邂逅
こんな夜中に外に出るんじゃなかった。
最近は、あまり見かけなかった。見てもせいぜい数センチの奴らばかりだった。だから油断してしまった。まさか、近所にこんな大物がいたとは全く気付かなかった。
そいつは初め巨大な黒い塊だった。それが形を変えながらこちらに向かってくる。昔、学校で習ったアメーバを連想させた。とにかく今は逃げるしかない、僕は全速力で走る。でも奴のほうが速い。あっという間に追いつかれる。
僕は徐々に影に飲み込まれる。その横を自転車に乗った男性が横切る。助けを呼ぼうとしたが声が出ない。男性は僕には全く気付かず横を通り過ぎる。黒い塊につかまった時点で周りからは見えなくなっているらしい。
そして、遂に全身が影に飲み込まれてしまった。僕は全てを諦めた。
「親孝行できなかったな」
最後にそんなことを思いながら、僕の意識は途絶えた。
僕が目を覚ますと、辺りは明るくなっていた。会社に通うサラリーマンや学生が僕の側を歩いていた。僕は立ち上がると自分の体を見回したが、特に目立った外傷などはなかった。ほっと一安心する。僕はとりあえず家に向かって歩き出した。
しばらくは何ともなかった。しかし、だんだん足が重くなっていく。僕は足の状態を確認し、言葉を失った。足がわずかに透けていた。足だけではない、よく見ると手も透けていた。僕は半分パニックになったが、昨夜のことを思い出す。あの時、奴に何かされたのだ。
足を引きずりながら歩く、途中何人かとすれ違ったが、足を引きずる僕を見ようともしない。不審に思い、道路に止めてあった車のサイドミラーを覗き込むが自分の姿はそこに写っていなかった。僕の存在は周りから消滅していた。
とうとう僕は動けなくなってしまった。体はすっかり薄くなる。せっかく助かったと思ったのにあんまりな仕打ちだ。しかし、元はと言えば不用心に外に出てしまった僕にも責任がある。
色々なことを考えていたが、意識も次第に薄くなっていくのが分かった。瞼が重くなり目を開けているのもつらくなる。僕は目を閉じ、終わりを待つ。
「これは珍しい、初めて見るな」
誰かの声がした。僕はもう誰にも見えなくなっているはずなのに?
不思議に思い目を開ける。視力はほとんど失われており、ぼやけてよく見えなかったが、誰かが僕の目の前に立っていた。その誰かは倒れている僕の上半身を抱え起こすと、口の中に何かを捻じ込んだ。
「んぐうううう」
口の中で何かが生き物のように動く、思わず吐き出しそうになるが口を無理やり閉じられて吐き出すことができない。
「はい、吐き出さないで一気に飲み込む!」
飲み込みたくはなかったが、このままじゃ息が苦しい。思い切って一気に飲み込む。
ごくんと何かが喉を通る。
「ごほっ、何するんですか」
僕は目の前にいる誰かに文句を言う。そこで気が付く、ぼやけていた視界が回復していた。
自分の体を見回すが、どこも透けていなかった。完全に元に戻っている。
「間に合ってよかった。あと三十分遅かったら危なかったよ」
もう一度目の前にいる人物に視線を向ける。百七十センチをおそらく超えている。カジュアルな服装に着ていており、外見は今風の若者に見える。性別はおそらく女性だろう。
「何を飲ませたんですか?」
「初めに言うことがそれ?命を助けてあげたんだから他に言うことはないのかな?」
思わず恥じる。そうだ、お礼をまだ言っていない。何をされたか知らないけど。
「すみません、ありがとうございました」
僕がお礼を言うと彼女は笑い出した。
「あははははは。君は素直だね。いいよ、それはサービスだから」
「あなたはいったい?」
僕の質問には答えず、彼女は逆に質問してきた。
「君を襲ったあれはなんだと思う?」
「ご存じなんですか?」
「君は見える人間だよね」
「はい」
昔から変なものはよく見た。他の人間には見えないそれらは当たり前のようにそこらじゅうにいる。しかし、それらは決して恐ろしいものではない。ほとんどがおとなしく、ただ歩き回っているだけだ。こちらが近づくと逃げ出す者もいる。
襲われることも時々あったが、手で振り払えば大抵追い払うことができた。あのような大物に襲われることは数えるほどしかない。
「あれには色々な名前がある。黒影とか水闇だとかね。でも正確なことはよく分かってないんだ。でも一つだけ分かっていることがある。人を襲ってあるものを喰うんだ」
「あるものって?」
彼女は僕を見て訪ねる。
「君、名前は?」
僕は彼女に自分の名前を答えようとする。しかし、答えることができなかった。唖然としている僕に向かって彼女は言った。
「あれは人の名前を喰うんだ」