第五章 無回転
僕と亜実が教室に戻ると教室に居た全員がそれぞれの活動をやめて一斉に僕たちの方を向いた。
彼らはまるで授業中におしゃべりが五月蠅くて怒鳴られた時みたいに静かになって背筋を伸ばして、首筋動いて、顔が僕たちのほうに向けられていた。
教室の中はまるで空気を抜かれた真空管のように異常な静けさを生み出していた。
その静けさは夜の街も、眠っている意識の中もかなわない程のものだった。もし、この瞬間にクラッカーが鳴らされたならここに居る全員の心臓が跳ね上がることだろう。
なぜ?どうして?今は休憩時間のはずだろう。こんな僕たちに何か注目することなんてないはずだ。そう思って問いかけるように僕はみんなの顔を見た。にやにやしている人、強ばった顔で、それでいて目の焦点が合っていない人、睨み付けている人、みんなそれぞれの感情を表情という形でむき出しにしていた。
とりあえず落ち着いて今何が起きているのか、なぜこうなっているのか考えなければならない。僕は落ち着きたいときは心の中でおまじないを唱える。これは夢。これは夢。これは夢。こんなことはありえない。でも、何回唱えても駄目だった。僕は彼らからの視線に耐え切れず下を向いてしまった。
その時亜実は僕の肩を叩いて黒板の方を指さした。そこには
「五組の近江木葉は橘亜実と二組の高橋莉愛を二股にかけながらまた別の人に手を出そうとしている」
とチョークで大きく殴り書きのように書かれていた。
また同じクラスになった田村大地が真っ先に「木葉、まじかよ。体育の成績だけじゃ飽き足らず人生の成績まで落としたんだな。」と言って指をさしながら笑っていた。
中川樹里は怒りの表情で睨み付けていた。
同じクラスの辻広香は「嘘でしょ...」と言って口に手を当てていた。
拓也は頭を抱えてぶつぶつ言いながらうつむいて震えていた。彼のそんな姿は見たくなかった。
教室内はまるで嵐が来たときの森林のようにざわざわと喚いていた。
「別の人って誰だ?」
「木葉ってそんな奴だったんだな。」
「生きてる価値ないわ。」
「謝罪しろ!」
ざわざわ、どの声も耳障りだった。
僕は「違う。」って心の中では叫んでいても中々声に出すことが出来なかった。
まるでこの教室全体の空気が目に見えないセメントで固められたみたいに外からの圧力で体が動かなくなり、ただ茫然と立ち尽くすしかできなくなっていた。
もし、今この瞬間「違う」と大声で叫んでこの事件の首謀者を探し出す勇気があれば僕も亜実も、拓也も莉愛も傷つかなかっただろう。
隣を見ると頭一つ分背が低い亜実も僕と同じように呆然としていた。
僕は無実であるのにも関わらず、元々雀の涙ほどしかないみんなからの信頼を一瞬にして失ってしまったのだ。しかし、どれだけ何かを失っても僕は彼女だけは失ってはいけないし、彼女から何かを奪おうとする者たちから守らなければならないと思った。
そうすると、僕は彼女の手を引いて無我夢中で教室の外に走り出した。僕の背後に迫るように聞こえてくるブーイングや歓声に捕まらないように、己自身も見失わないように。
「道徳を習い直せ!」という文句もきこえてきた。それを言うなら是非とも真犯人に向かって言ってほしい。しかしそれも叶わず、僕は長い長い廊下を彼女と走っていくことしか考えられなかった。
僕と亜実は逃げるようにして走った。その行く先はどこなのか、いつ終わるのか分からなかった。今は知っている廊下もそれを暗示するかのように薄暗く、長く感じられた。しかし、その廊下も走り抜け僕たちは学校を出た。
僕たちは息が切れるまで走り続けた。あまりにも無我夢中に走りすぎたせいで知らない道を通り、知らない中学校の前を通り、知らない住宅街にたどり着いた。そこに小さな公園があったので僕たちはそこで休むことにした。
時刻は午後二時を指していた。逆算すると僕たちは三十分から一時間の間走り続けていたことになる。そう考えると僕の体力もまだ捨てた物ではないなと思った。
僕たちは公園のベンチに座って落ち着いた。どれくらいの時間か見当もつかないくらい僕たちは無言のまま呆然としていた。今は七時間目の途中だろうか。きっと教室内では僕たちのことは笑いものになっているのだろう。ここまで走って逃げてきたのは間違いだったのかもしれない。もしあの時皆に必死に弁解していれば、と猛烈に後悔した。
だが例えそうしたとしても五組の連中三十二人対二人だ。太刀打ちできるはずがない。僕はもうあのカーストに還ることは出来ないのかもしれない。
すると、僕の考えていることを見透かしていたかのように亜実が話しかけた。
「木葉はもうあの場所に還る必要はない。」と亜実は言った。
「もう学校に行かなくていい、ってこと?」
「そう。」とはっきり亜実は答えた。
「そんなこと出来ないよ。いくら何でも学校をやめることは出来ない。」
「どうして。」
「どうしてって。普通に学校で過ごして普通に受験して普通に大学に行くのがふつうなんだよ。そこで道を踏み外せば生きることは難しくなる。だから嫌だから、とかそんな理由で学校をやめられない。」と僕は自分の意識を確認しながら真剣に答えた。僕の言っていることは間違っていない。
それでも亜実は一歩も引かなかった。
「普通ってなに?」と亜実は言った。
「普通なんてどこにもない。それは自分が決めること。少なくともクラスメイトに好きなようにされて自分の気持ちを我慢することは普通じゃない。木葉は木葉のしたいことをしたいだけすればいい。誰かに嫌われるから、とか誰かに仲間外れにされるから、とかどうでもいいことは気にしちゃいけないんだよ。カーストなんて恐れるだけ時間の無駄。学校で行われている無意識の仲間はずれも、小競り合いも、全部無駄なの。だからね、木葉。これから一緒に逃げよう。誰にも邪魔されない場所へ。そこで私たちは何物にも邪魔されない完全体になるの。」と亜実は言った。
その通りかもしれない。と僕は思った。亜実は学校の中のクラスという枠組みを超越してもっと広い世界を眺めていたのだ。それに対して僕はその中のカーストという枠組みだけを見て勝手に自分の中で苦しんでいた。
なんて馬鹿らしいことを僕は考えていたのだろう。僕は高木轟や、田村大地達が黄昏れている場所の道理に沿うように生きていた。そうしなければいつか彼らの手によって迫害されると思ったからだ。
しかし、そんなことに気を取られていては僕にとっての生、近江僕としての生を生きることは出来ないのだ。僕は変わらなければならない。亜実が教えてくれたように。
僕はベンチから立ち上がって歩いた。亜実も同じように立って歩いた。
「亜実の言う通りかもしれない。でも、もしその通りなら僕は変わらないといけない。誰かの作ったルールに縛られないくらい強い精神を持ち、自分の道を歩まなければならない。」と僕は彼女の方に振り返って言った。
「変わる必要はないよ。だって、もう木葉は十分強いから。それに、例え無意識でも自分のしたいことはきちんと木葉の中にあるはずだよ。」と亜実は僕の目を見て言った。
亜実が今見ている僕の目はどんな色をしてどんな形をしているのだろうか。少なくとも彼女の瞳よりは淀んでいるだろう。
「そんなことない。」と僕は言った。
「じゃあ、どうして私が救急車で病院に運ばれたあの日からクラスメイトでも友達でもなかった私にノートを届けてきてくれていたの?」
「それは。」
いつの間にか雨が降ってきた。その雨はたちまち僕達の髪を濡らし、また激しい雨となって全身を濡らした。それにも関わらず亜実は全く気にしていない様子でたたずんでいた。
そしてボタンが留められていない制服のブレザーの裾を両手で片方ずつ持って開いた。その開かれたブレザーの間にはカーディガンの生地が見えた。
「それは君のことが他人事だとは思えなかったから。どうしてかは分からないけれど。君と僕は似ているって直感で感じたんだ。君は独りだった。僕も一人だった。そして段々君を助けたいという気持ちが湧いてきたんだ。僕はあの三人と出会うことが出来たことで救われた。ならば、その時のように僕も君と出会って君を助ける梯になりたいと思ったんだ。」と僕は言った。
すると亜実は裾から手を放して両手を大きく広げた。
「今度は私が助ける番!来て。」と亜実が言うと僕はその通りに彼女に歩み寄った。そして彼女は僕の手を引いて自分の体の方に手繰り寄せて僕の頭を抱きしめた。制服越しでも亜実の温もりが顕著に感じられた。それはまるで炬燵の中で毛布にくるまっているような感覚だった。
「これからどうしようか。」と僕は聞いた。
「その前に、どうして私が救急車で運ばれたか気にならない?」と逆に聞いてきた。
「気になる。」
「一年前の私はね、木葉と一緒だったんだ。周りの雰囲気を気にしたり、それによって自分の行動を制限したり。もちろん、それは人間みんなに備わっていることだけれど、木葉と同じように、私もそういうことに人一倍敏感だったの。だから当然精神的におかしくなってきて、私はこの世界自体を嫌いになった。無意識に形作られるカーストの世界、それに従わなければ即刻迫害され、辱めを受ける世界が嫌いだった。周りの人たちはその世界の中に居ることさえも気づいていないような素振りでいるからもしかしたら私だけこの世界の敵なのかもしれないって思ったの。」
亜実は瞳を閉じて息を吸い込んで吐いた。
「だからね、私はその世界から逃げようと思ったの。何にも縛られず、生きて行こうって。生きてなくてもいい。自己が自己として生きていれば肉体が死んでも別にいい。って本気で思った。だから私はナイフを手にして手首を切ったの。ダメだったけどね。」と悲しそうに笑って見せた。
僕は一年ほど前に図書館で読んだ「明日の空」という本を思い出した。あの主人公は誰にも邪魔されず、自分の力だけで目的を遂行しようとしていた。そしてそれを見ていた神様は彼の努力の報酬として彼に翼を授けた。
そのように、彼女も自立するために、自分を守るために自分を切りつけたのだ。
「けれど、そんな時木葉が私を助けてくれた。ほとんど初対面の私のために毎日ノートを届けてくれた。それだけで私は救われた。今まで誰にも助けてくれたことが無かった私にはそれはとても大切なことだったの。もう落ち込んだり、生きることをあきらめたりしない。逃げたりもしない。」
亜実は僕の頭に回された手を放して滑り台に上った。彼女は上を見上げて月がきちんと一つであることを確認してからこちらを向いて微笑んだ。
「でも、今の木葉は違う。木葉はあの場所にいちゃだめなんだよ。何でも我慢して抑えこまないといけない場所なんていちゃいけない。だからね、木葉は今は逃げないといけない時なんだよ。」と亜実は言った。
「じゃあ、君の言うように僕が君を助けたのなら君も僕のことを助けてくれればいい。そうすれば僕もやっていけるさ。」
と僕は言った。亜実が居ればあの意地汚い奴らが巣食う場所でも生きていけるはずだ。僕は亜実のことが好きなのかもしれない。こうやって一緒に居るだけで心が温かくなるのだから。けれど
亜実は首を横に振った。
「それはだめなの。理由は言えないけれどそれじゃダメなの。木葉は逃げないといけないの。そうしないと君は救えない。」
「じゃあもう一度だけあの場所に戻らせて欲しい。やり残したことがあるんだ。それを済ませたら必ず戻ってくる。それから一緒に逃げよう。」と僕は言った。
亜実と一緒に逃げる前にやるべきことがある。それは莉愛や拓也、真琴に対してつけなければならないけじめだった。僕は彼らにきちんと確かめなければならない。あの四人で共にした日々は偽りだったのかどうか。
「分かった。家で待ってる。終わったら迎えに来て。」と亜実は言った。
僕は「分かった。すぐに帰ってくる。」と言って学校に向かって走り出した。
彼女のために、そして自分自身のために。




