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白い惑星  作者: みくに葉月
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第三章 対話無き疎通

僕は生まれながらにして豊かな感受性を持つ。

だから小説を読めば物語の主人公の心情が文字だけで伝わってくるし、その本の中にまるで自分が飛び込んだような感覚になる。僕にとって本は自分をどこまでも連れて行ってくれるかけがえのない存在であった。

 

本は僕にたくさんのものを与えてくれた。対話の大切さ、生きていることの貴重さ、友情の大切さ。そして、それらは僕の感受性を際限なく洗練させた。

 感受性の豊かさは時に心身を豊かにし、時に心身を滅ぼす。

僕はその紙一重の性質と生涯共にしていく必要性があった。その性質から逃げることは許されない。

例えどれだけ鈍感に装っても僕の中の心はそれに甘んじることは無かった。いつだって物事や人物の心情の唯一性をとらえ、それに沿って自分自身が正しいと思う行動をしてきた。

 感受性の豊かさ自体が僕に利益を与えてくれるわけではない。しかし、感受性が豊かであるが故に僕が僕以外の人間の気持ちを理解し、同情し、時には共に歩みを進めていくことは僕にとってとても容易かつ負担のない所業だった。

 

 

この日は梅雨入りの日だった。朝の天気予報の時間で気圧配置の図をみると、今日の夜までに日本は白く厚い雲にすっぽり覆われ、段階的に大雨になるそうだ。

 

僕が家を出た時の空は梅雨なんてこの世に存在しているかさえ疑わしいほどに青い空が、かろうじて見える工場地帯の煙突の向こうまで果てしなく続いていた。

 学校に着くといつも真琴と莉愛、拓也がいて、その中の輪に入って先生が来るまでの時間はずっとささいな雑談で心の芯を温めるのだ。

七月にもなると互いのことがよくわかるようになってある程度の悩みや相談があれば気軽に持ち掛けることが出来たし、軽い冗談も言えるようになってきた。

僕はこの四人で居る空間がとても好きだった。今では僕が生きてきた中で一番心地よく感じる居場所になりつつある。

そしてこの友好関係がいつまでも続いて、同窓会では「変わったね。」なんて会話は必要なく、「一緒にゲートボール行こう!」というほど仲が良く、心の距離が近く、文字通り運命共同体のようなものになれればいいなと僕はふと思った。

 

 一時間目の授業は現文だった。今日の内容は羅生門。芥川龍之介の代表作のうちの一つだ。

僕ははるか昔に図書館で読んでいたし、要点は何度か本を見返して全て抑えた。だから授業を聞いていると退屈で仕方が無かった。僕の前に座っている拓也も「もう飽きました」というポーズをとってあくびをしていた。みんなが飽きるのは芥川龍之介さんのせいでも、僕が個人的に先読みしていたせいでも、文学を学ぶにあたって必要となる集中力の不足のせいでもない。あの生ったるい声でゆっくりと喋る先生のせいだ。優しい先生ではあるのだが優しい分だけまったりし過ぎてだらけてしまうのが玉に瑕だった。

 

僕は授業を他所に、中庭の傍にある駐輪場に繋がる道の地面に這いつくばっている水たまりたちを眺めた。それから空に浮かぶ綿あめから降ってくる雨が水たまりに落ちて円形の波紋を生み出す過程を特に何も考えず、ただそこに景色がある、ということを確認するように見ていた。

 次の授業は化学の授業だ。現文が終わると皆一斉にこの教室を出て行った。僕はこの教室を出ていく際にもう一度水たまりを確認したが、やはりその水たまりは幾度も雨による波紋を作り出していた。

 

 化学の教室はどこの学校の生徒でも共通したイメージを持てるのではないだろうか。勢いの強い水道、黒いテーブル、上下スライド式の大きな黒板など、仮に文章で描写するにはとても簡単な教室だ。

 僕たち三組は一学期の最初の授業から一貫して出席番号順(五十音順)の席の配置なので、場所が三組の教室だろうと化学の教室だろうと顔を合わせる相手はいつも一緒だ。化学の教室のテーブルは六人掛けで一つのグループだ。僕の向かいが坊主頭の高木轟、その隣が莉愛だった。莉愛が居るのは心強い。高木のことは未だに良くわからないからだ。高木は野球部所属で、同じクラスの(なぜか)女王的存在である中川樹里と付き合っているという噂がある、くらいしか分からない。

 

授業中の高木の表情から読み取れることは少ない。

いつも無表情で必要最低限のアクションしかとらないのだ。それでいて何故かクラスメイトからの信頼は厚く、女子からの人気もあるそうだ。もしかしたら僕と彼は隣通しの席だけれどそれは視覚的にみれば近いだけで、考えていること、見ている世界は全く異なっていてそれが彼と僕が交わることのない程の心の距離を作る要因となり、互いを理解しようとする意識すら芽生えない状況を作り出しているのだろうか。僕と高木の心の距離はきっと日本とブラジルくらい離れているだろう。

 

アルカリ性の液体と酸性の液体を適した分量で混ぜると中性になる。それを中和と呼ぶ。そんなことは分かっている。けれど、実験は授業で習って分かり切ったことを実践として行う。

 僕は実験に必要な備品を揃えるために席を立つ。高木は莉愛越しに、莉愛の隣に座っている田村大地と喋っている。莉愛は所狭しにぽつんと点みたいに座っている。あとの二人組の女子も非協力的な姿勢で雑談に夢中になっていた。それは別にいい。良くわからないメンツで良くわからない実験を不本意ながら班でやれと言う方がおかしいのだ。

 

しかし、意識的であれ、無意識的であれ、自己の傲慢さがだれかを傷つけ、追いやるようなことはあってはならない。僕は備品をもって戻ってきた時にそれとなく「莉愛、こっちおいで。」と言った。莉愛が席を立つと田村大地は高木轟の隣に座り、それによって二人組の女子は向かい合うような形なり、僕と莉愛も肩身が狭くなることは無くなった。

 

莉愛はこっちを向いて微笑んで「ありがとう。」と言った。別に礼を言われるほどのことはしていない。けれど、自分がしたことに誰かが喜んでくれるのは悪い気持ちではない。

 僕は試験管を慎重かつ手早く試験管立てにセットしていく。一つは薄めた塩酸が入った試験管、もう一つは水酸化ナトリウムが入った試験管だ。これらを少しずつ混ぜ合わせて中和した液体を作り出すのだ。僕は先生が指示した順序に沿って作業を進めていった。

 そして問題なく作業を進めているとどこの班よりも先に実験を終わらせることが出来た。

 「近江の班が一番みたいだな。一番の班は加点だからみんなも次から頑張るよーに。」と先生は誇らしげな顔で言う。

 その時のみんなの顔は決まってばらばらだった。パラパラと拍手が鳴っているが、それとみんなの顔の動きが一致していない。ある人は無表情で爪のマニキュアを確認し、ある人は午後の授業で提出する課題をしている。みんな自分以外の誰が一番になろうと興味はないのだ。なぜならそれは特に彼らに利益をもたらすことがないからであろう。授業が終わりの教室を出るとき、後ろから田村大地が来て通り過ぎざまに吐き捨てるように「がり勉君、実験お疲れな」と言って去っていった。それに反応しようとする頃には彼の姿は見えなくなっていた。

 

 


昼食の時間はいつもの四人で机を並べてごはんを食べた。やはり僕にとっての充実した時間はこの時だけかもしれない。拓也が笑いを起こして莉愛が場を取り持って、僕と真琴がそこに居る。この四人だけの世界は他の誰にも作ることは出来ないし介入する隙すらないだろう。そしてこの四人だからこそお互いを刺激し合って成長出来るのだと思う。実験が速く終わっても、良い成績をとってクラスで一位になってもそれらは何の意味も持たないのだ。

 

外の空気はムシムシと生暖かくてとても過ごしやすいとは言えない気候だった。体育館と校舎をつなぐ渡り廊下からはある程度のところまで住宅街を見渡すことが出来る。いつもはその遥か遠くの山まで見ることができるのだが今日は降り続く雨で視界が悪くなっていた。地面の水たまりは拡大し、直径三メートルほどのものがあちらこちらに出来ていた。この雨は一体何を求めているのだろうか。最近、温室効果ガスの増加に伴い、市街地で集中豪雨などの異常気象の発生が後を絶たないといった事案がテレビで連日報道されていた。どうして温室効果ガスが増えると異常気象が発生するのかは僕には分からない。しかし、その雨が生み出す音はなんだかやり場のないストレスが積み重なって怒っているように感じられた。

 

 体育館に入ると中の蒸し暑さは外よりも格段に酷くなっていた。これは十分な水分補給をまめにしなければ熱中症の危険がありそうだ。何もしてなくても自然に体中から汗が出てくる。

 

今日の体育はバレーボールだ。田村大地の強烈なスマッシュ、高木轟の素早いレシーブ。授業中の試合ではこの二人が率いるチームが圧勝する形となっていた。体育の授業は真ん中の網の仕切りを境界に男女半分に分かれてするのだが運動系が得意な男子が活躍しているとたちまち遠くの方から黄色い声援が聞こえた。僕はそれに気圧されないように肝に命じながら試合に臨んだが、誰かの声援に負けようが負けまいが僕にはどちらも同じことだった。田村大地と高木轟の運動神経は他のクラスメイトとは才能の質がまるで違っていた。並大抵の人間では彼らに勝ることはできないであろう。そして何より、僕の能力はその並大抵の人間にさえも打ち勝つことが出来ない程低い次元のものだ。それゆえに僕は敵チームから恰好の的になってしまった。

 次から次へと飛んでくるサーブボールは必ず僕のところに飛んでくる。そして案の定、僕はそれに対応しきれずにコート外に飛ばしてしまったり、取り損ねてしまったりした。黄色い声援が相手チームに向けられる。鋭く、冷たい視線が僕に向けられる。僕はこのたったの一時間で僕の居場所が無くなってしまった気がした。

 

別に僕は今いる居場所でたくさんの人の支持を得て名声を手に入れたいわけではない。ただあの三人と一緒に平和に過ごしたいだけなのだ。しかし、その居場所さえも彼らは奪ってくるのだろう。それもありとあらゆる手段で、それでいて大人数でだ。それらは意識的にではなく半無意識的に行われる。だから迫害を受けた人はそれを己の力で解決出来るすべはない。なぜならその迫害が行われた根拠自体が明確に存在しないからだ。それが行われる理由は士農工商で居住区を分けた領主のように、彼らにとって自分とは違う質を持った人物は異物でしかないと認識するからだ。故に彼らは誰かを遠ざけたり、断定したりして自己完結しようとするのだろう。

 

僕は体育の授業が終わるととても居心地が悪いので、速攻更衣室に戻り、着替えて教室に戻ろうとした。しかし、サーカスみたいに着替えはすぐに終わるわけではない。着替えが終わり、出ていくときに丁度轟と大地と鉢合わせになった。

 「おー近江。今日のレシーブ上手かったぞ。」とにやにやした気持ち悪い顔で大地が言った。

 「おいその辺にしとけや。」と轟が止めるような挙動をする。そして二人は勝手に僕のことを断定して去っていった。更衣室の中からは下品で下劣な笑い声が聞こえる。もう何とでも言えばいい。

 

 今日の授業が終わるころには登校時の小雨が土砂降りになっていた。水たまりは水たまりの形態を捨て去り、一つの大きな池が広範囲で出来ていた。その池を雨は途方もない数を打つ。

とてもではないが傘なしで帰れる状態ではなかった。電車は先ほどの警報を受けて長時間の停車を行っているそうだ。

 

僕は一人教室で雨が止むのを待っていた。暗い教室は無言で僕を包んでいる気がした。外の雨が窓を容赦なく打ち付けたり、野球部の階段ダッシュの掛け声がたまに聞こえたりしてもそれは別の世界で起こっていることのように感じた。

ここは僕しかいない教室という世界なのだ。

だから僕以外の何物も介入できないし、僕の立場を脅かしたりすることもないのだ。

しかし、そんな世界はすぐに砕かれた。

 遠くから聞き覚えのあるフレーズの音楽が聞こえてくる。確か数年前にヒットした映画の主題歌だっただろうか。僕はその映画を見に行った記憶があるが誰と見に行ったかは覚えていない。その音は外の雨の音と奇跡的な調和を生み出し、僕は廊下と外側から挟み込まれるような感覚に陥った。その教室に入ってきたのは莉愛だった。

 

莉愛はアコースティックギターを持っていた。そのたたずまいは中々立派でCDのジャケットになっていてもおかしくない姿だった。

 「木葉、まだ帰らないの?あ、もしかして今日のテストで赤点とったから居残りしてるの?」と無邪気な顔であおってきた。

 「違うよ。雨、すごいだろ。傘が無いから帰れないんだよ。電車だって止まってる。」

 「ふーん。じゃあ今暇だからちょっとあたしのギター聴いていってよ。」

 といって先ほどの曲を弾き始めた。


まだ高一で部活も始めたばかりなのにそれにしては上手い方だった。そしてその旋律はまた外の雨と呼応するように鳴り響き、僕の脳に直接入ってくる。そのメロディーは僕を現実から引きはがし、どこか別の新しい世界へ連れていってくれるような感覚がした。外の雨が遠くなっていき、野球部の掛け声の雑音も莉愛の奏でる音楽が消化していった。僕だけしかいない教室の世界に莉愛が入ってきて莉愛が教室の中の僕を音楽で包んだ。それはとても不可思議な感覚だったが、同時にとても心地よい印象を与えてくれた。

 

 


「起きた?」と莉愛が言った。

 最初何を言っているのか分からなかったが僕は眠っていたことにすぐに気がついた。

 「どれくらい眠ってたっけ?」

 「ほんの二十分くらいだよ。」と莉愛が言った。

 

外の雨はすっかりやみ、分厚い雲の隙間からわずかな光が差し込んでいた。莉愛と僕はその差し込んだ光に当てられていた。莉愛は少し眉をひそめて何かを考えるような素振りを見せていた。莉愛は何かを考えるときは手を唇にあてる癖がある。莉愛の綺麗な瞳はその光でより一層純粋な輝きを見せていた。白い肌は一切のシミが無く手入れされた人工的な感じもなく、ごく自然に形作られたという印象を受けた。普段はそんなに細かい所を見ることは無かったのだ。そして何か意を決したように莉愛は私に言った。

 

「木葉、今日はありがとう。あと、その後のことは気にしなくてもいいと思うよ。」

 「その後のこと?」と僕が尋ねる。

 「ほら、さっきのバレーで木葉あいつらに何か言われてたじゃない?でもそんなの気にしなくてもいいってこと。木葉には木葉の個性があるしあいつらにはあいつらの個性がある。それだけのことだよ。」と莉愛が言った。

 「ありがとう。僕も実際何も気にしてないから、大丈夫だよ。」

 「そう、良かった。そろそろ練習戻らないとだからもう行くね。木葉も気を付けて帰ってね。」と言った。

 それから、「木葉は大丈夫だから。いつでも、どこでも。」

 と言って莉愛は走って行ってしまった。その途端に廊下からレスリング部の掛け声が聞こえてきた。

 

僕はもう帰ることにした。時刻は午後五時頃だった。いまから図書館に行っても閉館時間が迫っている。それに今日はとても疲れたので早く帰って眠りにつきたい。今日一日は途轍も長く、果てしなかった。


僕は僕のままで気ままに過ごしたいだけだったのに世界がそれを許さないといわんばかりに僕の邪魔をしてくる。しかし、それも仕方がないことなのだろう。きっと僕はこの狭い世界の中でカーストに縛られてもなお生き続けるのだ。

 

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