嵐
そこは突き刺すような豪雨が降り注いでいた。
日を遮る分厚い雷雲。荒れ狂う海。
嵐の海。
大型船を木の葉のように翻弄し、打ち砕き、高波に飲み込んだ嵐は未だに留まり猛威を振るう。
何もかもを飲み込む暗い海に溶けるように沈んでいく船。積み荷。残骸。
人間。
飲まれまいと、浮き上がろうと、必死にもがく船員や乗客もやがては力尽きて沈んでいく。
水面に出ても波に弄ばれ、結局は沈むしかない無力な陸の住人は、嵐を乗り切ったとしても生き残る術は無い。
陸地が見えない大海原。
嵐の中心がそこである限り、ただの人間には"死"しかない。
少年は死にたくなかった。
何としても生きて、生きて、生き抜きたかった。
諦めてしまえば楽だ。
重い身体は自由が利かず、暴れ狂う海では無力過ぎる自分では諦めて沈んだ方がずっと楽だと分かっている。
分かっているが、納得は出来ない。
ここで死んだら、ここで諦めたら、自分は何のために生きてきたのか分からない。
生きる為に船に乗り込み、生きる為に逃げてきたのに。
死んだら全てが終わる。
諦めたら終わる。
(身体が死んでも、諦めてたまるかっ!)
せめて魂は、意思は死ぬまいと、少年は嵐と戦った。
バキンッ!
雷とは違う『音』が聞こえたのは、少年が船の破片にしがみつく事に成功した時だった。
次いで真昼のような光が暗い海を照らした。
塩水がしみる目を何とか開けて空を見上げた少年は、てっきり雷の光だと思っていた。
だから空を見た。
黒い雲は次は何処が光るのかと。
まさかその雲から『人』が落ちてくるとは思いもせず。
◇◇◇
"空気"が変わった。
熱さから寒さ、息苦しさから重苦しさ、狭さから広さ。
解放されたかのような空気は湿気を多分に含み、叩きつけてくる水気に『外』なんだと認識した。
《って、おいヘタレ!?》
一瞬で変わった空気に思考を巡らせた"赤"は、そこで自分の片割れが気絶している事に気づいた。
《何寝てんだ!おいっ!》
舌打ちしつつ原因を探るが、現状を何とかする方が先だと゛"身体"の支配の為に表に出る。
現在、空中。
ひどい雨の中、空と海の間に何故か放り出されたようだ。
キノコ一人が?と考えれば、すぐ側に"二つ"の反応がある。
何故か魔女の反応がないのが不思議だったが、正体を晒したくない赤には好都合。
海に向かって落ちているそのうちの一つが、気付いたかのように赤に向かって敵意を向けてきた。
いや、キノコにだろう。
まさしく『鬼』となって牙を剥き出す少女は、半分意識を吹き飛ばして"本能"だけで動いているようだ。
「面倒くさいヤツだな」
キノコと違い赤は遠慮も容赦もしない。
身動きが取りづらい空中をものともせず、クルリと回転して腕を振りかぶり。
少女の顔面を海面に向かって、拳で思い切り叩きつけた。
落下の速度から更に増したスピードで落ちた少女は、轟音とともに海に沈んだ。
水しぶきが波に飲まれ、うねる海面は元の通りに荒れていく。
しかし赤には見えていた。
水中を恐るべき速度で上昇してくる『鬼』が。
頑丈さは流石に『鬼』だと誉めてもいいが、周りの情況もわからなくなるほど意識を飛ばすのはいただけない。
「『氷河之誕生』」
海面まで後少し、というところで少女の周りに魔法を放つ。
瞬間的に冷えた水と空気。
それが異様な速さでその凍てつく波を広げた。
ビキビキと筋が入るように凍る海水。
凍った端から圧縮されるように少女を中心に固まりだす。
崩れる氷が海水に落ちる前に既に凍った氷が中心にひきつけられ、衝撃で崩れる。
ほんの数秒で小島程の大きさになった氷塊は、そのまま赤の着地点となった。
小柄な赤だかかなりの高さからの落下は体勢を整えても負荷がかかる。二本足で氷塊に降り立った時はちょっとした衝撃音が響いた。
減り込んだ足を引き抜くとパラパラと氷が舞い散る。
雨にも溶けない魔法の氷の上で、赤は濡れた髪をかきあげた。
「…海…か?」
空との境界が曖昧な四方が水に囲まれた場所。大波がうねる水面。分厚い雨雲に稲光り。
"知識"としてある海に似ているので多分海だろうと当たりをつけ、足元の氷を睨みつける。
『鬼』の少女は氷の中程に閉じ込められていた。
「死んではいないか、頑丈だな。ま、これでしばらくは五月蝿くない」
上級魔法で死ぬようなら『鬼姫』など名乗れないから大丈夫だろうと放った『氷河之誕生』だったが、思った以上の威力に内心焦った。
水と空気がふんだんにある場所とはいえ、この氷山の大きさはおかしい。
どうもまだ身体に意識が馴染んでいないようだ。
魔力が多少、扱いずらい。
そのせいで過剰に魔力を注いだ為の威力かもしれない。
「後は……」
荒れ狂う海に揺られる氷山の頂きで赤は首を巡らせた。
もう一人、落ちているはずだと。
感知で探ればかなり離れた場所を海底に向けて沈没中だった。
無視してもいいのだがキノコが煩そうだ。
多分騒ぐ。おそらく詰ってくる。反撃してやればイジける。
面倒くさい。
「『浮遊之鞠』」
距離があるので慎重に魔法を発動して、それを海から引っ張り出した。
予想よりも大きな光の球となった魔力が、金髪の少女を内包しながら浮かび上がる。
やはり魔力に誤差がある。要練習だ。
何はともあれあの人間を救助したらキノコだ。
またもや精神世界に引きこもったのではと苦い顔をした赤の耳に、暴風以外の音が聞こえた。
何だ?と音源を探れば、足下の氷山がバキリバキリと鳴っている。
『鬼姫』が暴れているのだ。
「……なんだろうな……どうしたら止まるんだよ?」
溜息をつきつつ魔法への意識を途切れさせないよう注意しながら警戒を強める。
上級魔法で止まらないなら、最上級か災害級。下手をしたら禁断級までいかねばならないかもしれない。
この海が一体何処なのか解らないうちは、自然界に影響が出やすい魔法は使わない方が良いだろう。
「……四肢を落とすか?」
『鬼』は闘争本能が強い種族故に、一度興奮状態になると見境がなくなる。
手っ取り早く目覚めさせるにはダメージを与えるのが一番だ。
先程の打撃でも目覚めないなら動きを封じる為に手足を落とそうかと考えて、落とした手足を繋ぐ手段が無いことに赤は嘆息した。
『治癒』や『回復』といった力は、能力ではなく身体能力向上や回復力に回したので他人には使えないのだ。
簡単に言えば身体の一部なので分け与えられない。
『鬼姫』を達磨にするのに赤は何とも思わないが、キノコが騒ぐのが目に見える。
ジメジメと泣くのはうっとうしい。
そうこうしているうちに『鬼姫』が氷を突き破り、上半身が這い出してきた。
しかし魔法のダメージがあるのか覇気が減り、多少理性が戻ったかのようにも見える。
荒い呼吸の中でもまだブツブツと呟く姿は、異様だ。
「…キ、ノコ…キノコ…わたしが……たすけ……たべて……っ…っ……」
恋慕にしろ執着にしろ、『女』は恐いものだと赤は感じた。
ボロボロの体で呟く内容は薄気味悪い呪言に聞こえるし、フラフラ近づいてくるのは狂人のように覚束ない動きで怖い。
関わりたくないと切に願う。
それでもー。
「…説得、してみるか…」
やるだけはやろうと、赤は覚悟した。
最悪、努力した事実があれば『鬼姫』を殺してもキノコに責められる事はないだろう。
それでも責めてきたら殴ればいい。
能力の『楽園楽聖』で"声"に精神作用効果を持たせ豪雨でも音が通りやすくし、『仮面人生』で演技力をあげる。
も一つおまけで『魅惑威光』を使いフェロモン系を上げる。
そもそもの原因はキノコの察しの悪さだ。
『角』がないだけで『鬼姫』だと分からないあいつが悪い。
だから最初からやり直すつもりで、対峙し宥める。
澱んだように黒い『鬼姫』の瞳を見つめ、赤は一言発する。
「…あれ?もしかして鬼姫様ですか?」
"キノコ"のように、とぼけた口調で。
わざとらしく小首を傾け、可愛らしさを演出して。
同じ顔で同じ身体、同じ声だからできる擬態だ。
正直やりたくない技だが、さっさと鬼姫を黙らせて状況確認に入りたいのだ。
ピクリと反応した鬼姫はようやく焦点を赤に合わせて、茫然とした。
まばたきを一度してから小さく応える。
「………………っ………?……キノコ…」
(かかった!)
邪悪にほくそ笑みながら『キノコ』のふりを赤は続ける。
「"角"がないから違う人かと思いました。どうしたんですか?"角"」
「ッ!……あ、あぁ……つの?……」
「はい。だから最初分からなくて…きれいでカッコよくて僕好きだったのに、無くなったんですか?"角"」
「きれい……カッコいい………?…すき………………」
繰り返し呟く鬼姫は先ほどとは違い理性が戻ってきている。
そう核心した赤は更に畳み掛ける。
「せっかく鬼姫様に会いに来たのに、違う人がいたからビックリしたんですよ?どうして僕を騙したんですか?僕悪い事しましたか?」
「…ち、違う、の……そうじゃないの……あの……」
「僕が『どなたですか?』って聞いた時に教えてくれたら良かったのに……いきなり襲われて……僕、怖かった……」
見事に自分の所業は棚上げして鬼姫を責める。
悲しげな演技に騙された鬼姫が急速に正気に戻っていく。
戻りながらも冷静ではいられないらしく、焦りながら謝罪をはじめた。
「あ、あのねキノコ…私、勘違いして……ご…ごめんなさい……襲ってごめんなさい……」
「怖くて、僕、また死んじゃうかと…」
「っ!……ごめ、ごめんなさいっ…」
「もう、しませんか?」
「し、しないっ……大丈夫、もうしないから……ごめんなさい!……」
「……本当に?」
「本当にっ……キ、キノコにひどい事、しない!……信じて……」
ついさっきまで牙むき出しで襲いかかってきたヤツが『信じて』もないだろうと内心思うが、プライドの高い『鬼』が泣きそうになっている現実に少しだけ溜飲を下げた。
プルプルと小刻みに震え、雨に濡れる様は捨てられた子犬のようで赤の加虐心をくすぐるが、程度を間違えるとこういうタイプはキレるので。
ここらで手を打つ。
「…じゃあ、信じます。二度目はありませんよ?鬼姫様」
ニッコリと笑って釘を刺す。
キノコなら言わないだろうが、猪突猛進の『鬼』は自制が効かない事が多々あるのでこのくらいして言質をとる必要があるだろう。
赦されたと感じたのか幾許か輝いた瞳を向けて、鬼姫は拳を胸の前で握る。
どうでもいいが、はち切れそうな胸の大きさだと赤は思った。
自分もだが彼女もびしょ濡れだ。
纏わり付く服のせいで身体の線がハッキリ分かり、デカイ胸が揺れている。
それでも魔女の方がまだデカイな、と女性に対して失礼な事を赤は考えた。
「う、うん…約束する」
「破ったら、残念ですが……」
「破らない!守る、から!……キノコの言う事、守るからっ!」
「ありがとうございます」
(よし、堕ちた)
安堵と決意を無表情ながら浮かべる『鬼姫』に赤は口角を上げた。
これでキノコが馬鹿をやらない限りは『鬼姫』が敵対することはないだろう。
嵐の海という現状が理解出来ないうちは味方は多い方がいいし、暴れるなんて論外だ。
金髪の娘を氷山まで運び、とっととキノコを起こしてこの後の事を考えよう。
落ち着いた鬼姫も、ようやっと現状を認識して目だけで驚いている。
何が起きて、何故この場所に、何故三人だけが?
(洞窟から海……確実に『転移』させられたな…誰にだ?)
巻き込まれたのか、巻き込んだのか。
止まぬ嵐がこの先の面倒を暗示しているようで、赤は頭痛がした。
◇◇◇
突如現れた『氷』に少年は驚愕し、力が緩んでしまって船の残骸から手を放してしまうところだった。
寒さがここまでくるから、それほど離れてはいないのだろう。
荒い息に白さが混じる。
残り少ない体力で水没は免れたが、限界は近い。
ならばどうする?
限界を迎えて沈むか?潔く手を放すか?凍え死ぬか?
荒れ狂う海にしっかりと存在する山のような『氷』。
不可思議な、異常な、ありえない『氷山』。
まるで陸地のようなそれを少年は睨みつけた。
震える。
手が、足が、身体が、寒さで震える。
死への恐怖で震える。
だから睨む。
生きたいから睨む。
唯一震えない視線で、陸地を睨む。
睨みつけて、視線を外すまいと誓う。
待っていろ!そこまで行ってやる!
波に乗りながら、少年は『氷山』に向かって泳ぎ出した。
赤は女性に興味はありません。
『生物』の範囲外の生命体なので。
鉄拳制裁は老若男女にかまします。
『楽園楽聖』『仮面人生』『魅惑威光』が揃うと詐欺師か党首か教祖にジョブチェンジ出来ます。
大成するにはステータスの他にレアスキル『幸運内包』が必要になります。
ちなみに赤の能力には『幸運内包』はありません。なので適度に不運です。
 




