第四章 欠如
今日もいつものように外を眺める。
風は吹き荒れ、外は枯れ葉と禿げた木が中庭や道路を支配し、荒廃した世界を連想させた。
たまに飛んでくる鳩や雀も、その世界では場違いのように感じられた。
そしてその場違いさは僕たちも例外ではなかった。
僕たちは窓の外の荒廃した世界とは別で、学校生活が問題なく営まれていた。
僕は莉愛、拓也、真琴の四人で何の弊害もなく一つの小さなコミュニティーとして機能していた。
しかしながら、学校生活は僕たちが完全に独立した共同体として存在していることを許さなかった。
轟や中川樹里、大地等の一部の人間が黄昏とするのはこの三組という教室の中に居る三四名の生徒全員の中の頂点としてあるのだ。であるのならば当然僕たちはそのカーストという形の山からは異物とみなされる。それ故に僕たちは常に細かい立場の選択をしなければならなかった。
通常の友達の輪ならそれは必要なかっただろう。しかし、僕たちの結束はあまりにも完璧すぎたが故に彼らに不具合が生じたのだ。
僕たち四人は彼らのせいで、気づかないうちに疲れていっているかもしれない。
でも昼食の時間も休み時間も四人が集まると、忽ちいつもと全く変わらない四人だけの風景が出来上がった。
「莉愛、それふりかけじゃなくて乾燥剤だ!」と拓也が言う。
「あ、間違えちゃった。」と莉愛が微笑む。
「どうしたらそんな間違いするんだよ!」
その風景は僕にこれ以上ない幸せと充足感を与えてくれたし、これに何の間違いも無いと思った。
僕は今日も学校が終わると一直線に図書館に向かう。
学校を出て進路は北。
面舵いっぱいに舵を切る。
とはいえここは海ではない。
信号を守り、歩道を歩く。信号を渡り、小さな橋を渡る。
やがて住宅街に差し掛かる。
そして最初に目に入った住宅に気づき、足を止める。
そこにはあの時の救急車は止まっていないし、その乗車人の患者もいない。
その患者は運ばれるべき病院に行き、きちんと病を治したのだ。
そして僕は今からその人に会うのだ。
朝の天気予報のお姉さんが言うには今日は今年初の寒波の影響で冷え込むとのことだった。その通り、十二月の今日の外は冷え込み、辺りを歩く人は皆マフラーにコートをまとい、びゅうびゅう吹き付ける突風から身を守っていた。
家のインターホンを鳴らすと少し時間がかかって彼女が出てきた。服装は黒いチノパンにベージュのセーター。今日は黒縁の眼鏡をかけていた。いつもはコンタクトをしているのだ。
僕が持ってきた物を彼女に渡すと彼女は「ありがとう。」と言って頷いた。それから彼女はぼーっとした表情で虚空を見つめ、少し間があってからまた「ありがとう。」と言ってパタン、とドアを閉じた。
彼女の名前は橘亜実。読み方は「亜実」と書いて「つぐみ」だ。
初めは彼女のノートを見て「あみ」だと思っていたのだがどうやら「つぐみ」らしい。亜実は明るく無邪気な莉愛とは対照的に臆病でいつも自信なさ気な表情をしていた。いつも緊張すると服の裾をつかんでもじもじする癖があることからも彼女の性格は推察することが出来るだろう。
しかし、それと同時に彼女からは特別に落ち着いた雰囲気が発せられていた。それは莉愛にもないもので、大人のような性質だった。
僕は去年の五月から学校に来れない彼女のために授業中は僕と彼女の分、合わせて二冊のノートを書いていた。世界史の時間は書く字数が多いのでかなり骨が折れた。
しかし、それは学校に来れない彼女のためには必ずしなければならないことだった。
彼女はある事情で学校に来ることが出来ない。その事情が何かは詳しく教えてくれたことは無いし、教えを乞うつもりもない。そうしようとすると彼女はいつも口をつぐみ、目を強ばらせるのだ。
大体の見当はついている。あの時、彼女の家の前にとまっていた救急車に乗っていた患者は間違いなく亜実だった。そして何の病気かは知らないが、きっとその後遺症のために今も登校することが出来ないのだろう。
僕はいつも学校が終わると図書館に向かうのでその途中でいつも亜実の家を訪ね、その日書いたノートを手渡す。その手渡す過程で特に何か話したことは無い。彼女はノートを受け取るといつも「ありがとう。」と言ってドアを閉じる。それだけなのだ。僕はそれでも別に何の不満もない。彼女にとってもそれは特に何の意味も持たないことなのだろう。だから僕たちはそれ以上の関係になることはないだろうし、なる必要もない。彼女には彼女の友人や家族に囲まれた生活があって僕にはあの三人に囲まれた生活がある。僕と彼女にはノートの受け渡し以上の繋がりはいらないのだ。
と、僕は心にその感情を焼き付けた。僕はきっとそう思わなければならない。そう思わなければ歯止めが利かなくなる。僕は玄関のドアの隙間から出てくる彼女を見ているだけでいいのだ。
僕は図書館に着くと、いつもお決まりの席に座る。そこは図書館の一番奥の席で、他の人からの視線を気にする必要が無いのだ。しかし今日はそこに先約がいた。僕はあきらめようと踵を返しかけた時、よくよく見るとその先約は真琴だったことに気が付いた。
「真琴、何してるの?」
「やあ木葉。何って、たまには本を読もうかなって思って来たんだ。」と真琴は言った。
「真琴、バスケ部の練習は?」
「今日は休みなんだ。監督が、試合が近いから出来るだけ体調を整えるようにって。」
「真琴、試合明日だったんだ。真琴なら大丈夫、絶対勝てるよ。」
と、僕が言うと、真琴は少し目をそらして一瞬間をおいてから言った。
「ありがとう。でも、絶対なんてこの世にはないんだ。当たり前だけど僕たちが戦う相手も同じ人間なんだ。向うも勝ちたい、打ち負かしたいって強く思ってる。どちらが勝っても負けてもおかしくない。もう用事は済んだし帰って休むことに専念するよ。」
と言って真琴は帰っていった。
僕は少し真琴に悪いことをしたかもしれない。真琴は今試合前で精神が追い詰められているのだ。もう少し気のきいた言葉をかけたらよかったと親友として反省した。
しかし、それを差し引いたとしても僕たち四人の絆に何かのはずみでひびが入ってしまっているような気がした。僕たちはそろそろ限界に向かっているのかもしれない。僕たちはこれからそれぞれの道に足を踏み出さなければならないのだ。それが例え、カーストの重みに踏みつぶされる運命だとしても。
白銀の世界が広がっている景色を見ている夢を見ることがよくある。
そこにはカーストはないし、意地汚いクラスメイトもいない。右も左も分からない場所だった。
その世界で唯一あるものがある。それは一本のリンゴの木だった。
その木にはたくさんのリンゴが実っていた。白銀の世界にリンゴの木が一本というのは真剣に考えるととても奇妙だった。
その夢はふと瞬間に覚める。起きた時に見る外の世界が現実のものであると認識して初めて僕はこの世界に戻ってきたことに気づく。
しかし、起きて、外を見ても夢の世界と現実の世界と違いが無い時があった。その時はいよいよ現実と夢との境が分からなくなる。そして、分からないままそのまま学校に向かう。
学校に着くと、珍しく真琴が休んでいた。この寒い気候のせいで体調を崩したのだろう。
前に真琴と話したのは冬休み一日目のクリスマスの日だった。少なくともあの時の真琴は精神的にも肉体的にも健康だったはずだ。
真琴、というか四人のうち誰かが欠けるだけで会話が弾まなかった。休み時間になっても昼休みになっても誰も、誰とも話すことが無かった。莉愛は学級委員の仕事で忙しくて構いたくても時間が無いように見えた。
次の日も、その次の日も真琴は姿を現さなかった。こんな日が続くとまるで今まで積み重ねてきた四人の友情さえも幻のように感じられてきた。そんなはずはないのに。
僕たち四人が集まろうと集まらなかろうが関係なく、僕は放課後、図書館のついでで亜実の家にせっせとノートを届けに行った。インターホンを鳴らすといつものように亜実が出てくる。亜実はいつものように「ありがとう」と言った。その後パタンとドアが閉められる、と思いきや亜実はあることを僕に言った。
「四月からは学校に行けそうだから。」
「そうなんだ。体はもう大丈夫なんだね。」と僕は言った。
亜実はこくんと頷いてドアを閉じた。僕はそのまま暫くの間ぼーっとしていた。
四月からは亜実は学校に通うことになる。そうなれば僕が亜実の家に行く必要はなくなる。そして僕と彼女の接点もそれと同時に無くなってしまうのではないだろうか。僕はそう思うと突然恐怖に襲われた。僕は彼女のためにノートを書いて、それを届けていただけだが、それだけでも僕は彼女にある特別な想いを抱いていた。その想いは今の四人の不安定さがもたらす不安を和らげてくれていた。
しかし、これは喜ぶべきことなのだ。彼女が自立のための第一歩を踏み出したのだ。僕はそれを喜んで拍手するべきだ。と思い直した。また僕たちは、いや、僕は誰かに翻弄されるのだ。クラスの人たちだろうか、はたまたこの変わりゆく季節なのかもしれない。
四月に入り、僕は高校二年生になった。高校二年生にもなると皆部活や友達伝いで最初からクラス内である程度の派閥が出来上がっていた。反対に、未だにその派閥なるものに入れていない人達は窓の外の景色を見たり、ぼーっとしたりしていた。僕もそのうちの一人だった。
真琴と莉愛は二組へ、拓也と僕は同じ五組になった。クラス替えで変わる程浅はかな人間関係ではなかったことは心得ていた。
しかし、今はそれがそうでもない状況になっていた。真琴が休み始めた頃、僕たちはどこか険悪な雰囲気に支配されていた。はっきりとした理由は分からないが、多分大地や轟が率いるクラスの奴らがその原因だった。クラスの奴らはクラスのことになると巧みに僕らのことを迫害しようとしたのだ。クラスの連絡網は飛ばされ、班行動ではことごとく彼らに避けられる対象となった。
いつもなら真琴の巧みな話術で彼らと互角に渡り合い、莉愛の学級委員の権力でそのいざこざを鎮めることが出来たが四人全員がそろっていなければ僕たちは無力だった。そして遂に真琴は最後まで姿を現さなかった。
そんな状態で僕はこのクラスでやっていけるのだろうか。
外の桜はそんなこととは全く関係なしに咲き乱れていた。二年生の教室は一年生の教室の一つ上の階だった。二年生の教室から見る中庭の風景は一年生の教室から見る風景と全く異なった表情をしていた。いや、ただ僕たちの見方が変わっただけなのだろう。
幸いなことに隣の席は高木轟ではなく橘亜実だった。亜実がいれば僕もいくらか安心して過ごしていけるかもしれない。
その一方、不幸せなことに亜実の前の席は轟だった。
最初は気づかなかったが亜実の前に居る彼は間違いなく轟だった。轟は髪を伸ばして坊主頭ではなくなっていた。野球部はどうしたのだろうか。
轟の後頭部を見ているだけで気分が悪くなったので次は亜実の方を見た。亜実は少し緊張しているようだった。亜実は授業時間はもちろん休憩時間も誰とも喋らず、話しかけられても誰の声にもはっきりとした反応を示すことが出来ていなかった。無理もない。亜実は一年生の時はほとんど学校に行って無かったのだから。中間試験や期末試験は僕の書いたノートを見て、テストだけ出席して何とか進級にこぎつけたらしい。そうとあれば僕もせっせとノートを書いた甲斐があったというものだ。亜実がこっちに気づくと不器用ながらもにこっと笑って見せた。亜実の制服姿はとても似合っていた。多分初対面の人が見ても亜実のそれは似合い過ぎて一年間学校を休んでいたとは思わないだろう。
昼食の時間になると亜実は突然僕の手をとって食堂まで連れて行った。どうやら一緒にごはんを食べたいらしい。僕は教室に残された拓也のことを頭の隅で考えながら彼女の相手をした。亜実はきつねうどんを頼んだ。
「弁当は持ってきてないの?」と聞くと。
「お母さんもお父さんも、あまり家に帰ってこないから。」と亜実は答えた。
「自分で作らないの?」
「作れない。」
料理が作れないのは頂けない。今度作りに行ってやろう。
よくよく考えると僕は亜実のことを何も知らなかった。
一年生の時彼女の家に通っていたにも関わらず僕と亜実は何も話さなかった。いや、あの頃は話す必要性が無かったのかもしれない。亜実にとって僕はきっと配達人のようなものだったのだろう。それならば当然、配達人には受領印のサインをするだけで良いのだから「ありがとう。」だけで済ませてもパタンとドアを閉めても何も悪いことは無い。
しかし、今は同じクラスのクラスメイトだ。これからはお互いの知らないところを少しずつでも知っていくべきだ。
亜実はとても澄んだ瞳をしていた。まるで瞳の中に広大な海が広がっているのではないかと思ってしまうように彼女の瞳は純粋であるが故に澄んでいた。純粋さは清廉であり、無知でもある。彼女はこの世のカオスをまだ知らない、あるいは知ることを避けているのかもしれない。それは知った途端にその瞳を、心を汚してしまうのだ。だから彼女は何も知ろうとはしない。そのカオスの中心が彼女だったとしても。
僕は目の前に居る亜実を見ながらそんなことを考えていた。それらはあくまで推測の範囲を超えないはずなのにどうしてこんなにも考えてしまうのだろう。僕は彼女のどこに興味を持ったのだろうか。彼女の整った顔?瞳?いや、それだけではないことは確かだった。
しばらく僕たちは食堂の机に向かい合わせの形でいた。すると僕の横に誰かが座ってきた。それは真琴だった。久しぶりに見る彼は彼のままだったがどこか雰囲気が変わっていて、そこには何か異物が潜んでいるような気がした。
「やあ木葉。この子は?」と真琴が言った。
「橘亜実。同じクラスの友達だよ。」
「ふーん。友達ね。」
と言って真琴は僕と亜実を交互に見回した。
「拓也は?」
「拓也は今教室にいるよ。」と僕は答えた。
すると真琴は少し表情を変えて「何してんだよ。」と聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で呟いてから言った。
「まあ元気そうでよかった。僕と莉愛も二組で元気にしてるから心配しないでね。」
真琴はそういうと席をたってどこかに行ってしまった。
あれだけ仲良くしていたし、親友だと思っていた真琴が今は何を考えているのか僕には分からなくなっていた。真琴は一体何によって変わってしまったのだろうか。
去年のクリスマスの日、僕たち四人は僕の家に集まってパーティをした。その日はプレゼント交換をしたり、ゲームをしたり、本当に楽しい時間を過ごした。真琴もその時は本当に心から楽しんでいそうな表情をしていたし、まさかその日が四人全員揃った最後の日となるとは思わなかった。もう真琴の心にも、誰の心にもあの四人で過ごした日々の痕跡は残っていないのだろうか。だとすれば皆それぞれの好きな方向に進み、好きなことをしているのだろうか。それならばそうなる方が良いのかもしれない。
僕にはもう何が正しいのかさえ分からなくなっていた。




