第一章 アイデンティティー
授業が終わり、担任のHRが終わるとみんな一斉に下校していった。
一人で帰る人、異性同士や、あるいはグループで帰る人、それぞれだった。
僕は前者の人間だった。家はそう遠くないから誰かと帰る必要もない。
家に帰っても誰も居ない。兄弟はいない。両親は共働きで夜遅くまで帰ってこない。
僕は帰っても退屈なので学校が終わったら本屋に寄り、中古の本を見繕う。そして図書館でその本を読むのが習慣だった。
傍から見ると僕は地味で冴えないやつだ、と思われるかもしれない。
けれどそんなことは別にどうでもいい。本は僕に様々な世界を見せてくれた。
その世界は無限でどこまでも広がっていた。
不良の少年の独特な正義感がこの世の偏見を厳しく指摘していく世界。
パラレルワールドを行き来出来る世界。
太平洋戦争の空軍兵士の武勇伝が語られる世界。
それらは本を介して読まなければ一生体験出来なような内容ばかりなのだ。
図書館にはやはり老人が多かった。自分のようにわざわざこんな地味臭い所に来る若者はいないだろう。そんなことを考えるとやはり僕は他人と違った嗜好の持ち主だということを味わうことになる。
図書館に居る数少ない若者の一人ということを心得つつ、僕は「明日の空」というファンタジー小説を読んだ。戦争で家族も親友も何もかも失った少年の話だった。
360°どこを見まわしても荒野しかない土地で、白い雲が渦を巻く中心に行くと天に引き上げられて永遠の愛を享受することができるという言い伝えを信じて少年がそれを探す旅をする、という内容だった。白い雲の渦は発生するのはしたがすぐに消えてしまうから事前に発生を予測し、直ちにかけつける必要があった。いつどこで発生するかは分からない。気象学の知識も無ければコンパスも、道も何も無い、ただ永遠に続く荒野の中で少年は少年の信じる方角を行くだけだった。
そしてある時、空から羽衣を来た白い聖人が降りてきて、少年に全てが分かる目とそこまで飛んでいける羽を授けた。そうして少年はどこに白い雲の渦が発生するか見分けることが出来、それが消える前にその羽で飛んでいき、目的地にたどり着くことができた。
その後少年が引き上げられ、幸せになれたのかはこの小説には書かれていなかった。
この小説から読み取れることは少年が少年の進むべき方向を己自身の力で追求していたことだった。その結果救いが訪れ、少年の目的を果たすことができた。少年は一切迷わなかった。どれだけ失敗しても、どれだけ時間がかかっても少年は最後まで少年のままであり続けたのだった。
少年は意識的に己を失わないようにしたのだろうか。それとも自律することはその世界で当たり前のことだったのだろうか。どちらにしろ、その世界は綺麗に感じた。決して恵まれた環境でなくても純粋な心をその世界の人間は持つようにされていたのだ。どこかの混沌とした世界とは違って。
僕は本を閉じて目をつぶった。この世界は嫌いだ。何でもマニュアル化された機械みたいに僕たちは動く。果たしてその中に存在している僕たちの中に真実の愛は内在化されるであろうか。
いや、ないだろう。この世界に渦が巻かない限り人々は路頭に迷い、例え七十億人の人間が居ても誰一人として団欒を感じることが無く、本当の愛を自己以外から得ることも無くなるだろう。
時は二〇〇九年現在、IT革命による機械化の促進、それに伴うあらゆるサービス、システムの簡略化が進められている。もうこの時代は隣人を必要としなくなり、無償の助け合いなるものが成されなくなり、やがて人々の心は凍り付いていくのだ。かつての里山の集落の住民の温もりとは対照的に。
窓の外の桜は一掃され、緑色の葉が生え、それはどんどん広がり、生き生きとした自然の生気をわずかながら感じられるようになってきた。制服も冬服のブレザーから夏服のシャツに衣替えされた。
僕は今日も学校が終わると一直線に図書館に向かう。
学校を出て進路は北。
面舵いっぱいに舵を切る。
とはいえここは海ではない。
信号を守り、歩道を歩く。信号を渡り、小さな橋を渡る。
やがて住宅街に差し掛かると一台の救急車が目にとまった。救急車はこの寂しい街の、特に目立った特徴もなく完全に住宅街の中に埋没されたような一戸建ての家の前に止まっていた。その救急車はちょうど患者を家から運び終え、出発するところだったようだ。少しだが救急車の窓越しで患者の姿が見えた。性別は女。体形はやせ形。年齢は僕と同じくらいのようだった。
その救急車はすぐに出発してしまった。数秒だけの光景だったが、僕は知り合いでも何でもないその子のことが他人事には思えなかった。根拠はないが、僕はその子にどこかで会ったことがあったかもしれない。僕は彼女の無事を祈りつつ、図書館に向かった。
今日は図書館で小説は読まなかった。その代りすることもないので児童コーナーで恐竜の図鑑を一人で読む幼稚園児の相手をした。
「おにいちゃん、これなんて読むの?」とその子は言った。
「はくあきって言うんだよ。」と僕は答える。
「ふーん。」と質問してきたくせに興味がなさそうにその子は図鑑を眺めていた。
僕はその子の親御さんが戻って来るまで相手をして暇をつぶした。
いつもは図書館が閉館になるまで入り浸るが、今日は疲れていてそんな気分でもなかったので早めに家に帰ることにした。
図書館を出て地元行きの駅に向かう。行き道と同じように信号を渡り、住宅街を通る。行きしなに見た住宅の前の救急車は当然だがもういなくなっていた。中の子は無事だろうか。僕はそう思いながら帰路についた。




