プロローグ
山々の稜線に陽が沈む。空気中に滞留する魔素が陽光の最後の煌めきに反応し、赤や緑など様々な色合いの輝きを空に映し出す。その中を紫雲が風に吹き流されていく光景は、まさに幻想的。超自然的存在が、大空をキャンバスとして描く芸術かの如く荘厳であり、どこか前衛的な色合いを帯びた美麗な風景だった。
そんな心洗われるような景色に、アレスは見惚れていただけだったのだが……。
見上げていた視線を下へと向ければ、そこにいるのは薄手の扇情的な衣服を纏った小柄な女性が――いや、赤い髪に派手目の濃い化粧をしているものの、どこからどう見てもそこにいるのは十代前半のまだ幼い少女。紅をひいた口元を尖らせ頬を膨らませた仕草にも、まだ幼さが残っているようにも見える。だが、その口中から発せられる言葉は、
「物欲しそうな面して、通りでぼおっと突っ立ってんじゃねぇよ!」
と少女らしからぬ乱暴な口調の、かなり辛辣なものだった。挙句によほど腹にすえかねたのか、アレスの脛を蹴りつけ「ばーか」と捨て台詞を残し走り去っていく。
今は防御系の装備を身につけているわけでもなく紺色の作務衣のような作業着だけなのだが、幸いな事に物理防御力に影響を与えるVIT値がそこそこ高いためか、それほどの痛みはない。が、少女の突然の行動に唖然とし、アレスは脛をさすりながら顔をしかめるしかなかった。
――何なんだよ……まったく。
自然と、アレスの口からため息混じりのぼやきもこぼれ出る。
そもそもが、最初に声を掛けてきたのは少女の方だったのだ。
「お兄さん、お花を買わない」
となんとも媚びた態度で、最初は可愛らしく言ったものだった。が、アレスもこの世界で暮らし始めて半年。この港町に流れ着いてからも、一ヶ月近い。少女の言葉を、額面通りに受け取れない事も良く分かっていた。
花売り、それは裏通り界隈で交わされる隠語。いわゆる街娼と呼ばれる春をひさぐ女性たちが、客引きの際に使う言葉だった。
もとよりアレスも男性。その筋の女性に声を掛けられて心がざわつかない訳でもない。例えば、これが経験豊かな妖艶な女性で、アレスにしな垂れかかりつつ「お花を……」などと甘い吐息と共に言ってくれば、心揺れることもあったかも知れない。だが、さすがに十代前半、十二、三歳程度の容姿に見える少女には、アレスなりの倫理観が邪魔をして食指も動かない。というよりも、元々がこの裏通りに来たのも女性目的ではなかった。商売のため、仕事をするために裏通りにやって来たのである。
アレスの背後、通りの辻の端には小型の簡易魔導炉や鞴などが、道具箱と共に置かれている。これらの道具類を天秤棒で担ぎ、「いかーけー、なべー、かまーのしゅーり、しゅーぜん、はものとぎー、ござーいませんかー」との掛け声で通りを触れ回り、鍋釜などの修理を行う鋳掛仕事や包丁などの刃物研ぎ仕事などを受注して廻るのだ。
店を構えるでもなく、時には辻々で敷き布を広げて仕事を始め、或いは家々の軒下まで出向き修理修繕研ぎ仕事を行う。要は素人に毛が生えた程度の鍛冶士、または流しの修繕職人といったところであろうか。
街の住人からすれば、鍋や釜といった生活必需品とはいえ金属加工品は値段も高く、おいそれと買い換える訳にもいかない。かといって僅かなひびが入ったり、ちょっとした穴が空いた程度の痛みなどで、通りに店を構えるような鍛冶屋に修理を頼むのも気が引ける。それに修理とはいえ、正式に鍛治ギルドに登録しているような鍛冶士に頼むにはそれなりの金銭も取られる。中には「鍋の修理なんぞ出来るか!」と鍛冶士の誇りを穢せるかとばかりに、怒鳴り声と共に追い返す頑固親父的な鍛冶屋も多い。
そんな訳で、街中の通りを掛け声と共に流して歩く修繕屋は、意外と住人たちからは喜ばれる存在なのである。もっともアレスの場合は、日常生活で使う魔道具の修理、細工物のアクセサリーやちょっとした薬類などの小売りまでしていたので、さらに住人たちからは重宝がられていたりする。
少女から声を掛けられた時も、朝からこの地区の通りを鋳掛仕事で回り、しかも夕刻となって「今日の仕事も終わりかな」と背伸びをして凝った体を解していた時だった。それは通りの真ん中で夕陽を眺め一日の終わりを、仕事終わりの充実感を噛み締めていた時でもあり、少女の見た目のまだ幼い容姿と相まって、とてもではないが艶めいた気分になれるものでもなかった。
アレスは顔をしかめ無言のまま顎先で、くいっと背後の道具類を指し示す。昼間からずっと近所の奥様連中相手に愛想を振りまいていたのだ。少しぞんざいな返答になるのも無理はなかった。
少女はというと、促されるままアレスの後ろへと視線を向けると、そこでようやくアレスがこの通りにいる理由、鋳掛屋だと気付く。そして、途端に真っ赤に頬を染めて顔を俯かせた。
これが経験豊かな街娼であるなら、自分の勘違いに気付いた時点で「どう、仕事終わりに遊んでいく」とからかい半分に話し掛けるぐらいの事はするだろう。しかし、この少女は見た目からも分かる通りに、街娼としてはまだ駆け出しに近い。男性相手のあしらい方も経験不足なのは明らか。自分が客筋ではない見当違いの男性に声を掛けた事に気付き、恥ずかしさが先に立っているのだろうと、アレスにも容易に察しがついた。が、だからといって、会ったばかりの彼女に気を使う義理もなければ関係すらない。
まだ幼い身の上で娼婦のような仕事に就いている事に興味や憐憫の情を覚えるも、ここは低所得層の住民が集まる街区。通りに連なる家屋も安普請で建てられたものばかりだ。いわゆるスラム街と呼ばれる場所でもある。似たような境遇の者は、それこそそこら中に掃いて捨てるほどいる。そんな者たちに、いちいち関わる気にもなれない。だから、彼女には彼女なりの娼婦となった理由もあるだろうと、アレスは無言のまま肩を竦めるのみにとどめた。
その後は恥ずかしさにぷるぷると震える彼女から視線を逸らし、もう一度夕陽に目を向け、
「さて、今日はもう道具を片付けて帰るとするか」
と呟きつつ背を向けようとした時に、少女からの暴言だったのだ。
目の前から走り去る少女を見送り、
「マジか、逆ギレかよ……ありえねぇだろ」と、そんなぼやきも飛び出る。
――そういえば、昔付き合ってた彼女もこんな感じだったような気がする。
些細な勘違いではあったが、他の場所で披露しても困るだろうからと柔らかく指摘するも、有難がるどころか反対に逆ギレして大喧嘩になったものだった。
当時の彼女の顔すら思い出せない、過去のもはや霞んだ記憶。何故か、お互いを罵り合うそんな場面だけが唐突に思い浮かぶ。
あの頃は、
――こんなややこしい女とは、もうこれ以上は付き合いきれない。
などとよく嘆いていたものだった。
今から考えると、あれは照れ隠しの末の行動。ある意味で彼女の可愛らしい一面だったのかも知れないと、思い直すアレスであった。が、少女が走り去った方向へと目を向け、
「笑って許してやれる度量があれば……いや、それはないかぁ」
と昔の彼女に向けたものか、走り去る少女に向けたものか、自分でも分からない呟きをこぼした。
断続的に蘇る記憶。
その郷愁、或いは現状からもたらされる不満からか、こんな慨嘆も口にする。
「現実になったこの異世界は、本当に嫌になる」と。
そう、アレスには人に言えない秘密があった。
それは――――こことは違う世界で生きていた記憶。
自分の名前すら思い出せない曖昧模糊とした断片的な記憶だったが、はっきりと思い出す事が一つだけあった。
ここが、この世界が、前世というには微妙な記憶の中で遊んでいたゲームの中だという事を。
妄想が生み出した夢のような思い出。だが、アレスにとっては、それこそが現実の出来事であり、この世界で生きている事こそ夢のようにも思えるのだ。
この美しい夕焼け空、それどころか、今走り去った少女にさえ、どこか違和感を覚え非現実感が伴うのであった。
そして、アレスがこのような妄想ともいえる感覚を抱えるようになった、そもそもの始まりは半年前からの事だった。




