第六章 狂乱
僕が学校を去ってから二時間半ほどたった。
そして僕はまた二時間半ぶりにもとの場所に戻ってきたのだ。
しかし、そこはもう僕にとって元の場所と呼べるような代物ではなかった。まるでこの学校全体が僕のことを拒否しているのではないかという感覚さえしたのだ。もうここに僕の居場所はない。それは僕自身が決めたことだ。後戻りはできない。
僕は三組の教室に入ると他の生徒はおらず、ただ外の景色を眺めている真琴の姿があった。
真琴は「やあ木葉。きっと戻ってくると思っていたよ。簡単さ。君の荷物が置き去りだったからね。もう授業は終わったよ。今更なんの用事があって戻ってきたのかな?」とこちらを向いて両手を広げながら言った。真琴の目はもう一年前の彼のそれとはまったく異なっていた。彼の瞳はの奥は漆黒に染められ、希望の光の一縷さえそこには見つけることが出来なかった。一体この世の何が彼を変えてしまったのだろうか。
「話をつけにきた。真琴や拓也、莉愛と僕、この四人はいつの間にか散り散りになってしまった。今ではもう修復不可能なほどに。でも、どうしてこんなにも距離が離れてしまったんだ?原因は分からないけれど、きっかけは真琴だった。真琴が暫く姿を消している間に僕らはバラバラになってしまった。何が真琴を変えて僕たちはバラバラになってしまったんだろうか。」と僕は言った。
すると真琴はメロスが走った速度よりも早いスピードで、それでいて鬼のような形相で彼の左手が僕の胸倉につかみ、もう片方の腕が僕の頬を殴りつけた。何度も何度も。殴りつけた時に発生した音は鈍く、重たくこの教室の中を響かせた。
「ふざけるな!変わったのはお前の方だ。お前は莉愛のことを自分だけの駒にしようとしてた!莉愛の気持ちがお前の方に向いていたのを良いことにだ!お前は莉愛を利用したんだ。知っていたんだろ?田村大地や高木轟や、中川樹里達が何をしていたか。お前と一緒に居た橘亜実は疫病神だ。橘は中学時代からいじめを受けていた。高校一年生から不登校だったのもその理由だ。橘は中川樹里の同級生の辻広香と同じ中学だった。そして広香は橘のことをいじめていた。自殺に追い込む程の傷はつけず、それでいて死ぬまではいかないが どこに向けたらいいか分からない苦痛を少しずつ、彼女に蓄積させていった。それは彼女の人格を根底から組み替えていったようだった。」
真琴は一度深呼吸をして僕と同じ目線で僕と向き合った。
「高校二年になってから橘はなぜか登校するようになった。当然同じクラスの辻広香からいじめが再開されるはずだった。しかし、それは実際そうならなかった。何故だかお前には分かるよな。お前の存在が橘を守ったからだ。しかしそれは同時にもう一つの意味を持つことになる。」
「分からない。」と僕は言った。
そうするとまたその重い拳が僕の顎あたりに炸裂した。僕にはもう抵抗する力が残っていなかった。
「お前は莉愛を裏切ったんだ。莉愛は今辻広香だけじゃなく、田村大地や中川樹里からもいじめを受けている。それはお前が途中で投げ出したからだ。僕たちが四人で一つになっていた頃、お前は、木葉は立派に僕たちを守っていた。そしてカーストという下らない仕組みに立ち向かっていた。だから僕たちは誰も傷つかなかったし、僕たちはありのままの僕たちのままで居られた。だけどお前は途中で投げ出した。投げ出した挙句、僕たちを地獄の底にたたきつけた。お前はくずだ。」
と吐き捨てるように僕の胸倉を離してどこかに行ってしまった。
僕はただその場で呆然としていた。僕たち四人が一つだったときはお互いが何を考えて何を求めているのか、手に取るように理解していた。
しかし、僕たちはいつの間にかそれぞれが道を間違えてしまったのだ。
あるいは真琴か、僕が道を間違えたのだ。僕が莉愛を裏切った覚えなんてないしそんなつもりもない。
でも、一つだけ明確な事実が分かった。亜実は中学時代からいじめられていた。
亜実はぼくと会った頃から心の傷を抱えていたのだ。だから亜実は学校に戻ろうとしなかった。
亜実の瞳は無知ゆえに澄んでいたのではなく、この世の悪を知ったが故にこの世のあらゆる事象から発生するカオスとの繋がりを断ち切ったことで彼女の純粋さを保っていたのだ。でもそんなことは長くは続かないだろう。それは僕の手で終わらせる責任がある。もし真琴の言う通り僕が莉愛を裏切ったというならば僕は亜実のために裏切ったのだろう。そうであるならば、まずは亜実を助けなければならない。逃げるんじゃなくて戦うのだ。そしてそれが終わったら次は莉愛を助ける。僕にできることは全てやらなければならない。それが僕の宿命だ。
僕は教室を出て屋上に向かった。僕にはまだやらなければならないことが残っている。そしてそれは直ぐに解決しなければならないことだった。屋上はフォークソング部の練習場の一つだ。莉愛はいつもそこでギターを鳴らしていた。今日もそこで居るはずだ。僕は彼女と話すべきことを話さなければならない。真琴が居なくなってから莉愛はまるで霧隠れのように姿を薄くさせてしまっていたのだ。莉愛はそれから生気を失い、そこに居てもまるで存在が消えたようにふわりふわりとしていた。それは偶然ではない。きっと何かがあったはずなのだ。それは真琴が言っていたことなのかもしれない。とふと思った。
僕が屋上に着くとまぶしい日差しがまるで人間を嫌っているかのようにじりじりと照らしていた。さっきの雨はどこに行ったのだろうか。
前を見ると莉愛が居た。莉愛だけじゃない、そこには莉愛を囲むように中川樹里、田村大地、辻広香が立っていた。
「高橋さんって近江と付き合っていたんですってね。ラブいね~。でも誰かさんが近江の浮気をばらしちゃってあなたの株は大暴落よ。可哀想に。」と辻広香が言った。
「木葉はそんなこと絶対にしない!何かの間違いよ。それにあたしは木葉と付き合ってない。」と莉愛が言った。
莉愛は怯えた瞳をちらつかせ、それでも負けないように勇気を振り絞って立ち向かうような表情をしていた。ここで僕は初めて莉愛に悪いことをしたと感じた。例え僕が何もしていなくても勝手な噂で莉愛を巻き込んでしまったのは事実だ。
「そんなこと言ってももう噂は学校中の広がってるよ。それを証明したいなら近江を連れてくることだな。おっと、噂をすればのこのこ来たようだな。」と大地が言った。
莉愛は驚いた顔をしてこちらを見た。僕は多分怒りの顔をしていたと思う。莉愛は涙を流していた。状況はつかめないけれど莉愛は涙を流している。それはこいつらのせいだ。僕は大地の真正面に立って言った。
「証明してやるよ。お前たちが全部仕組んだんだろ。それもより巧妙に。お前たちはまず、僕たちにとって悪い噂をしたり陰口を言って回っていた。それは一年生の時に嫌という程感じていた。あの体育の時間の時にそれは決定的になった。それからお前たちはじっくり僕たちを追い詰めた後にあの文字を黒板に殴り書きをしたんだ。そして全てはお前たちの思い通りにいった。これで満足か。趣味や道楽のためにやったならお前たちは狂人の類だ。」と僕は言った。
「間違いがある。お前たちの立場を壊したのは俺たちじゃない。東雲真琴だよ。東雲は高橋さんのことを好いていたんだよ。俺らが今までちょっかい出して悪かった、ってはったりをかましたらよくもまあべらべらと喋ってくれたよ。東雲は近江のことが邪魔だと思っていた。俺たちはそこを突いたんだ。じゃあ東雲は従順に働いてくれたってわけだ。そのおかげで随分手っ取り早く事が片付いた。」
僕はそれを聞いた直後、無意識のうちに僕の拳が大地のこめかみに向けられて放たれていることに気が付いた。しかし、それも空中で大地の手に阻まれ逆に腕がつかまれる構図になった。運動部の大地には体格的にもかなうはずがなかった。それでも僕の口はまだ塞がれていない。僕は決死の覚悟で立ち向かった。この際、カーストなんてものはもう関係ないし気にする必要がないのだ。
「お前たちのやっていることは犯罪だぞ。いじめなんかして何が楽しいんだよ。こんなことしても誰も幸せなんかならない。」
「俺たちがいじめ?人聞きが悪いな。俺たちは普通に学校生活を過ごしたいだけだよ。そのために俺たちにとって邪魔なものを排除するのはいじめじゃない。弱い物が負けて強いものが勝つ。それだけだ。」
「嘘をつくのが上手い人は嘘をついたことさえも嘘にしてしまう。お前たちはそうやって嘘をついてたくさんの人たちを馬鹿にして生きてきたんだ。そこにいる辻広香は亜実のことをずっといじめてきた。亜実は今でも苦しんでいる。お前たちに亜実の気持ちが分かるか。莉愛の気持ちが分かるか。分からないだろう。お前たちに今それを味わせてやる。」そう言って僕はまず大地にとびかかった。
僕は必至の覚悟で攻撃に移ったので大地の不意をついてマウントをとることに成功した。僕は真琴が僕を殴ったように大地を殴った。殴っているのは僕なのに僕の拳は痛かった。真琴もきっと痛かったに違いない。
しかし、大地は直ぐにそれを振りほどいて僕を突き飛ばした。そして今度は僕がマウントを取られ殴られた。僕の一発の重みと大地の一発の重みとはわけが違う。僕は顔面を殴られて意識が飛びそうになった。目の前の視界が悪くなってきた。辻広香や中川樹里の笑い声が聞こえてくる。何が楽しいのだろうか。僕はただされるがままに殴られ続けた。
「おい何してんだ。」
そんな時屋上の入り口の扉付近から声が聞こえた。大地の手が止まって僕はその人物を視界に捉えることが出来た。声の主は轟だった。
「轟!練習はどうしたんだよ。今日は休みかー?」と大地が微笑みながら言った。
「おい大地これはなんだよ。」
「何って。俺たちに逆らったらどうなるかを教えてたんだよ。」
「ふーん。じゃあ俺が代わりに教えてやるよ。」と言った瞬間、轟の腕が伸びて大地の頬に突き刺さった。そして大地はその力で体ごと柵の近くまで飛んで行った。
「何しやがんだよ!」と大地は言った。
「うんざりしてたんだよ。大地、お前は人を馬鹿にし過ぎた。お前は一度頭を冷やしな。」と轟は腕を組んで言った。
そして、
「木葉、今までお前たちが追い詰められるのを見て見ぬふりをして、その場の空気に乗って結果的にお前たちを追い詰めるようなことをしてすまなかった。これからは自分の正しいと思うことをしようと決めたんだ。だから、許してくれとは言わない。これから俺がお前たちといい関係を築くために俺が努力する権利をくれ。」と轟は頭を下げて言った。
「頭を冷やすのはどっちかな。」
そう言って大地はホースを取り出して水を振りかけた。僕も莉愛も轟もまとめて水浸しになってしまった。莉愛の制服が水で透けるとブラの形が浮き彫りになって目のやりどころに困った。
「莉愛、僕が守れなかったせいで莉愛に怖い思いをさせてしまった。本当にごめん。」と僕は言うと莉愛は女神のように慈悲深い微笑みで答えた。
「ううん。木葉のせいじゃない。きっとこれは誰のせいでもないんだよ。だからあたしは大丈夫だよ。今木葉が来てくれただけで十分だよ。それに木葉は亜実ちゃんを守った。それだけで立派なことだよ。だからね木葉、これから先何があっても亜実ちゃんのことを守ってあげてね。」と莉愛は言った。
僕は大きく頷いて雄たけびを上げて大地に飛びついた。
「轟!今のうちに莉愛を!」と僕は精一杯の声で轟に言った。
轟は頷いて莉愛を屋上から連れて行った。その時轟は樹里に向かって「樹里、もう俺はお前のことを何も信じられねえ。どっか行ってくれ。」と言った。
すると、轟と莉愛が屋上から出て行ったと同時に樹里は泣き崩れた。
「どうして?私は何もしてないじゃない!誰もいじめてないし誰も馬鹿にしてない。ただ一緒に居たやつがいじめてただけじゃない!」と樹里は泣きじゃくりながら子供のように喚いた。
「お、おい。こんな時に泣くなよ。広香、樹里の介抱してやれよ」と大地が言うので仕方が無くといった感じで広香は樹里に触れようとした。その時、樹里は広香の腕を払って広香の頬をビンタした。
「なにするの!?」と広香が言っても樹里は聞かなった。
「あんたが全部悪いんじゃん。あんたがこんな奴らを相手にいじめてるからこんなことになるんじゃん。どうしてくれるのよ!」
「そんなの知らないし!」
と言って二人は取っ組み合いの喧嘩になってしまった。
僕と大地はそれに圧倒されて何もすることが出来なかった。これが僕の求めていた答えだったのだろうか。これが僕の恐れていたカーストの全容だったのだろうか。
そう思うと今まで悩んでいたことが全て馬鹿らしくなった。そして、全ては亜実の言った通りだった。
学校で行われている日々の小競り合いや仲間はずれなんて全て無意味なんだ。
僕は「もういい。」と言って屋上を後にした。残されて行く大地は呆然としていて、瞳は漆黒の色をしていた。
この世界にもう未練はない。僕が長年の間恐れ続けていたカーストがこんなちっぽけなものだなんて思いもしなかった。もうこの世界に居る理由は無いのだ。それに、ここに残っても真琴と莉愛と拓也との繋がりももう元通りにはならない。
僕は全てやり終えたし、全てを知った。
この世の生は人によって大きさも違うし感じ方も違うだろう。問題は僕たちがどう捉えるかだ。
僕は学校の中のカーストというものに振り回されていた。
僕が頭の中に拵えていた世界はほとんどちっぽけな物だったのだ。
それに気づいた今、僕は学校に居る理由は無い。
後は完全な世界に行くだけなのだ。
亜実と僕の二人で。




