撃に驚き、足がもつれて仰向けにスッ転ぶ。
見事な転倒の直後、倒れた彼の頭上を大きな黒い影が通り過ぎる。 位置が入れ替わり、湖への進路を遮られてしまった。
慌てて起き上がってその影を視界に捉えた時……身の毛が逆立つ。
「オ、オオカミ!!? なんで、こんなのがこんなとこに――というか、いつの間にここまで近くに………!」
黒い影の正体は、オオカミだった。
黒みを帯びた青い毛皮――もとい身体をよく見ると、そこには紋様にも見える赤い線が浮かび上がり、赤黒く妖しい光を放っている。
眼前の獣は外見だけならオオカミにしか見えないが……普通の種とは、明らかに異なる特徴を持っていた。
ただの猛獣でさえ追い払うのは至難だというのに……異質な特徴を持つ未知のモノに襲われればひとたまりもない。 それが、武器も知識も力もない少年なら尚のこと。
牙を剥いて低く唸り、じりじりと詰め寄ってくる。 一歩一歩と近付くにつれて、身体が震えて鼓動が早くなるのを感じた。
「く、来るな――頼むから来ないでくれ!」
半ば死に物狂いで枝を振り回す。 引けた腰で右手に持った枝をガムシャラに振り回す様は、見苦しいの一言。
しかし、こうでもしないと無抵抗で喰い殺されるのは明白だ。 例えこの行動が最適解から程遠いのだとしても、何もしないよりは断然マシといえる……のかもしれない。
「あっ――や、やった……!」
実際、この必死の抵抗が窮地を打開するチャンスを引き寄せたのだから。
闇雲に振り回した枝は、奇跡的な噛み合いを果たして鼻っ面へとクリーンヒット。 此方に跳びかかり喉笛を喰い破らんとしたところに、所謂カウンターの要領で直撃。
猛獣ゆえの優れた跳躍力が仇となり、大きなダメージを与えることに成功した。
勢いが強かったからか、直撃と同時に枝がパキりと音を立てて根元から先が折れる。 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
神経過敏だろう鼻に攻撃を受け、オオカミは悲鳴を上げて怯んだ。
跳びかかった瞬間に当たったのもあって、空中で体勢を崩してそのまま落下。 更に、すれ違いざまだったお陰で位置が入れ替わり、湖への進路も開かれている。
まさしく起死回生。 会心の一撃が手繰り寄せた、千載一遇の好機。
「今しかない!」
地に伏して喘ぐ獣に背を向けて、少年は湖へ駆け出した。 背後も見ずに、全力で。 残る体力の全てを、走ることに……逃げることに費やす。
ここを何とか凌いで湖まで逃げきれれば……逃げきれれば――ここまで考えたとき、揺れる視界に目的地である光る湖と少女が映った。
こちらへ必死に駆け寄ってくる少女を見て、少年は足を止めた。
何故せっかくのチャンスを棒に振るようなことを? などと聞くまでもない。
彼が足を止めた理由なんて、少し考えたらわかること……それは――
「って――今僕がこっちに逃げたら、あの子も危ないじゃないか!」
――至極当たり前なことに、今になって気づいたから。 こんな猛獣を背後に連れたまま、そちらへ逃げようものなら……二次被害は免れない。
武装している大人ならまだしも……彼女は小柄で華奢なうえ、背に至っては自身よりも頭一つ低い。
そんな少女のもとに逃げたところで、何とかなるとは思えない。
ここに至ってようやく気付き、急制動して向き直る。 傍から見れば無謀にしか思えぬ行動に、少女が何か叫んでいるが……今はそちらを気にする余裕はない。
「逃げるにしても、アイツを引き付けてここから離さないと……!」
少女を巻き込むわけにはいかない。 今からでもここから引き離すべく、逃げ道を変えようとするが……一足遅かった。
既に立ち直ったオオカミが、姿勢を低くして立ち塞がっていた。
先の一撃で怒りを買ったらしく、今にも襲い掛かって着そうな激しい剣幕で唸りを上げる。 心なしか、赤い紋様の輝きも先程よりも強く見える。
野生の殺気に圧されるが……ここで怯えて、少女もろとも喰われるわけにはいかない。
今にも挫けそうな心を奮い、僅かな勇気を揺り起こす。 左手に微弱な熱が灯ったような感覚がしたが――今は、この状況に集中すべきだ。
なんとか状況を打開するべく、せめてもの抵抗を試みる。
「くっ――そこを退けぇ!」
折れた枝を力任せにぶん投げる。 単純で自暴自棄にも見えるこの行動が……仇となった。
「あっ――」
まるで予見していたかのように、オオカミは姿勢を低くして掻い潜り、躱して見せる。
最小限の動作で避けつつも己が牙の間合いにまで詰める姿は、ただしく野生の狩人そのもの。
猛獣の身体能力に、人間が到底ついていけるわけもなく……。
投げた直後の前傾姿勢のまま、隙を晒す少年の喉元目掛け、跳びかかった。
獰猛な牙を携えた口をガパリと開けて、容赦なく迫り来る。 牙は寸分違わず喉笛へと肉薄し……数秒も経たぬ内に肉を穿って喰い破るだろう。
「――――」
死を覚悟する、時間さえなかった……。




