依頼
応接室を覗くと一人の女性が座っていた。
「どうやら、お客さんみたいですね」
岡崎さんがそう言った。事務所には他の社員はいない。皆まだお昼から戻ってきていないらしい。
「野上さん、あの女性は何時からいますか?」
岡崎さんは野上さんに問いかける。野上さんは壁に掛けてあるアナログ時計に視線を移す。十二時五十分を示していた時計の長針、短針、秒針が逆回転を始める。時計は十二時五分二十一秒を示してピタリと止まった。野上さんは視線をこちらに戻す。岡崎さんは再び訪ねた。
「あの女性の名前は聞きました?」
「こむら」
「ありがとう」
岡崎さんが野上さんにお礼を言う。止まっていた時計の針がまた回転して元の時刻まで戻ると何事もないようにカチカチと時を刻み始めた。野上さんは、また僕をじっと見る。まだ何か言いたいことがあるのかと思っていると、くるりと背を向けスタスタと自分の席に戻ってしまった。
「あの女性は、おそらく明日会う予定の方でしょう。私達が休憩している間に来られたみたいですね。まだ誰も戻っていないみたいだし、これ以上待たせるわけにもいきません。私達でお話を伺いましょう」
「僕も一緒でいいんですか?」
「はい、何事も経験です。質問などは私がします。横にいてやり方を見ていてください。メモとペンを忘れずに」
岡島さんと僕は応接室に向かった。こうして僕は勤務初日にして怪奇な事件にかかわっていくことになる。
「お待たせして、大変申し訳ありません」
岡島さんと僕は待たせてしまったことを女性に謝罪した。
「いいえ、私のほうが明日がいいと言ったのに突然来てしまって」
女性も頭を下げる。頬はやせ細り、目には濃いクマができている。おそらく何日も眠っていないのだろう。
「私は岡崎、こちらはナナシと言います」
岡崎さんに紹介され、僕は頭を下げる。
「お客様は小村様で間違いないでしょうか?」
女性は頷いた。小村と名乗った女性の体がわずかに震えだす。
「依頼はメールで内容は確認いたしました。しかし、お手数ですがもう一度説明していただいてよろしいですか?メールした時と比べてもし状況に変化があれば、それも含めてお話しください」
もう一度説明させたのはおそらく僕に聞かせるためでもあるだろう。僕はメモとペンを取り出す。
「奇妙なことが起き始めたのはちょうど一年ほど前からです。最初は家の前で黒い人影のようなものを見かけるようになりました。それがだんだん家に近づいてきて、今では家の中をうろつくようになりました。それと同じころから『死ね』だの『殺す』だの変な声も聞こえだしました。周りも見てももちろん誰もいません」
小村さんの口調は緊張のせいで自然と早口になる。
「そして、十日程前に首を絞められたんです。寝てたら突然。必死に抵抗したら、いつの間にかいなくなったんです」
小村さんは自分の首を見せる。そこにはくっきりと手の形の痣が残っていた。
「これが見えますか?」
「はい、見えます」
「ぼ・・・私にも見えます」
小村さんが安心したようにほっと息を漏らす。
「もう耐えきれなくなって、家族や友人にも相談しました。でも誰も気味が悪がるばかりで、真剣に相談に乗ってくれる人はいません。この痣も皆に見せましたが、誰にも見えませんでした。『疲れてるんだよ』とか『いい病院紹介しようか』とか皆私が変になってと思っています」
小村さんの目から涙がぽろぽろと溢れ出す。岡崎さんはポケットからハンカチを取り出し、小村さんに差し出す。小村さんはお礼を言って、涙を拭いた。
「実は変なものを見るようになってから、何人かの霊媒師の方にも見てもらったのですが、一向によくならずお金ばかり取られました。自分がおかしくなったと思って精神科に行ったこともありましたが、そこで頂いた薬を飲んでも、効果はありません。もう諦めかけていた時、ネットでこの会社のことを知ったんです」
小村さんが顔を上げる。目は涙であふれ、頬は赤かったが、希望に満ちた目をしていた。
「私には、ここしか頼れる所がありません。どうか助けてください」
そういうと深々と頭を下げる。そんな様子の小村さんを見て岡崎さんは優しく声をかける。
「顔をお上げください。お辛かったでしょう。でも、もう大丈夫ですよ」
小村さんはまた泣き出した。それは、先ほどとは違い安心したことによる涙だろう。小村さんはしばらく泣き続け、僕たちは彼女が泣き止むまで待った。
「お見苦しいところを見せてしまって、申し訳ありません。では、よろしくお願いします」
そう言い残すと彼女は帰って行った。今、彼女はホテルに寝泊まりしているらしい。
彼女が帰ってくるのと入れ違いに、社長が帰ってきた。社長と岡島さんと僕と三人で話し合う。
「実際に調査してみるまでは分かりませんが、彼女の首の痣を見るにそうとう力の強いものだと推測できます。思ったよりも、この依頼は危険かもしれません。ナナシ君はここに残ったほうがいいかもしれません」
危険だと聞いて僕は一瞬躊躇するが、依頼者の涙を思い出す。
「僕は大丈夫です。どうか一緒に調査させてください」
社長は、にやっと笑う。
「ナナシはやる気満々みたいだな。岡島、様々なことを経験した人は成長するものだ。二人で調査してくれないか?」
「本人がいいというのなら構いません。私ができるだけサポートします」
「それでは二人に調査を命じる。絶対に解決すること。いいな!」
「はい!」
僕はやる気に満ちていた。彼女のためにも早く事件を解決してやりたい。
「まずは彼女の家に行ってみましょう」
岡島さんが先ほど聞いた依頼者の住所を確認する。幸いここからそれほど離れてない。
僕達は事務所を出ようとした。そのとき何かが僕の袖をくっと引いた。後ろを振り向くと野上さんが立っており、僕をじっと見ている。
「な、何ですか?」
少し緊張して、野上さんに訪ねる。彼女は三センチ程の小さな正方形の紙を差し出してきた。僕はそれを受け取りよく見る。しかし何の変哲もない紙のようだった。
「これは何ですか?」
僕が質問すると、野上さんは首をぐぐぐっと九十度に傾けた。そして勢いよく元に戻す。意味が分からないのでなんだか怖い。
「ぶな・・・・たら・・・・あい・・・お・・・・ける」
野上さんが何か言ったが、よく聞き取れない。聞き返そうとしたが、自分の席に戻ってしまった。
「行きますよ」
先に行った岡島さんの声が聞こえた。はい、と返事をして僕は野上さんにもらった紙をポケットに入れて駆け出した。