丑三つ時
依頼者の三橋さんが帰った後、社長に連絡しようとしたが、この村には電波が届かないことを思い出した。部屋には電話がなかったので、しかたなく宿の電話を借りることにした。
「すみません、電話をお借りしたいのですが」
「はい、こちらの電話をお使いください」
女将が指をそろえて示したのは、古い黒電話だった。
『ご苦労様、話はちゃんと聞けたか?』
「はい、依頼者の三橋さんは今、帰られたところです」
『そうか、依頼内容に変更は?』
<事件について>と書かれた書類に今回の依頼の内容は、すでに書かれていた。依頼内容を直接聞いたが、大きく変わった点はなかった。
「いえ、事前の内容通り、化け猫を再び封印することでした」
『そうか……で、やれそうか?』
「……はい!」
力強く返事をすると、受話器の向こうで社長は「ふっ」と笑った。
『では、好きなように動け!もし、何かあったらまた連絡しろ』
そう僕に激を飛ばし、電話は切れた。
部屋の戸を開けると、野上さんが立っていた。
正直予想はできていた。僕だって学習する。そう何度も驚きは……。
「うおわー」
変な悲鳴が出てしまった。
野上さんは二十センチ程の魚に似た怪奇生物を手掴みしていた。まだ生きておりピチピチと暴れている。髪の毛でも数センチ程度のものを何匹か捕まえていた。
「どうしたんですか、それ?」
僕が訪ねると野上さんは窓を指差した。窓は空いており、そこから部屋の中に小型の怪奇生物が何匹も侵入しかけていた。慌てて追い出し、窓を閉める。
まったく、この部屋は彼らにとってよっぽど住み心地がいいのか?昼間に野上さんが全部退治してくれたのに、また集まってきた。なんでだ?
「ふー」とため息が漏れる。ふと気付くと野上さんが怪奇生物を捕まえたまま、こちらを見ていた。
「な、なんでしょう?」
野上さんは僕を指差した。いや、よく見ると僕のお腹を指差している。
「……く……じ」
どうやら食事と言っているらしい。
そういえば、ここに来てからまだ食事をとっていなかった。三橋さんとの打ち合わせですっかり忘れていた。意識すると不思議なもので、空腹感が湧いてきた。
「……く……じ」
野上さんが再び怪奇生物を突き出してくる。気持ちは嬉しいが食べたくはない、どうやって断ろう。
「すみません、今そんなに食欲が……」
「……く……じ」
「え~と、あの……」
「……く……じ」
「え~と……」
「……く……じ」
いよいよ逃げ場がなくなってきた。会社にはルールがある。そのうちの一つが先輩の言うことは絶対ということだ。いよいよ腹をくくらなければいけないのかと思ったその時。
「お客様、よろしいでしょうか」
女将の声が聞こえた。逃れるチャンス。
「どうぞ!」と返事をした。思わず大声になる。
「お食事の注文がありませんでしたが、よろしいのでしょうか?」
「すみません、忘れていました」
「でしたら、簡単なものでしたらご用意できますが」
まさに渡りに船だ。これを逃す手はない。
「そうですか!よろしくお願いします」
女将はニッコリ笑い、「すぐ用意いたします」と言って去って行った。
「すみません、食事を用意してくれるそうなのでせっかくですが……」
野上さんは少し残念そうな顔をすると、捕まえていた怪奇生物を全て喰らい尽くした。
簡単なものと言ってきたが、出てきた料理はおいしかった。野上さんにも勧めたが、少し匂いを嗅ぎ、僕の顔をじっと見た後、首を横に振った。
全て平らげた頃、再び女将がやってきた。
「時間も遅いですが、この宿自慢の温泉がございます。ご案内いたしますので、よろしければ汗をお流しください」
温泉か、せっかく宿に泊まったことだし入ってもいいかもしれない。
「では、お願いし……」
突然、手をギュと握られた。振り返ると野上さんが僕の手を握っていた。彼女は僕の目をじっと見た後、首を横に振った。「行くな」と言いたいのだろうか?でも、どうして?
「お客様?」
「あ、いえ、やっぱりいいです」
「ですが、いい温泉なんです。是非」
女将はなおも、勧めてくる。
野上さんは握っていた僕の手をさらに強く握った。
「いえ、せっかくですが……」
「そうですか……」
女将は残念そうに「では、お休みなさいませ」と言って去って行った。
野上さんは再び部屋の隅で眠ってしまった。
疲れたのか、急に眠気が襲ってきた。時間を見るともう零時になろうとしていた。明日の仕事もあるので、もう眠らなければならない。僕は押入れから布団を敷しいた。
問題は野上さんだ。彼女は普段どのように寝ているのだろうか?寝ている彼女に話し掛けてみる。
「すみません野上さん、よろしいでしょうか?」
野上さんは目を開け、僕をじっと見る。
「僕はもう寝ますが、野上さんはどうします?もし布団で寝るなら野上さんの分も敷きますが?」
野上さんは僕の布団を指差す。
「い……しょ……に」
それは流石にまずい、僕はもう一式布団を敷いた。
僕はトイレで宿にあった浴衣に着替える。野上さんもいつの間にか浴衣姿になっていた。人間ではないとはいえ、女性と同室で寝るというのは初めてだ。
ただでさえ、普段から寝付きはいいほうではない。緊張で眠れないかもしれないと思ったが、よほど疲れていたらしい。布団に入り、電気を消したら僕はすぐに深い眠りに落ちた。
野上は元神だ。
本来は眠る必要はない。彼女が眠っている時は退屈で何もすることがない時だ。
野上はふと隣を見る。隣にはナナシと呼ばれている本来の名前を失った青年が深く眠っている。暗闇の中でも彼女には彼の顔がはっきり見えた。しばらく彼の顔を眺めた後、野上は布団を出る。
彼女は四つん這いで彼の布団まで歩いた。そして今度は彼の顔を真上からじっと眺める。
不意に彼女は目を閉じ、耳に掛かっていた黒髪をかき上げる。
そしてゆっくりと、自分の唇を彼の唇に重ね合わせた。