冬を越えて
ザリオン王国は暦の上ではすでに春に入っていた。
北国の長い冬を越え、ようやく分厚い雪雲もなりを潜ませ、川の氷が溶ける春。
待ちわびた春。
けれど今年の春はまだまだ遠かった。
◇◇◇
「深刻な燃料不足です。既に凍死者が出ています」
「東部での雪崩ですがやはり現地に派遣する兵士の……」
「吹雪のせいで物流が止まったのは仕方ありませんが、備蓄だけではいつまでもつか……」
「雪の重みでの家屋倒壊は現在までに42!それに伴う死者は257名!行方不明者63名になります!」
「陛下っ!越冬隊が音信不通です!遭難したものとみます!」
「避難民を王宮でこれ以上受け入れるのは危険です。食料、燃料もそうですが、貴族と庶民を一カ所に纏めるには問題が…」
喧々囂々と飛び交う報告なのか陳情なのか叫びなのか分からない声。
バタバタと走る音、舞い散る書類。
ザリオン王宮の広い会議室は人で溢れていた。
半月前から会議を続けても解決の糸口すら見えない議題。それについて皆が皆頭を抱えていた。
人が溢れていて騒ぐなら熱気でも生まれそうだが、室内は凍えるように寒く。
分厚いカーテンで閉じた窓はとうに凍り付き、その向こうでは吹雪が嘲笑うようにごうごうと吹きすさび。
巨大な暖炉で燃える大きな火すらその音だけで消し飛んでしまいそう。
些かも温まらない室内で防寒着を着込んで渋面を作るザリオン国王は、次々とのぼってくる案件に溜息をついた。
ザリオン王国は夏を迎える頃になっても雪に閉ざされていた。
◇◇◇
同じ頃。
陽光に照らされた美しい林。輝く泉。
常春のような柔らかい暖かさに包まれた場所には、小さな家が建っている。
少し前なら、元気に走り回る小さな子供が見えたそこは、現在重苦しい空気だけが漂っていた。
明かりが消えたような家の中、どことなく荒んだ居間や台所、ごちゃごちゃと物が転がっている中を進むと大きな水槽がある部屋に出る。
ただの水ではないモノで満たされた水槽には、これまた珍妙なモノが浮かんでいた。
見た目は"肉の塊゛。
桃色とも赤黒いともいえるような塊は丸く、赤子くらいの大きさで水の中を漂っている。
ただ時たま脈打つように鳴動する様は心臓のようにも見える。
ガタンと音がして人影が水槽の前に腰を下ろした。
やや艶を無くした赤毛を豊満な胸元まで伸ばして、惜し気もなく晒した肉感的な長い脚を組む女性。
『語られる魔女』シルドレス・バイバーハン。
彼女の赤茶の瞳は水槽の肉塊を見つめる。
諦めたように、心配するように、信じるように。
縋るように。
じっと見つめている。
◇◇◇
洞窟からの緊急連絡が入ったのはシルドレスが昼食を用意していた時だ。
キノコをお使いに出す事になってからは、住人達にそれぞれ連絡用のマジックアイテムを渡しておいた。
もちろんキノコ関係の連絡だけにしか使わないように厳命しておいたので、内容はキノコの事でしかない。
急いで向かった先には、目も当てられない惨状のキノコが倒れていた。
謝罪を繰り返すギリルには犯人達の拘束を託し、すぐさまキノコを連れ帰り出来うる限りの治療を施した、
けれどキノコは目覚めず、人間の姿を保てなくなったのか、肉塊に戻ってしまった。
脈動があるから少なくとも死んではいないのだろうが、辛うじて生きているといったところだろうか。
血のように染まった髪、身体に突き刺された二本の剣。ちぎれた足、えぐられた目。
小さな子供の体を襲った行き過ぎる暴行。思い出す度に灼熱のような怒りで神経が切れそうになる。
(……違うわね…自分に、怒ってるだけか……)
もちろん加害者である人間達には怒りしかない。
けれどもそれ以上に自分自身に対して嫌悪の怒りが湧いてくるのだ。
(自分のダンジョンだから大丈夫…装備も手回しも万端…キノコも強い……何より"私"がいるのだから………その過信が、このザマか……)
プカプカと浮かぶ肉塊がその傲慢の代価だ。
永年の研究成果が一瞬で砕け散った。
そうして自分の馬鹿さ加減に怒りながらも、その心にはまだ微かに自身を憐れむ想いがある。
頑張ってたのに。頑張ったのに。可哀相に。こんなことになって。酷い。
また最初から。また頑張らなきゃいけないなんて。どうして私ばっかり。
自分が悪いのに、自分を擁護する、自分勝手。
(本当に…救いようがない馬鹿だ…)
自分に怒り、自分を慰め、自分を嫌悪して、自分を励まして。
自己完結も極まったものだ。
俯き頭を抱え、実験器具が散乱する机に突っ伏す。
(こんなことになっても…まだ私は自分の事だけしか考えないなんて……被害者はキノコなのに……最悪の親……親じゃないわね、こんな奴)
意識が戻らないキノコではなく、研究が破綻する恐怖に心が傾いているのだ。
まさしく『魔女』じゃないか。
なんて醜い、なんて汚い魔女だろう。
「…ハハッ……」
自嘲の乾いた笑いが知らずに漏れる。
『フフッ。ずいぶんと萎れているね?シルドレス』
「っ!!」
突如聞こえた忌ま忌ましい"声"にガバリと顔を上げる。
室内にはシルドレス以外の人影はない。
水槽に実験器具、薬品棚に大小様々な壷や瓶。窓のない部屋は薄暗いランプの明かりに照らされており、隅の方は闇に沈んではいるが、生物の気配はしない。
となれば……。
("声"だけで来たか…)
『そうだよ、今回は声だけを届けてる。僕の姿は残念ながら見せられない。ゴメンね?』
何故か謝ってきているが、その馬鹿にしたような口調はシルドレスを完全に見下している態度だ。
ニヤついているであろう相手に苦虫をかみつぶしたような顔でシルドレスは吠える。
「何の用だっ!?」
『フフッ、そんなに怖い顔しないでよ。心配してたんだよ?これでも。なんだっけ…君の実験体の……まあ、いいや。それが壊れちゃったんでしょう?大変だったね』
「お前には関係ないっ」
『やだな。だから怖い顔は止めてよ?痛い思いしたいの?』
「気に入らないなら殺せっ!お前のご機嫌伺いなんて真っ平だ!」
『…なんだか本当に自暴自棄だね?いいじゃない、壊れたって。また作れば?』
ひどくあっけらかんとした言葉にシルドレスは頭に血が上るのを抑えられない。
『入れ物は残ってるんだ。また違う意識体を融合させれば上手くいくんじゃない?君は天才なんだから大丈夫だよ』
「それではキノコが消えるだろうがっ!何が大丈夫だっ」
『フフッ、嫌だなシルドレス。君だってそうしようと考え始めているくせに。壊れたなら作り直す。当たり前な事じゃない。まあ、全く同じものじゃないけどね。今度は上手く作れば良いだけだよ』
「っ!…」
『何を常識人みたいに苦悩してるのさ?君がその実験の為に何をしたか。忘れたの?その一塊の"肉"を作るために、何をしたの?』
シルドレスは息を飲む。
「今、それは関係ないっ」
『関係あるよ。逃げちゃダメだよ?君は利己的な自分に辟易しているみたいだけど、そうじゃなかったらここまで来れなかった。だから自分勝手にやればいいんだよ。何も気に病まないで、また作れば良いんだ。今までと同じだ。ほら、気が楽になったろう?』
「うるさいっ!黙れっ!」
叫びとともに室内を閃光が走る。
稲妻が駆け巡り棚や壷を破壊していき、ランプが壊された事で辺りは闇に包まれる。
『怖いな。ストレス溜まってるんだね。適度に発散した方が良いよ?』
「……っ…」
『ああ、ストレスで思い出した。落ち込むのはいいけど周りに影響出さないで欲しいな、シルドレス。君の魔力が溢れてるせいで、その辺一帯異常気象だよ?夏なのに猛吹雪で皆迷惑してるよ?』
「……知るかっ!」
『フフッ、そうか。知らないなら良いよ。僕も関係ないしね。一応注意はしなきゃいけないだけだから』
シルドレスを宥めるような"声"には隠しようのない笑いが含まれていた。
『既に千人単位で死者も出てるよ?また、その"肉"に喰わせたら良いんじゃない?君がそのために起こした過去の戦争みたいに……』
「消えろっ!!」
暗い室内を今度は突風が吹き荒れる。
風に逆立つ赤毛を炎のようにはためかせ、虚空を睨み付けながらシルドレスは更に叫ぶ。
「いい気になるなよっ"詐欺師"!必ず貴様から全てを奪ってやる!」
竜巻のような風の中に、"声"が響き渡る。
『フフフッ!勿論だよ!早く僕から『全知全能』を取り上げてご覧?でもね、そんなことをしても『神様』になんてなれないよ?わかってる?わかってるよね?シルドレス・バイバーハン!君は永遠に『魔女』なんだよ!!『神』の座を奪うのは無理なんだよ!!』
◇◇◇
「……疲れた……」
言葉にすると余計に疲労感が増す。
なにもしたくない。何も考えたくない。
とりあえず魔法で明かりを生み出す。
散らかりまくった室内をゆっくり見渡し、水槽の無事を確かめて、肉塊が浮かんでいるのに安堵した。
(この安堵すら……自分への安堵。キノコの無事を喜んでいるんじゃなくて、自分の研究がまだある事への……)
深い溜息をつく。
あの時のように、またもや実験と研究の算段を始める自分の『万知万能』を何処か遠い場所のような心で感じていた。
(あの時、は……キノコは帰ってきた……)
けれど今度はどうだろう?
意識を呑まれるのと、意識を壊される。どちらが重症だろうか。
少なくともシルドレスなら、いや、普通なら『殺された』世界に帰りたいとは思わないだろう。
よほどの意思と執着がなければ。
キノコは強いが気弱な方だった。
本当の家族ではないシルドレスにどこか遠慮して、毎日は窮屈だったかもしれない。
菌類のままで朽ちていくのを、何処かで望んでいたかもしれない。
争いを嫌うのに戦う術を叩き込まれて辟易していたかもしれない。
シルドレスの醜悪さに気付いていたかもしれない。
逃げたかったのかもしれない。
人造人間をやめたかったかもしれない。
(……キノコ……)
人並みに生きていた頃はずいぶんと昔で、誰かと生活するなんてのはその頃から数えても二回だけ。
シルドレスを愛してくれた人と、キノコだけだ。
(また一人になっちゃった……)
ザブンッ!
「……?」
何かの音に意識が戻された。
水音、だろうか。
水音?
「!?」
慌てて明かりを増やして室内を真昼のようにする。
グシャグシャになった部屋に鎮座する大水槽。
さきほどまで浮かんでいた肉塊は、その中で相変わらず漂い……。
(いない!?)
肉塊は水槽の中には見あたらなかった。
もぬけの殻だ。
波打つ水面がザブザブと揺れるそこから目線を下げると…。
「……ぁいたー……」
水槽の外、床にうずくまる子供がいた。
ずぶ濡れで裸で、震えている小さい背中。
「…滑っちゃいました…。お尻…痛いっ」
小さく苦悶する声。
聞き慣れた肉声。
人造人間の声帯を震わせる意思の声。
「…魔女さん?また泣いてるんですか?」
葡萄色に輝く二つの瞳。
柔らかい笑顔でシルドレスを呼ぶ。
「キノコ…」
春の暖かさを纏った子供が、帰ってきた。
魔女さんの口調は本当はこんな感じです。普段は演技してます。
ボンッキュッボンッでスラリとした脚が自慢です。




