第44話「砂の盤上の手番」
巨大な砂の山脈という城壁。その裏側に隠されるようにして、果てしない砂漠が広がっていた。目も眩むような高さから見下ろせば、巨大な砂丘さえも風化した塵の山に過ぎない。荒涼とした山頂が、恐ろしいほど近くに迫り、手を伸ばせば届きそうな錯覚を覚える。
遥か眼下では、大地の裂け目である深淵が山脈の裾野まで蛇行し、岩の喉元を小さな砂漠が取り囲んでいた。
上層都市は、太陽の反射光が作り出す小さな光の束に過ぎなかった。あの男の瞳には、そう映っていた。あまりにも遠く。あまりにも、卑小だ。
ゴオオオオッ……!
風が藍色のオーバーコートを激しく打ち据え、重厚な布地が狂ったように舞い踊る。だが、男は揺るがない。黄金の鋼鉄で作られた小さなプラットフォームの上で、まるで世界をその掌中に収めたかのような傲慢な佇まいで、ただ静止していた。縮れた髪が風に遊ばれ、手入れの行き届いた顎髭と褐色の肌を縁取る。その唇には、風景を完全に支配する者の証――極上の笑みが刻まれていた。
男は深く息を吸い込む。肺が、この高度特有の希薄で冷たい空気で満たされる。そこは、人の領域ではない。階段も、エレベーターも、従来の移動手段など何一つ存在しない場所。三本の黄金のオベリスク。キサナトラを大砂海の上空数百メートルに繋ぎ止める、あの巨大な支柱の頂点だ。
地上では別々に生まれた三本の塔も、天空へ昇るにつれて収束し、遠目には一本の巨大な黄金の針として融合して見える。
その時だ。山の方角から、桃色の光が漂ってきた。それは脈動し、キサナトラの偉大なモニュメントを、まるで品定めするかのような好奇心で観察していた。
プラットフォーム上の男は、その緋色の瞳で数キロ先の光の存在を捉えていた。唇の端が吊り上がり、純粋な期待の色が浮かぶ。瞬きをする暇もなかった。距離という概念が消滅したかのように、その小さな光球は、すでに彼の背後で輝いていた。
「道に迷いましたか?」
男は振り返りもせず、コンマ数秒前まで光があった虚空を見つめたまま、穏やかな声で問いかけた。
「ただ遠くから街を見るのが好きなだけよ、ふんっ!」
光の中から響いたのは、幽霊のような、しかし甘ったれた子供のような声だった。そこには隠しきれない傲慢さが滲んでいる。男は喉の奥で低く笑った。楽しんでいるようだ。
「ええ、確かに。この街は見る分には独特の美しさを持っていますからね」
彼は完全に振り返ることなく、肩越しに視線を投げる。笑みが深くなった。
「……で?ゼルタニア?」
「あの生意気なラグラムに頼まれたこと、もう済ませてやったわ、ふんっ!」
希薄な大気を震わせ、拗ねたような声が響く。
「おや、随分と早いですね。到着に気付きもしませんでしたよ」
彼は再び、無限に広がる砂海へと視線を戻した。
「実験台にちょっとエンチャントかけるだけでしょ?そんなの、タニアにかかれば訳ないわ!」
誇らしげに胸を張るような口調だ。
「他に何か用、ヒンペリア様?」
「いいえ。十分過ぎる働きです、ゼルタニア」
その返答には、父性的な慈愛と、冷徹な計算高さが同居していた。
「いい子ですね。デュランダルへお戻りなさい」
「了解、ヒンペリア様!」
遊園地で自由に遊ぶ許可を得た子供のように、その声は歓喜に満ちて甲高く響いた。
キラキラ……シュンッ!
桃色の光が明滅し、輪郭が液状に揺らいだかと思うと、一点に圧縮され――跡形もなく消え失せた。
ヒンペリアはしばらくの間、砂漠を眺め続けていた。やがて、彼は踵を返す。洗練された笑みは崩れず、瞳はどこまでも静かだ。
「全て順調ですか、ラグラム?」
バタバタバタッ!
数歩離れた場所で、小柄な男が強風と格闘していた。青みがかったマントのフードが飛ばされないよう必死に押さえているが、その下にある体躯はあまりにも小さく、今にも折れそうだ。フードの影から覗く薄いブロンドの髪、そして深緑色の瞳が、深い疲労を湛えて主人を見つめている。
「ええ……ゼルタニアが来て……魔法を使って……すぐ行っちゃいました……」
「ゼルタニアの話でなければ、その言葉の真偽を疑うところですがね」
ヒンペリアは気にする風もなく、また地平線へと向き直る。ラグラムは視線を落とし、冷たい金属の床を見つめた。
「……具体的に、彼女に何をさせたんですか?」
「肉体操作の術式ですよ」
ヒンペリアは事もなげに言った。
「あの大精霊に、その歪みを感知されませんか?」
「可能性は高いでしょうね。ですからヴァリスと君の妹に命じて、街中に魔力を撒き散らせ、ノイズのカーテンを作らせました」
「それで足りますか……?僕は奴らの本質を知っている。大精霊の魔力親和性は、神々に匹敵する……」
ラグラムの声には、心底からの懸念が滲んでいた。
「ごもっともです、ラグラム」
ヒンペリアは頷く。その唇から、あの完璧な笑みが消えることはない。
「だからこそ、彼が魔力の痕跡を特定し、その正体に気づく前に発動させるのです。それに、彼は今頃『軍神』の宮殿で手一杯でしょうから」
ラグラムは歩み寄り、主人の隣に立った。その疲れ切った瞳が、眼下に広がる広大な砂の世界をなぞる。
「どうです、ラグラム。絶景ではありませんか?」
ヒンペリアの声は、誇りに満ち溢れていた。だが、その問いに対し、「精霊使い」は目を細める。それは肉体的なものを超えた、魂の疲弊だった。
「……僕はここが嫌いだ……早く終わらせたい……」
フッ……
吹き荒れる風に紛れ、ヒンペリアの低い笑い声が溶けていく。
「ええ。ここで全てを精算しましょう」
おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるー……コホン! エーテルです!
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