第17話 彼女の記憶
幼少の頃、司の記憶に残る母親は優しい笑顔を浮かべる人物であった。
司のお気に入りのぬいぐるみが破れてしまい泣いていると、すぐさま飛んできて直してくれたし、おやつの時間には甘い紅茶やケーキを準備してくれた。
一方、彼女の父親は母親と対照的に厳格な人物であった。記憶の中の父親はいつもスーツを着ており、家にもあまりいなかった。
そんな父親ではあったが、母親が父親のことを良く言い聞かせていたこともあってか、司は仕事のできる父親のことを尊敬していた。
父親は司と一緒にいるとき、頻繁に仕事のできるたくましい人間として生きていくようにと言い聞かせていた。
「生きることに真剣でなくちゃあ、司もあんな人達みたいになっちゃうぞ」
父親はよくテレビに映る犯罪者や生活に困窮した人々を指さしながら笑っていた。
何気ない会話のつもりだったのだろうが、その言葉は司の心の中に強く刻み込まれていた。彼女は今でも時折、笑いながらそう言う父親の姿を思い返すことがあった。
夢の中での映像はそこで途切れ、今度は司が中学生であったころを写しだした。
「何度言ったら理解するんだ!」
司の母親が父親に怒鳴られている映像が浮かび上がっていた。それは司が中学生の頃からよく見る光景であった。中学生であった彼女に、そのケンカの理由は分からなかった。
ただ記憶の中の父親は、何かと母親に対し「トロイぞ!」「なんて駄目なやつだ!」と罵声を浴びせていたことを覚えていた。
何故あんなにも怒るのだろうか。
司は一人部屋にこもり、怒声が聞こえるたびに体を震わせていた。
しばらくして静寂が戻ると、司は部屋を出て様子を見に行った。
リビングでは母親が一人シクシクと泣いていた。
「お母さん……大丈夫?」
司が声をかけると、母親は涙をぬぐい、いつもの笑顔を司に向ける。
そんな母親を見て、司はいつも心配になった。
だがその一方で、司の心の片隅には別の感情が湧き上がるのを感じていた。
――なんて……なんて哀れなお母さん。
父親からの教えのせいであろうか、司は母親のことがひどく弱い存在に見えると同時に、叱られて当然な人間だとも感じていた。
――もっと頑張れば怒られないのに……
そのころから、司は家に帰るとすぐに部屋へと向かい勉強をするようになっていった。
高校受験を控えていたというのもあるが、彼女にとって一番の理由は部屋に逃げ込みたかったというのが大きかった。
勉強をしていると、夜中でも怒声の聞こえことがあった。
そんな時、彼女は英語のリスニングの勉強をする。イヤホンをつけ音量を大きくすることで、彼女はひたすら怒声を聞かぬようにした。
――仕事のできる人間にならなくてはならない。勉強をしなくてはならない。
次第に彼女が家族と会話をする機会は少なくなっていった。
高校になっても、彼女のその習慣は続いていた。
その頃になると、父親の怒声の聞こえてくる頻度が上がっただけでなく外から騒々しいバイク音も聞こえるようになっていた。
どうやらこの町一帯を走りまわっている暴走族は、司の家の近く、丘を下った先にある大型スーパーの駐車場をたまり場としているようであった。
父親は頻繁に窓から外を見ては険しい表情をし、警察やスーパーに苦情の電話を入れているようであった。
「あの出来損ないの屑どもめが」
苦虫を噛み潰したような表情でそう吐き捨てる父親の姿は、今でも鮮明に思い浮かぶ。その光景を思い出すたびに、司はひどく悲しい気持ちになっていた。
再び夢の中の映像は途切れ暗闇に包まれた。
酷く悲しく、胸が痛む。このままずっと、暗闇の中に沈んだまま、静かに眠りたい。
夢の中の彼女は眠る。
やがて司は息苦しさに目を覚ました。
ベッドから上体を起こし辺りを見渡すと、部屋の中が真っ赤な炎に包まれていた。
もうもうと立ち込める煙に咳込みながらも、必死に冷静さを保とうと努めた。
「そうだ、お父さん、お母さんを探さないと」
司は近くにあったタオルを手に取り口元に当てると、身を低くして部屋から這い出た。
彼女の背後では、ぬいぐるみや写真立てに火の粉が飛び移り炎上を始めていた。
部屋を這い出た彼女の目に映るのは、轟々と燃え盛る炎と赤く照らされた煙ばかりであった。
もはやどこに何があったのかさえも分からぬ空間を見て、司は愕然とした。
父や母の部屋があった場所も炎や煙に遮られ視認出来なかった。
大声で呼びかけてみても、声は届いているのかさえ分からなかった。
強烈な喉の痛みに堪らず咳き込んだ司は、頭がぐわんぐわんと揺れるのを感じた。逃げなくては。本能がそう叫んでいた。
司は必死に逃げようと床を這った。
だが、司の急激に意識は遠のいていった。司は数メートルも進まぬ内に動けなくなっていた。
「なんで……どうして、こんな……」
何故死ななくてはならないのか。自分の何がいけなかったのか。
薄れゆく意識の中で、司は今までの思い出を振り返った。これいといって特別なことのない、平凡な人生。
悪いことをしてはならぬと育てられ、短い人生ながらも人に迷惑をかけることなく、それなりに努力を積み重ねて生きてきたつもりであった。
そんな人生であったが、それも今すべてが無に帰す。
闇に深く沈んでいく感覚と共に、強烈な孤独感が心を包んでいく。
怖い。怖い。
その感情が原動力となってか、司は微かに残った力を振り絞り、声を発した。
「死に……た……く……ない」
天井が崩れ落ち始めた。もはやいくら助けを呼んだところで、外に救助が駆けつけていたところで、それは無意味であった。
司の瞳から、光が失われていった。
だがその時、司は心地良い感覚に包まれた。
そして、瞳の端に映る満月の方角から、何かがやってくるのが見えた。やがて眼前にやってきたそれは、柔らかな笑顔を浮かべて司を見下ろしていた。
綺麗なウエーブがかった髪に、幼き日の母を思い出させるような優しい笑顔。
その背中には大きな二枚の灰色がかった翼が見て取れた。
「……天、使?」
天から降り立ったそれを見ていると、心の底から安心を得ることが出来た。張りつめた緊張や恐怖から解放された彼女はそのまま意識を失った。
それからどれほどの時間が経ったのだろうか、司の耳に微かに人の声が入ってきた。
「大丈夫か!」
「しっかりしろ! 今助けるからな!」
必死な表情で声をかけ、司を覗き込む人々がいた。
司は担架に乗せられ運び出されていた。大勢の人々に囲まれ、司は救急車に乗せられたのだと分かった。
父親や母親はどうなったのだろう。同じく助け出されたのだろうか。
そんなことを思い浮かべながらも、頭は思うように働かなかった。
ただ「助かったんだ」という気持ちを噛みしめながら、再び司の意識は途切れた。
再び司が目を覚ますと、そこは病院のベッドの上であった。
医師や看護師の説明によると、どうやら一晩だけ眠っていたようであった。
幸いなことに、司は怪我一つない状態でありすぐにも退院できると医者から驚き交じりに説明された。
「あの……」
司は両親のことを切り出した。途端に医師や看護師の表情が曇るのが見て取れた。
司の両親は死亡していた。
火事から逃げ遅れたようで、二人とも寝室内で遺体となって発見されたとのことであった。そして、その火事の原因は放火であるとのことであった。
司はあまりのことに呆然としてしまった。ついこの間まで、司はいたって普通な生活を送っていたつもりであった。当然思い返そうとすれは、鮮明に父親の声も、母親も笑顔も、簡単に思い返すことが出来るのだ。
司は頭がふわふわとしたような感覚の中、まるで現実感を感じられず、思考が働かずにいた。
そんな司を見かねてか、医師は司を元気づけようと言った。
「――大丈夫。私も皆も、多くの辛いことを乗り越えて生きてきたんだ。君もきっと乗り越えられるよ」
その日から、司は周囲の人々から同情の目を向けられるようになっていた。
そこそこ大きなニュースにでもなったのだろう、皆口々に「可哀想に」「どうやって生きていくの?」と噂しており、それらの会話は司の耳にも入ってきた。
「うるさいわね……」
夕方、病院の屋上庭園で遠くを見ながら司は呟いた。
既に日は落ちかかり辺りは薄暗くなっており、周囲には他に誰もいなくなっていた。
「可哀想だったら、何かしてくれるっていうのかしら」
自身がどん底に落ちたのだと実感していた司は、これからの人生を如何に生きていけばよいのか分からなくなっていた。
パートをして生きていくのか、それとも大学になんとかして進学するのか、いずれにしても金銭の問題は避けて通ることは出来ない。
それに、これからは一人で生きていかなければならない。子供一人でこの社会を生きていくことがどれだけ難しいことか想像に難くはない。司は、もはや自分の人生は、かつて父親があざ笑っていた様な人間と同じようなものになるのだと、そう感じていた。
たった一日の出来事で、今まで見えていたはずの将来への展望が一瞬で暗闇へと消えてなくなってしまった。
「きっと『同じように不幸な目にあっても、必死に生きている人だっている』とでも励ましてくれるんでしょうね」
司は大きくため息をつき、わずかに滲む涙をぬぐった。
屋上から見える街はいつものように活動を続けており、暴走族は平然と大きな音を立てて走り回っていた。
「……ここでも、穏やかには過ごせないのね」
放火の犯人はあの暴走族であろう。父が邪険に思い、何度も通報を繰り返していたことで逆恨みをされたのだと司は察していた。
バイクの騒音は次第に大きくなっていった。一層考えはまとまらなくなり、頭はズキズキと痛みだした。
何故自分がこのような目に合わなければならないのか。自分が何をしたというのか。
答えのない疑問が頭の中をぐるぐると周り、まるで思考する脳が自分を責めたてているかのように激しい頭痛を覚えた。
バイクの騒音が大きくなるにつれ頭痛は激しさを増していき、募る苛立ちで頭がどうにかなってしまいそうだった。
「乗り越えられない試練は与えない……なんて言われるのかしら? フフッ。こんな世の中に、神様なんていやしないじゃない、都合の良いことを言って。自分が正しいのだと説教をしたいがために、私が間違っているのだと言いたいがために、正論ぶって、苦しみを与えるために、そう言いたいんでしょうね……」
気が付けば、司の周りには黒い灰が雪のように降り積もっていた。
日も落ちており、辺りの床はみるみる黒く染まっていった。
やがて司は、苛立ちを吐き出すように呟いた。
「……この、出来損ないの屑どもが」
その瞬間、周囲の黒い灰が司の目の前で集まると人の形を形成した。
その姿はまさに、あの時、燃える家の中で見た天使であった。
翼を広げた、髪の長い美しい女性の姿をしたそれは司の頬を撫で、笑いかけた。
それは髪を含めた全身、眼球に至るまでの全てが灰色一色をした異形の姿であった。だが、司は不思議と恐れなどは感じず、むしろ旧友と会ったかのように心が通じ合うのを感じ、安らぎを得ることが出来た。
司もその手を取り、そして笑った。
言葉を発せずとも、司には彼女の意思が伝わってきた。
「……そうね。私も愛しているわアンジェラ。救ってくれたのは貴女だもの」
数日後、彼女は退院した。




